高田万由子は田中平八の末裔!
- At 7月 24, 2020
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エッ?と思われる方が殆どでしょうね。私もビックリでした^^:
以前、田中貴金属は田中平八の系統と聞き、真偽のほどを調べた事がありました。結果、田中貴金属の創業者・田中梅吉(1853年)と田中平八(1834年)とは、生まれ年からみても無関係でした。その際、代わりに繋りが分かったのが高田万由子でした。
田中平八は、1834年(天保5年) 駒ケ根に生まれました。
藤島家の3男で幼名は釜吉でした。飯田へは魚屋の丁稚奉公として来ています。
その後1853年(嘉永6年)飯田城下の染物屋の娘 田中はると結婚し、田中家の婿養子となりました。でも家業の染め物に携わった様子はありません。名古屋や江戸へ出て色々したようですが成功せず。
しかし1865年(慶応元年)横浜に開業した「糸屋平八商店」が大当たり。主に飯田地方の生糸を輸出して財を成したと伝わっています。更に、為替・洋銀・米相場で巨利を得て、通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれる様になりました。
1876年(明治9年)に東京で田中組(後の田中銀行)を創立。1878年(明治11年)には東京株式取引所を設立し、同時に大株主となっています。
1883年(明治16年)に東京米商会所(現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取に就任。この米商会所の株式を上場。これも仕手戦にして、大儲けしたそうです。
病気となり熱海で療養中には、私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設。私財でやってしまうとは、凄いですね。1884年(明治17年)に50歳の若さで亡くなりました。
平八の会社「糸屋」はその後、日本橋茅場町で⇒糸平興産株式会社として今に続いています。そういえば⇒田中貴金属も平成18年まで本社所在地が日本橋茅場町であったため、混同されたものと思われます。
飯田高校はラグビーが盛んですが、日本ラグビーの父と言われる田中銀之助は、平八の長女の子(長男)です。
ケンブリッジ大学に留学。ラグビーとの出会いは、そこでエドワード・B・クラークと出会ったのがきっかけ。
帰国後、クラークと共に慶應義塾の塾生にラグビーのルールについて伝え指導したと言われています。
飯田警察署の横に「天下の糸平」の碑があります。
この辺り一帯は田中染物店の跡地でした。広大な土地ですね。1901年、下伊那郡立下伊那高等女学校設立時に、敷地は田中家から寄付されたそうです。後の県立風越高校ですね。(高校1年の時、新聞班の交流会での記念写真。知った顔がありますかな?)
その後、飯田警察署と創造館が置かれた訳です。
平八の碑は、伊藤博文の書に寄る物が東京向島にもあります。そこへは在京支部の皆さんが、歩こう会で訪れています。⇒第12回「飯田ゆかりの地を歩こう会」
一方、高田家は・・・
祖先の高田慎蔵は佐渡の出身。4歳の時、父の同僚高田六郎の養子となり高田姓になっています。二人とも養子に出て姓が変わっていますね。
明治3年(1870年)上京、ドイツ商館アーレンス商会の丁稚となり商業の道へ。明治11年(1878年)ドイツ人武器商人のマルチン・ミカエル・ベアのベア商会に通弁兼事務官として勤務。明治13年(1880年)ベアの廃業の後を継ぐかたちで、アーレンスとスコット(ベアの番頭)と共同経営で高田商会を設立。
欧米より輸入した機械・船舶・武器・軍需品などを中心に取り扱っていた高田商会にとって、富国強兵を掲げ近代化を推し進めていた当時の状勢は追い風となり、1894年(明治27年)の日清戦争で巨額の利益を上げた。更に事業を拡大し、ニューヨーク・ロンドン・上海等に支店を設ける。ベアから欧州各国の大製造所の代理店も譲り受けており、日本海軍を大口顧客としたアームストロング社も取引先のひとつでした。
明治29年(1896年)関連会社として高田鉱業、旭紡績、永楽銀行を創設。明治32年(1899年)にはアメリカの電気機械メーカー、ウエスチングハウス社の代理店になる。東京の街灯が一夜にして電灯に変わったのは、高田商会の成せる技だそうです。
もう大手の輸入商社ですね。更に日露戦争では海軍省御用となり、軍艦等の軍需品を納め豪商となりました。有力機械輸入商社に成長し、明治41年(1908年)合資会社に改組。傘下の事業を株式会社にし、一代で高田財閥を築き上げたのです。
文京区湯島一帯は高田家の土地でした。自宅は超豪邸で、設計者は鹿鳴館を手掛けた建築家のジョサイア・コンドル。高田邸の設計図が京都大学に残っているそうです。高田商会本店(麹町)・別邸(赤坂表町)もコンドルの設計。
慎蔵の妻のたみ子は東京の商家の娘(旧姓池田)。慎蔵には七男五女の子があったが、男の子が相次いで亡くなり5男の倉蔵は養子に行くことが決まっていた。そこで、次女・雪子の婿に田中釜吉を迎え、慎蔵の事業を継がせた・・・という事で田中平八と繋がったのです。
田中釜吉⇒高田釜吉は、田中平八の3男として明治9年(1876年)に生まれました。父の幼名釜吉の名が付けられました。(写真は何歳の頃か分かりませんが、なかなかのイケメンですね)
優秀だった釜吉は、ドイツへ留学。ベルリン工科大学で最新の機械工学を学び、明治34年に帰国。そして芝浦製作所に入社。更に東京電灯(現・東京電力)に技術部副部長として招かれ、技師として活躍。
跡継ぎに悩んでいた慎蔵は、釜吉に白羽の矢を!こうして高田家の娘婿となった釜吉は、明治42年に高田商会の副社長に就任。更なる事業拡大を進めました。大正元年に慎蔵は釜吉に采配を譲り、自らは56歳で顧問に。大正8年(1919年)には完全に引退し、全ての経営を釜吉に任せました。
釜吉は父親譲りと思われる豪遊ぶりで、花柳界では「釡大尽」と言われていました。社員たちも取引先の接待という名目で料亭に繰り出し、奢りの気風が社に蔓延。大正7年頃までは景気も良かったのですが、大正10年に慎蔵が病没すると雲行きも怪しくなってきました。
大正12年は悲劇の年。4月に高田鉱業深田銅山が全焼。更に9月に関東大震災で自社ビル消失。大量の輸入在庫も焼失。更に思惑で輸入した大量の物資が、円相場の急騰で暴落。復興には大量の木材が必要になると踏んで買い占めた千葉の山林も、アメリカ等から安い木材が大量に流入して大赤字。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会ですが、大正14年2月に破綻してしまいました。高田財閥の名も人々の記憶から消えていくことに。釜吉は責任を取って退陣。昭和32(1957)年、81歳で亡く なりました。会社はその後も元社員の手で続き、今も神田鍛冶町に在ります。⇒株式会社高田商会
家族は・・・
妻・雪子との間には、一人娘の愛子を授かりました。成人した愛子は北岡正見と結婚。北岡家に嫁いだのです。となると、跡取りは?
北岡正見は東大医学部卒の医学博士。国立予防衛生研究所でウイルスの研究をしていました。今居ればコロナウイルスの研究に携わっていたでしょうね。
北岡家の長男・祐一は、高田家に養子として入り高田祐一となりました。この頃の高田家は湯島一帯の土地や豪邸は失ったものの、虎ノ門に豪邸を構えていました。母 愛子の両親(釜吉と雪子)の所ですね。養子として入ったのは何歳の頃か、ちょっと分かりません。この祐一が高田万由子の父親です。
では母親は?名は智子(さとこ)、旧姓は分かりません。武蔵野女子大在学中に祐一と出会い、卒業後23歳で結婚。年の差は11歳とか。モデル経験もあるという美人。二人の一人娘が、1971年(昭和46年)に生まれた高田万由子です。
こちらに高田家3世代女性の写真がありました⇒BVLGARI 歳の差があまり分かりません^^;
万由子の美貌は母親ゆずりですね。頭脳は・・・祖父の北岡正見からでしょうか?
父親の高田祐一は何をしていたか? UNION・高田商会の経営者。曾祖父の高田商会とは別物で、外車の輸入販売会社でした。それも、ベンツやロールスロイスといった高級車がメイン。注文を受けると直ぐにヨーロッパに飛び、一週間で納車・・・セレブ相手のセレブな商法だったようです。
万由子は小学校から高校まで白百合学園。父の祐一がロールスロイスで送り迎えをしていたそうです。
更に一年間スイスの ル・ロゼ学院に留学。此処も超セレブな学校で、休みになると校庭に迎えのプライベートジェットが何機も着陸したとか。
東大文学部西洋史学科に入学すると、父からの入学祝はガルウィングの車!とにかくセレブです。しかし、大学時代のお小遣いは3,000円/月だったとか^^;
趣味は乗馬。更に狩猟の免許も持っている。家族は皆狩猟免許を持っていて、釜吉の代から高田家の伝統なんだとか。強制的に取らされたそうです。
👈芸能界へのきっかけは、篠山紀信の女子大生シリーズで週刊朝日の表紙モデルに起用された事(1991年7月26日号)。その後ミノルタのCMへ。このコースは宮崎美子と同じですね。
紀信は、1994年に虎ノ門の万由子の実家で撮った写真集「T邸の怪(ケ)」を出しています。万由子が週刊朝日の表紙モデルになった縁からでしょうか。でも既に廃墟となってからの撮影のようです。巻末に、高田祐一氏の多大なご協力をいただきました・・・とありました。
家は凄いスケールです。ホテルオークラに隣接で、敷地は500坪。その半分は庭。家は大正時代に建てられ洋風と和風が半々という大豪邸。部屋の数はよく分からなくて、万由子が入った事がない部屋もあったとか。洋間には暖炉。父が庭の木を切って薪を作っていたそうです。田舎ではなく、東京のど真ん中でこんな暮らしとは!
建物は2002年に解体され、今は⇒「虎ノ門タワーズオフィス」という41階建てのビルが建っています。一体いくらで売れたのでしょう?もしかしてオーナとか?もう想像もつきません^^;
母が住んでいる実家の方は、西麻布のマンションだそうです。詳細は分かりませんが想像すると、1フロア全部、もしかしたら1棟丸ごとなのかも?
万由子は1999年ヴァイオリニストの葉加瀬太郎と結婚。葉加瀬太郎は結婚の申し込みに何度も実家を訪問。父は、「許さない」と言って門前払いの繰り返しだったそうです。最終的には熱意に負けて折れたんでしょうね。美女と野獣といったイメージも無きにしも非ずですが、アプローチは万由子の方からだったそうです。さもありなん!容姿端麗・頭脳明晰・セレブなお嬢様。しかもモデル・タレント・女優・・・そんな女性は、男にしてみればとてもハードルが高い。憧れるけれど近付けない。かえって引いてしまう。なので待っていても誰も来ない。そう思うのは私だけ?^^;でも、有名女優でそんな感じで独身の人、結構居ますよね。
1999年7月、長女 向日葵(ひまり)誕生。あら、出来婚ですか?^^;バイオリンをやっていて、イタリアのジュニアコンクールで金賞。父親の指導かと思ったら、教えているのは母の万由子なのだそうです。弾けないのに指導が出来るとは!父が直接指導すると厳しくやってしまうので、母親経由の指導なのだそうです。
2004年10月、父祐一 68歳で病死。早すぎますね。会社の方は・・・今はもうありません。
2006年8月、長男 万太郎 誕生。父の生まれ変わりかと思うほど似ているそうです。容姿だけでなく趣味とかも。料理が好きでその腕もなかなか。これも父に似ているとの話です。
万由子ファミリーはロンドン在住。世界を飛び回る葉加瀬太郎の活動拠点にもなっている。ここもまた豪邸。ミュージシャン仲間が集まってリハーサルする事もある・・・どんだけ広いんだ?二人の子供はロンドン育ちですね。
でも長男は、「日本人なんだから、日本の学校も経験したい」といって日本の学校へ編入。万由子は相変わらず、日本とイギリスを行ったり来たりの生活。コロナ禍の今は、不自由しているでしょね。
葉加瀬太郎も葉加瀬家の長男なのですが、高田家に婿養子として入りました。それも多分結婚条件でしょうね。なので今の本名は、高田太郎です。二人の子も当然高田姓で、高田向日葵と高田万太郎。
必要以上に長く書いてしまった感もありますが、最後にまとめを^^;横書きですが家系図っぽく書いてみます。
高田万由子⇒父 祐一⇒その母 愛子⇒その父 釜吉⇒その両親 田中平八&はる。
平八は駒ケ根生まれ。はるは飯田生まれ。高田万由子には信州人の血が流れていると、いっても過言ではないですね^^;
当のご本人は、此処まで知っているのかな?
高田の読みは、タカダではなくタカタ。ジャパネットと同じですね。
書いている私も高田なのですが、読みはタカダです。当然ですが、何の関係もありません^^;
*文中の敬称は略。ご本人の各写真はネットから借用。T邸の怪 は私の所有本。
(高18回 高田 記)
温故知新 ⑩ 熊谷 元一(中28回)
- At 3月 22, 2020
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元一は(もといち)と読みます。暫く前までですが、私は恥ずかしながら(げんいち)と読んでいました^^; 写真家であり童画家としてもよく知られた方ですね。1909年7月12日に阿智村で生まれ、 2010年11月6日に武蔵野市の老人施設で亡くなられました。101歳でした。
飯田中学卒業後、昭和5年に阿智村の小野川小学校で代用教員となりました。翌年、童話の挿絵を「童画」と名付けた武井武雄に師事し「童画」を書き始めました。昭和9年には初めての絵本を執筆しています。写真を撮り始めたのは昭和11年からで、それを勧めたのは童画の師 武井武雄でした。昭和13年には写真集『会地村: 一農村の写真記録』を朝日新聞社より出版しています。
昭和14年、拓務省(後の大東亜省)の専属カメラマンとなり上京。満州へ渡り国策だった満蒙開拓を撮影。しかしこの事で負い目を感じていた様です。
戦後は村に戻り智里東国民学校に復職。昭和20年、農林省農業総合研究所在村研究員となり、村の婦人生活を研究テーマとして調査・撮影。岩波写真文庫「かいこの村」「農村の婦人」を出版しました。
昭和30年には、『一年生 ある小学教師の記録』(岩波書店)により、第1回毎日写真賞を受賞。これによって一躍写真家として注目されるようになりましたが、相変わらず先生は続けていました。
昭和41年、教師退職を機に、清瀬市に転居しました。なぜ阿智を離れたのでしょうか?
平成6年には、毎日出版文化賞、また地域文化功労者として文部大臣の表彰を受けました。
昭和63年に阿智村は「ふるさと童画写真館」を建設し(のち「熊谷元一写真童画館」に改称)、熊谷元一本人から寄贈を受けた写真作品(約50000点)の紹介を行っています。⇒熊谷元一写真童画館
という事で私も行ってみました^^
受付は保存会のボランティアの方々が交代で行っているとの事でした。
館内は基本撮影禁止なのですが、今回は特別に許可してくださいました^^
展示室に入ると、数々の受賞を物語る賞状などが展示してあります。
その裏側には第1回毎日写真賞の受賞作『一年生 ある小学教師の記録』に使われた写真の数々。
子供たちの日々の情景が写されています。
表情が良いですね~!カメラを意識させないで撮る、常に生徒の身近に居る先生ならではですね。
シャッターチャンスも素晴らしい。桜をバックにブランコの少女、決まってますね!
これも良いタイミング。一見ボケている様にも見えますが、ピンボケではありません。男の子が動いてブレているのです。教室内ですから、シャッタースピードは1/30秒以下でしょう。それが返って臨場感を生んでいますね。この後はどうなったんでしょう^^
今回は三六災害を記録した特別展がありました。
地元の阿智村だけではなく、被害が大きかった川路や大鹿村も写されていました。川路には商店街があったんですね。知らなかった。
大鹿村は大西山の崩壊で大きな被害が出ました。
今は整備されて大西公園となり、桜の名所になっています。高台からは大西観音が町を見守っています。
それにしても当時よく大鹿まで行ったものだと感心してしまいました。道路も寸断されていたと思います。館の方は、自転車で行ったのではないか?と想像されていました。それにしても報道関係者なら頷けますが、学校の先生がです。私には何となく分かる気がします。カメラを使う人間としてこの惨事は記録しておかなければ、と思ったのでしょう。
実は当時中学生だった私も、近所の撮影をしています。残念ながらフィルムは残っていません。プリントも僅かです。撮影している私を見た当事者の方に「この馬鹿小僧、写真なんか撮ってる場合か!」と怒鳴られてしまいました。その時今宮町で撮った写真ですが、本邦初公開です^^;
懐かしい情景の写真もありました。昔の我が家も似たようなカマドがありました。
2階には童画が展示されています。
制作に使った筆や絵の具類も展示されています。
柿の皮むきも懐かしさを感じます。昔の我が家にも数本の柿の木があって、似たような作業をしていました。これほど大規模ではありませんが^^;
このようなシーンもあまり見かけなくなりましたね。昔は飯田でも豚を飼っている農家が多かったのですが!
この「いろりばた」の絵はどこかで見たような気がしました。
帰ってから記憶を頼りにファイルを探してみると、ありました^^今宮半平の五平餅の包装紙ですが、似た絵が使われていました。
作品はここで紹介した物が全てではありません。「熊谷元一写真童画館」、昼神温泉を訪れたら是非お立ち寄りください。
今回の取材でとても親近感を感じたのですが、残念ながら生前の先生にはお会いした事がありません。お名前は聞いた事がありましたが、地元の方で高校の大先輩とは恥ずかしながら知らなかったのです。
これが悔やまれますね~。一度会って話を聞いていたら、私の写真も少しは変わっていたかも^^;
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この先の話はあまり知られていない事なので、書こうかどうしようか迷いました。
先生にはトラウマがあったようです。阿智村には満蒙開拓平和記念館が在るくらい、多くの方が開拓にが行きました。満州に渡った方達は悲惨な目にあっています。国の依頼で満蒙開拓を撮影したのですが、その写真に刺激されて満州へ行った方も多かったのでは、と悔やんでいたようです。
もう一つ、悲劇がありました。それは第1回毎日写真賞を受賞し、村で展覧会の準備していた時です。昭和30年9月4日、日曜日、学校プール開放の最終日でした。先生たちは教室で展覧会の準備中でした。会知の小学校と中学校は左右に隣接していて、プールは共用でした。一人の小学生が中学生用の深い方へ行って溺れてしまったのです。騒ぎを聞いて先生たちが駆け付けました。溺れたのは芦沢宏文君、熊谷先生のクラスの子でした。
通夜の席で亡くなった生徒の親戚の方から、先生に怒号が浴びせられました。「あんたが、写真ばっかし撮ってるんで、そいで宏文は死んだんじゃあないのか」彼は次々と「カメラなんか、持って、金持ち面して」「写真展もやめちまえ、こんな時に、なにが展示会だ」「もう写真は、とらんでくれ、宏文がかわいそうと思うなら、もう写つせんはずだ」先生は「すみません。もう撮りません」としか言えませんでした。
「やめてくんろ!!」突然、宏文くんの母親が叫びました。「宏文が死んだのは、カメラのせいでも先生のせいでもないだに。宏文に注意がなかったずらに、三年生にもなって、気を付けろといっといたのに、深い方に行って、自分が悪かったんな」「先生、明日から展示会、必ず開いてくんな。宏文は永遠の一年生です。他の子は、みんな大きくなっていくだが、宏文は一年生のままだに。ずっとこんさきも。展示会で、そのことをみんなにみせてやってくんな。先生、写真展、やめたら、宏文は、永遠に忘れられちまうだに。お願いしますだ。それから、先生、一年生の写真、これからずっと撮りつづけてくんな。それをひろふみの供養としてくんな」
詳細はこちら⇒ 創作秘話 永遠の一年生
当時の会知小学校は、今の阿智第一小学校です。
プールは今もほぼ同じ場所にありますが、小学校専用ですね。
(3/18 撮 高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) 最終回
- At 2月 26, 2020
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勝ち目なき戦い
開戦以来快進撃を続けてきた日本軍。一木支隊の全滅は、帝国陸軍の不敗伝説が米軍の前に頓挫した事を示すものだった。大本営は、無謀な作戦の反省もしないまま次の兵を送る事を決めた。指名されたのは川口支隊。一木支隊の第二梯団と生存兵もこれに加わり6000人ほど。隊の戦法は、一木支隊と同じで陸軍伝統の夜襲だった。攻撃目標を飛行場とし、山に登り飛行場を上から攻撃する隊をメインに3方向から同時に夜襲攻撃する作戦だった。しかし人跡未踏のジャングルの山道は思うように進めず。攻撃態勢に入るのが予定より大幅に遅れた。他の部隊との連絡も出来ぬままバラバラに攻撃する事になり、米軍に返り討ちにされてしまう。海軍の駆逐艦7隻も加わり飛行場を攻撃したが、思うような成果は得られず。戦死者700名を数え後方撤退をやむなくされた。
ここに来て大本営は初めて本格的準備によるガ島奪還と戦局好転を図る事となった。二見参謀長は前々から「二個師団以上の兵力、重火器の準備、弾薬の補給、航空機の参加が必要」と主張していたが、作戦に消極的とされ罷免された。正論が否定されていた。
次に送られる事になったのは仙台第二師団。この頃になるとガ島周辺は制空権も制海権も殆ど米軍の手にあったが、10/13、第二師団は奇跡的に上陸に成功した。其処へ川口師団も合流。兵力は15,000人ほどだった。今度は長距離砲などの攻撃で滑走路の一部を破壊。海軍も戦艦、巡洋艦、駆逐艦を出し艦砲射撃を行い、飛行場の一部とガソリンタンクなどを炎上させたが、米軍はすでに第2滑走路を完成させていてさしたるダメージとはならなかった。10/24~25、第二師団も前回の川口支隊と同じコースで夜襲を試みたが、米軍の守りも強化されていてまたしても惨敗。戦死者は3,000人を超え、師団長は10/26早朝、攻撃中止命令を出す他なかった。
続行か撤退か
ガ島周辺のソロモン海域も、日米数度の衝突により制空権も制海権もほぼ米軍の物となっていた。米第一海兵師団も任務終了となり、バッチ陸軍少将率いる陸軍部隊が後を引き継いだ。バッチ師団長は持久戦で行く作戦をとった。実際島に残った日本兵は、補給が途絶え飢餓と病気との戦いになるのだった。米軍は飛行場を一望できるオースチン山を占拠。実質的な戦闘は終了した。
大本営では、奪回方針が堅持されていたものの、もう無理だという考えが浸透しつつあった。しかしここでも陸海軍双方の意地の張り合いが続いた。どちらも撤退という弱気な姿勢を見せたくなかった。結論が出せないまま無駄な時間が過ぎていく。この間も島に残った兵士は飢えと戦っていた。ガ島はいつしか餓島となっていった。
最終的には12/31、昭和天皇の元で大本営御前会議が行われ、ガダルカナル島からの撤退が正式決定となった。「陸海軍は共同してこの方針により最善を尽くすように」
ガ島からの撤退は、2/1、4、7の三次に分け毎回駆逐艦20隻で実施され、一万余名の撤退に成功した。しかしこの時、自力で歩けない者は置き去りにされた。ガダルカナルの戦いは、戦死、14,800人以上、戦病死約9,000人という大きな犠牲を払って終了した。大本営はこれを撤退とは言わず「転進」と発表している。
ところでこの撤退に米軍は全く気付かなかったのだろうか?それとも去る者は追わずだったのか?
誰が一木支隊を全滅させたのか
これがこの本のタイトルです。この本によって分かるのは、全滅は一木支隊長の責任ではないという事。では誰が?となると其処はあいまいな気がします。ガ島の米軍は1万人以上居たにもかかわらず、2千人程度とみた大本営の無知、無策、無謀な作戦の結果、と言えるのだが、誰とまでは書かれていない。東条英機か?戦争全体を見ればそうかもしれないが、ガダルカナルは?というとまた別な気がします。本書で辻参謀に触れている部分が気になった。「大本営の作戦失敗を覆い隠すため、現地部隊の失陥をあげつらい、その責任を擦り付けた張本人と目される人物」とだけ書かれています。これだけではよく分からないので、調べてみました。
辻正信 参謀(陸軍大佐)
ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。
その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。
神様というのは、「マレー作戦で辻は新聞記者相手の広報も担当し、記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「軍の神様」と謳った」との事で、作戦の内容が評価された訳ではないようだ。
ガダルカナルでは大本営で参謀として作戦を立てたが、米軍には「世界を知らない場当たり的な作戦」と評された。日本陸軍の戦法は日露戦争時代から同じで、銃剣突撃の白兵戦が主流だった。これが西部劇で銃器が進化している米軍に通用する筈がない。夜襲という奇襲作戦も、米軍はジャングルにマイクを設置していて奇襲にはならなかった。一木支隊で失敗した経験が教訓とされる事なく、最後まで同じ過ちを繰り返した。
南方へ行く兵士には「これだけ読めば戦は勝てる」という冊子が配布された。主に辻が書いたものだ。そこには「敵は中国兵よりも弱虫。武器はあっても兵はへなちょこだから役には立たない」等と米軍を侮る言葉が並んでいた。
辻は仙台第2師団の攻撃の際 ガ島に上陸し指揮を執ったが、マラリアに罹り途中撤退している。マラリアになって現場を離れた兵はいない。大本営に戻った辻は、最後までガ島撤退に反対していた。しかし「大丈夫、まだやれる」というだけで具体的な策を示す事はなかった。
戦後、当然戦犯とされたが、地下に潜伏。海外へも逃亡した。CIAは辻を「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」と酷評している。
昭和25年に辻は戦犯指定から逃れ、作家として世に出てくる。逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表し、それがなんと同年度のベストセラーとなったのだ。これで財と知名度を得て、昭和27年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。国会議員になったのだ。ある記者は、議員となった辻を取材した際「目の前に絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた」と感想を記している。
昭和36年、議員の辻は4月4日に公用旅券で日本を出発し、そのまま帰国する事はなかった。ラオスで捕らわれスパイ容疑で処刑されたという説もある。
昭和54年に、出身地である加賀市山中温泉に辻の銅像が建立されている。
NHKの番組
長々と書いてしまいましたが、今回でやっと終わりです^^ 私はガダルカナルと言えば、「日本軍が大敗した悲劇の島」という程度の認識で、詳細は知らずにいました。本校の先輩がこのように関わっていた事も今回初めて知りました。皆さんは如何ですか?
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その四
- At 2月 16, 2020
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ガダルカナル島
ラバウルの第17軍司令部の二見参謀長は、ガダルカナルの敵情を大本営が言うようには楽観視していなかった。一木支隊だけではなく、空母・戦艦・他の歩兵師団とも連携し態勢を整えて事に臨むべきと考えた。百武司令官も同意見だった。しかし大本営は、敵が態勢を整え飛行場を使い始める前に一刻も早く一木支隊を派遣せよ、と指示してきた。更に海軍が輸送艦艇の配備を渋ったため十分な輸送体制が取れず、支隊を2班に分けなければならなかった。二見参謀長は一木支隊の派遣を決めたが、その目的を敵情偵察に限定した。その報告を受けた大本営は怒り心頭「速やかにガダルカナルを奪還せよ」 やむなく百武司令官は一木支隊に出撃命令を下すしかなかった。
8/16早朝、一木支隊長率いる第1梯団はトラック島から出航した。第2梯団は4日後の予定だった。
8/18午後11時頃、一木支隊第1梯団916名はガダルカナルのタイポ岬に上陸した。目標の飛行場までは約35㎞だった。支隊は隊形を整え夜間の砂浜を前進した。川を渡り暫く行軍を続けると開けたテテレという砂浜に出た。そこで一旦休憩をとり、明け方将校斥候軍38名を送り出した。「前進経路の地形、敵の位置・数など何も分かっていない。しっかり情報を上げてくれ」しかし午後になっても何の連絡も来ない。2時過ぎになってようやく息も絶え絶えに伝令が戻ってきた。「将校斥候軍は全滅しました」それは予想だにしない報告だった。この先無人のコリ部落を出た所で兵に遭遇。味方かと思って合言葉を掛けると、銃弾が飛んできた。猛烈な勢いで撃たれ殆んどの者が戦死したと言う。支隊長は言葉を失った。
まず何をすべきか?生存者がいるかもしれない。一人でも多くの将兵を助けなければ・・・支隊長は、救護班と一個中隊をコリ部落へ向かわせた。救護班は午後8時過ぎ部落に到着。ジャングルに隠れていた仲間の兵を一人見つけた。他は皆やられた様だとの事。捜索したが、結局他に生存者はいなかった。
支隊本体は、午後4時に隊形を整えテテレを出発。コリ部落の少し手前で斥候軍の一人を見つけた。部落到着は午後10時ころだった。先発の救護班も合流した。遺体処理のための一個小隊を残し、本体は前進する事にした。処理班は全ての遺体を埋葬し、ヤシの木を削り墓標とした。作業を終えると本体の後を追った。
8/20、午前2時半ころ支隊はジャングルを抜け広場に出た。目安として目指していたレンゴだった。支隊長は大休止を伝えた。
この状況を司令部に伝えなくては。しかし通信は不通だった。第17軍司令部のラバウルとガダルカナルとは1,000㎞ほど離れていて無線が届かない。島の沖合に海軍の潜水艦を配備、中継する事になっていた。後で分かった事だが、この潜水艦が海軍の作戦指令を受け、陸軍に無断で別の海域に移動していたのだ。支隊長は司令部の指示も受けられないまま、今後の作戦を決めなければならなかった。出した結論は、このまま前進し攻撃続行、「行軍即捜索即戦闘」だった。
8/20、午前10時、支隊長は各部隊長を集め攻撃計画を伝えた。出発は18時、最後の川を渡ったら一気にルンガ飛行場に夜間攻撃。今日は持っている食料を全部食べてよし。飛行場を占領すれば倉庫の食料を好きなだけ食べられる。
午後6時、予定通り行軍を開始。海岸線に沿ってジャングルを前進した。必死の思いで大きな川を渡り切ったのは、午後10時半ころだった。
突然照明弾が光った。辺りが明るくなるとあちこちから一斉射撃の弾が飛んできた。もう反撃どころではなかった。次々と銃弾に倒れていく。更に照明弾の明かりで前方に沼があると分かった。実際は沼ではなく広い川だった。先程渡ったのは最後の川ではなかったのだ。支隊長は海側に砂州があるのを見つけ、そこを進むよう指示した。しかし集中射撃を浴び多くの兵が倒れていった。それでも何人かは砂州を渡り切った。しかしその先には鉄条網が張り巡らされていて、そこでも銃弾を浴びてしまった。突撃は何度か繰り返されたが結果は同じ、鉄条網を突破できた者はいなかった。
遅れて機関銃中隊と大砲小隊が合流した。遅れるのも無理はない。あの重い兵器を分解し人力だけで運んでいたのだ。先に着いた大砲が火を噴いた。続いて機関銃中隊の重機関銃も対岸の火点に向かって射撃を開始した。一旦は敵の勢いが衰えたかに見えたがそれもつかの間、敵の集中砲火を浴び機関銃手が戦死。交代するも同じ事、終いには撃ち手がいなくなってしまった。大砲も同じだった。撃つ度に敵弾が集中。一発撃つと何十発も撃ち返された。最後には砲弾の直撃を受け、飛び散ってしまった。
一木支隊全滅
支隊全力で行った突撃も、事態を好転させる事は出来なかった。支隊長は、これ以上の突撃は戦死者を増やすだけと考え、攻撃中止命令を出した。一旦タイボ岬に戻り第2梯団を待て、との指示も出した。しかし今度は戦車が現れた。海軍が見落とした輸送船から数台の軽戦車が陸揚げされていたのだ。退路も断たれた一木支隊はほぼ全滅。支隊長も戦死した。後の記録では、戦死者は777名となっている。タイボ岬には、奇跡的に戻る事が出来た十数名の戦傷者と最初から留守を守っていた者など、80名ほどが終結した。岬にあった漁師小屋に立てこもり、簡易的な陣形で守りを固め第2梯団の到着を待った。
8/21午後10時半ころ、ラバウルの第17軍司令部に「一木支隊全滅」の電文が届いた。しかし、そんな馬鹿な・・・これは敵の揺動工作だ、とされた。8/25、生き残った中尉から、一木支隊長の戦死とタイボ岬に生存者が集結している旨の知らせが第2梯団に届いた。この事でやっと一木支隊の惨敗が事実だと確認された。それは直ぐに第17軍司令部から大本営陸軍部に伝えられた。作戦の失敗は現地部隊の責任にする、というのが大本営の常だった。大多数の参謀は、作戦に過ちはなく失敗は現地部隊の精神力が足らなかったからだ、と決めつけた。服部課長と田中部長は、今回の作戦が失敗したのは一木支隊長の責任とし、支隊長はその責任をとって軍旗奉焼を命じたのち自決したとの筋書きを決めた。支隊は全滅している、証拠は何もない。戦闘詳報も第2梯団にこちらの言う通り書かせればよい、とされた。それはそのまま公式記録とされ、「一木支隊長はガダルカナルの作戦を駄目にした張本人」とされてしまった。・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その三
- At 2月 11, 2020
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グアム島
6/14、グアム島に上陸した一木支隊は、島の中心部にあるアガナ兵舎に入った。これまで参謀として支隊長を補佐してきた山内少佐は、帰京命令が来て参謀本部に戻った。しかしその他の情報は全く入ってこなかった。それでも訓練はこれまで通り行われた。支隊長は隊員の士気が下がらない様、中隊対抗の競技会などを行った。夕方太陽が沈み空が朱色の染まると、多くの兵士は海で釣糸を垂らして過ごした。カツオが良く釣れた。また兵舎には米軍が残して行った食糧も豊富に残っていた。しばし平穏な日々を楽しんでいた。そんな優雅な日々が長く続く筈もなく、突然の帰還命令で終わる事となった。
8/7、一木支隊は宇品に向け出航。隊員たちは長い遠征を終えグアム島で買ったお土産を抱え帰国の途についた・・・筈だったのだが、翌朝突然呼集ラッパが船内に鳴り響いた。大本営から指令が来たのだ。「次の作戦のため、直ちにグアム島へ引き返し乗船のまま待機せよ」
8/8、「パラオへ転進せよ」との内報があったが、9日の夜になって「トラック島へ行き第17軍司令官の隷下に入れ」。兵士たちは背嚢に入れた土産物は没収された。反応は様々。涙を流して悲嘆にくれる者、楽観的な者、「このまま帰ったら後ろめたかったな」「とっとと行って手柄を立てて帰ろうや」「今度こそいい機会だ」という者も多かった。
大本営
8/7、「ガダルカナルの飛行場が敵にとられた」との報せが届いた。ガダルカナル?陸軍部は全く知らなかった。海軍は米豪遮断のためソロモン諸島に飛行場を造り制空権を得ようと考えた。空からの調査でガダルカナル島が最適となった。島の大きさは四国の1/3程度、ソロモン諸島最大の島だ。6月に設営部隊が投入され、飛行場の建設が始まった。海軍はこの事を陸軍に伝えていなかったのだ。
8/6に800mの滑走路を持つ飛行場がほぼ完成した。それを見計らった様に8/7早朝、米軍は上陸作戦を敢行した。島に居た日本軍は殆どが設営隊で武器を持たない工兵。銃を持った将兵は300人に満たない。抵抗はしたもののもはや米軍の敵ではなく、ほぼ全員が玉砕した。海軍は、ここに飛行場を造れは強力な基地となる、そう考えただけで敵からの攻撃など全く頭になかったのだ。後で考えれば愚かな策と分かるが、当時そこまで考えた者は誰もいなかった。
海軍と陸軍は決してワンチームではなかった。「海軍が始めた事は海軍に責任を取らせろ」というのが陸軍の本音だった。それでもガダルカナルは重要拠点だ。取られたなら奪還しなければならない、という点は一致した。では陸軍は「状況により部隊の派遣を検討する」となった。多くの陸軍参謀は、グアムに居る一木支隊を想定していた。一木支隊はミッドウエー作戦の失敗を知っている。このまま帰国させれば、敗北という不名誉な事実が国民の間に知れ渡ってしまう。新たな任務に就かせれば帰国も先延ばしとなる。その後、賛否両論はあったものの派遣は一木支隊と決定した。
8/9、第1次ソロモン海戦に勝利したとの知らせが大本営にもたらされた。海軍第8艦隊は、敵大型巡洋艦4隻ほかを撃沈し大勝利と報告。しかし連合艦隊司令部の指示は第一目標が輸送船団だった。戦艦を沈めた事で浮かれてしまったのか、第8艦隊はそちらを攻撃ないまま帰還してしまった。米軍輸送船団は無傷でガダルカナルに上陸、武器弾薬などの資材と兵力の補給に成功していた。海軍情報部はこの情報を大本営陸軍部に伝えていた。しかしそこから現地の第17軍には伝わらなかった。士気に影響する負の情報として無視されてしまったのだ。
大本営陸軍部は、一木支隊をトラック島に行かせ第17軍の隷下に入れる様指示を出した。
米軍の体制
米艦隊司令長官のキング海軍大将は、ハワイの防衛とオーストラリア・ニュージーランドへの支援、更に北へ進出するにはガダルカナル島を占領しラバウルの日本軍を撃退する必要があると主張。米国首脳陣はこれを認めた。こうして米軍では「ガダルカナルを拠点として確保」という目的が、戦略レベルから第一線の部隊にまで浸透、確立された。軍種の壁を越え指揮官同士の連携も出来た。
南部太平洋軍担当のゴームレー海軍中将は、戦力不足を感じマッカーサー陸軍大将と会談。必要な協力は惜しまないとの約束をとりつけた。この作戦の指揮を執る事になったニミッツ海軍大将は、ガダルカナル攻撃作戦司令官にヴァンデグリフト少将を任命した。こうして米軍はワンチームとなって体制がまとまった。
海軍からの要請に陸軍が渋々協力する事にした日本軍。目的に向かって、陸・海・空が一致団結した米軍。戦う前から勝負はついていた。・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その二
- At 2月 02, 2020
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旭川へ
昭和16年7月、清直は歩兵第28連隊長となるため旭川へ赴任した。彼は現場進出主義で、連隊長室に居るだけの指揮官ではなかった。練兵場で訓練中の兵士一人一人に声をかけ指導にあったった。部下であっても相手を尊重し大切にする、そんな人柄で慕われていた。
翌年5/2に動員令が下され、新たな兵が合流し一木支隊が編成された。中には支那事変に従軍した者もいた。彼等は訓練が上陸戦闘を想定したものになっていたのに戸惑いを感じた。新しい夏制服と軍靴が支給され、行先は未だ聞かされていなかったがその装備からどうやら南方の戦地へ行くらしい、と察するのだった。
暫くの間待機状態が続いたが、5/13 突然「明日出征する」と告げられた。旭川最後の夜は何となくザワついて、多くの者は眠れなかった様です。
宇品へ
5/14、一木支隊は2組に分かれ広島県宇品(うじな)に向かって旭川を後にした。支隊長は部隊と同じ列車には乗らず、別行動をとった。急行列車を乗り継ぎ上野に向かったのだ。市ヶ谷の大本営で命令を受領するために。その際一時帰宅が許されていて、家族が待つ千葉の家へ向かった。自宅へ帰った直清は以前と変わらない時間を家族と過ごした。出征の朝、清直は夫人に「また留守をよろしく頼む。今度は南の島に行く事になった。3か月もしたらすぐ帰ってくるから」と言い残し家を出た。しかしそれが家族が見た父の最後の姿となってしまうのです。
大本営で支隊長に命令を説明したのは、作戦課班長の辻中佐だった。海軍と合流しミッドウェー作戦に加わるようにと伝えられたが、詳細は何も説明されなかった。それでも大本営の命令は絶対である。多くの参謀たちの激励を受け、宇品へ向かった。大本営からは南方班の山内少佐が同行した。二人は旧知の仲だった。
一木支隊は、宇品で海軍第2艦隊司令長官 近藤中将の指揮下に入った。第2艦隊はミッドウェー島攻略部隊。支隊長は着任の挨拶をすべく山内少佐と連合艦隊司令部が置かれている戦艦「大和」に向かった。大和が旗艦となったのは3か月前。連合艦隊司令長官は山本五十六でした。
南洋へ・・・ミッドウェー作戦
一木支隊は2班に分かれ「善洋丸」と「南海丸」へ乗船した。どちらも民間から徴用したもので、軍艦ではない。輸送船として使われていた。船にはキウイ、パパイヤ、マンゴーなど南国の果物が沢山積まれていた。隊員たちは、初めて口にする異国の味に大いに喜んだことだろう。しかし隊員の殆どは行き先を知らされていなかった。自分たちはなぜ海軍に合流し、どの様な任務に就くのか、全く知らさられていなかった。
日本軍は、昭和16年の真珠湾攻撃以降 連戦連勝で破竹の勢いだった。マレー沖海戦の勝利、グアム島、ペナン島、香港島、等東南アジアの島々を占領。次はミッドウエー島だった。昭和17年の東京空襲から始まった日本本土への空襲。大本営は、これを封ずるにはミッドウェー島を占拠し西太平洋の米海軍を制圧する事が必要と考えた。陸軍もこれに参加しないと存在感が薄れると考え、上陸部隊の参加を計画。軍旗を奉ずる歩兵連隊を上陸させれば絵になる、存在感を示すのに効果的、と考えた。一木大佐率いる歩兵第28連隊の軍旗は、明治天皇から授かった伝統ある物だ。加えて彼は盧溝橋での活躍からも適任とされ、一木支隊はこの作戦に参加する唯一の陸軍部隊に選ばれた。
5/25、一木支隊はサイパン島へ上陸。サンゴ礁などの環境がミッドウエーに似ている事から、ここを出撃準備拠点とし上陸訓練を繰り返した。
5/28、ミッドウエーに向けてサイパンを出航。約40隻から成る大船団で護衛の駆逐艦も一緒だった。
6/5、サイパンを出航して8日目は軍旗祭の日だった。旭川では北海道護国神社で行われていたが、洋上においても同じだった。軍旗は天皇から授かった神聖なもの。敵の手に渡る事など絶対にあってはならない。連隊旗手伊藤少尉は、棒持帯に焼夷剤を付け「万が一の時はこれで軍旗を奉焼する」としていた。軍旗祭は善洋丸の甲板で行われた。南海丸も並走し、一木支隊長の号令で軍機に対する敬礼が行われた。
翌日隊員たちは異常に気付いた。護衛の駆逐艦が速度を上げているが、自船は反転している。「大変だ。あれを見ろ」元の進行方向を見ると黒い煙が上がっている。飛行機もたくさん飛んでいる。戦闘が始まっていたのだ。
これまでの勢いからこの作戦も勝って当たり前と思われていたが、ミッドウエー作戦は失敗。海軍は初めての敗北を味わった。
(事の詳細はWikipedia で見る事が出来ます⇒ミッドウェー海戦)
この作戦失敗により、一木支隊の上陸作戦は何も出来ないまま中止。では何処へ行くのか?大本営海軍部は帰還させるとしたが、陸軍部は敗戦がバレない様にグアム島で暫く待機させるとした。大本営のご都合主義に振り回されるのだった。・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その一
- At 1月 30, 2020
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名前だけでは殆どの方が、誰~?と思うでしょうね。
私もそうでした^^; 教えてくれたのは北川 稔夫 さん(高18回)。この人を是非HPで採り上げてほしい、と言って一冊の本を渡されました。読書習慣のない私には重荷でした^^;著者の関口高史氏は、防衛大学の准教授。そのせいか、270頁にも及ぶその本は軍隊用語も多数。意味も読みも不明。2~3頁読むと睡魔に襲われる^^;そんなこんなで本を受け取ってから半年以上、いや一年近く経ってしまいました。
一木は養子に行ったための姓で、旧姓は加藤。余談ですが一木の読みは(いっき)。しかし静岡県袋井市の一部の地域しかそう読まないので、清直は(いちき)と呼ばれても訂正しなかった。
清直は、明治25年に市田村(現高森町)で加藤家の次男として生まれました。加藤家は代々飯田藩主 堀家の御殿医を務めた家柄でした。そんな家風から加藤家の人々は、医者か学校の先生になっていました。しかし清直は、帝国陸軍の軍人としてお国に身を捧げたいと考え飯田中学卒業後 陸軍士官学校へ。
結果、日本軍の転機においてその名を残す事になるのです。
盧溝橋事件
昭和11年5月、少佐の清直は支那駐屯軍歩兵弟1連隊第3大隊長として盧溝橋近くの豊台に赴任した。その翌年の7/7に、日中戦争の引き金になったと言われる盧溝橋事件が起きた。その日、部隊はいつもの様に夜間演習を行っていた。演習終了後、支那軍の兵士が実弾を撃ち込んできた。中隊長の清水大尉は呼集ラッパを鳴らし兵を集結させた。すると、ラッパ音の方向へ更に十数発の実弾が撃ち込まれた。この概要は、先に兵舎に戻っていた一木少佐に報告された。
一木少佐は連隊長の牟田口大佐に報告、指示を仰いだ。「一文字山を占領して戦闘隊形をとり支那側と交渉せよ」との事。午前3時頃、一木少佐は命令通り一文字山を占領した。そこへ大佐から電話。待機せよとの指示だったが、その前に支那軍からの銃撃があったため「我が方は如何しましょうか?」。一木少佐は、ここで戦闘が始まれば全面戦争になりかねない、と思ったので上官に訊いたのだが「撃たれたなら撃ち返せ」との指示。事は重大なので再度確認「本当に攻撃してよろしいんですね?」と。「間違いない。一木大隊はこの敵を攻撃せよ」。
この戦闘で多大な成果を挙げた一木少佐は、陸軍だけでなく日本中から称賛された。
それからほどなく清直は歩兵学校の教官を命じられ帰国。陸軍の後輩たちに、実戦経験に基づく最新の戦闘要領を教えた。学生たちは「一木教官の教育は精神論的なものではなく、実戦に裏付けされたもので大変勉強になった」との感想を述べている。
昭和13年7月 清直は、郷里の市田村尋常高等小学校と飯田中学校で「盧溝橋記念日を迎えるにあたり」という演題で講演を行っている。その締めくくりで、「これが支那事変の導火線だが、小生の如きがチヤホヤされるのは心苦しい。たまたまそこに居合わせただけの事。犬が棒に当たったまでの事です」と語った。上官だった牟田口少将(大佐から昇進)は、陸軍大学での講演で「日支事変は俺が始めた」と見得を切り失笑をかった。人柄の違いが良く分かるエピソードですね。
盧溝橋事件の詳細は Wikipedia で見る事ができます。興味を持たれた方はこちらをご覧ください⇒盧溝橋事件
さて、実はまだ本題に入っていません。ここまではプロローグの様な物。
270頁をかい摘まんでも一度には紹介しきれません。
続きはまた後程^^;・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑧ 日夏耿之介
- At 3月 21, 2019
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日夏 耿之介(中7回)は、明治23年2月22日に知久町3丁目で生まれました。本名は樋口國登(くにと)です。同窓会名簿には名前が載っていますが、中退している様です。上京して京北中学へ編入したのですが、神経衰弱のため2年間休学の後退学しています。その後早稲田大学高等予科に入学し、大正3年に早稲田の文学部英文科を卒業しています。ペンネーム、日夏耿之介は早稲田大学の頃から使い始めた様です。
飯田市民がその名を知るきっかけとなるのは、リンゴ並木にある碑ではないでしょうか。この碑は昭和37年に建立され、岸田國士の碑の奥に立っています。書は当時の市長・松井卓治が書いたそうです。 写真はクリックすると多少大きくなりますが、さあ読めますか?その意味が分かりますか?私はサッパリ^^;この碑によって、日夏耿之介=難解な文学となってしまい、結果 何も読んでいません^^;
とは言え多少なりとも説明しなければ^^;調べてみると、詩集『咒文』(じゅもん)の「咒文乃周囲」末尾の一節と分かりました。
あはれ夢まぐわしき密咒(みつじゅ)を誦(ず)すてふ
邪神(かみ)のやうな黄老(おきな)は逝(さ)った
「秋(さわきり)」のことく 「幸福(さいわい)」のことく 「来し方(こしかた)」のことく
う~~ん、読めてもどういう事なのか、意味まではよく分かりません。皆さんは如何ですか?やはり全部を読まないと・・・とは思いますが、その気力が^^;
文学界での評価は高く、読売文学賞、毎日出版文化賞、日本芸術院賞 等を受賞しています。昭和14年には、早稲田大学より文学博士号を受け、早稲田大学教授に就任。昭和27年には青山学院大学の教授に就任しました。
昭和28年に 第1回飯田市名誉市民に選ばれています。
平成元年には 飯田市美術博物館内に日夏耿之介記念館が開館しました。これは愛宕の住いを再現した物で、本宅の方はそのまま今も愛宕にあります。無人となっている様ですが。
記念館は通常施錠されていますが、平日は美博の受付に申し込めば開けてくれます。と言う事で中に入ってみましょう。
館内には氏が寄贈した蔵書、書簡、書画、原稿、文具類などの一部が展示されています。
端の方に、若かりし頃の写真が!中学時代ですね。
日夏耿之介全集、全8巻です。読んだ事ありますか?
第一詩集「転身の頌(しょう)」出版記念の晩餐会。そうそうたる顔ぶれをご覧ください。
写真じゃ誰かもさっぱり分からない? でしょうね~~^^;こちらと合わせてご覧ください。
如何ですか?知っている名前は何人ありますか? 文学界の重鎮であったと分かりますね。
歌碑の写真と拓本です。写真の方は風越山の山頂近くの崖っぷちに刻まれた物。拓本の方は此処の裏庭の物と思われます。
同じ句の碑が記念館の玄関前にもあります。
秋風や 狗賓(ぐひん)の山に 骨を埋む
裏庭には
水鶏(くいな)ゆくや この日宋研の塵をあらふ
解釈は皆さんにお任せします^^;
日夏耿之介の歌碑は、この他にも市内十数か所にあるとの事です。探してみては如何でしょう!
歌碑ではありませんが、出身の追手町小学校には「仲よく」の碑があります。
作品の中に意外な物がありました(私的にですが^^;)英文学者でもあるので翻訳は当り前かと思いますが、「サロメ」の翻訳は私的に意外と思えました。でも、人物の名前は全て漢字で表しているあたりはいかにも日夏耿之介らしいですね。タイトルも『院曲撒羅米』で、サロメは「撒羅米」と書いています。
下伊那農業高校の校歌を書いている(作詞)のも意外でした。
昭和31年(1956年)に脳溢血の発作で倒れ、飯田市に帰郷し愛宕神社境内に居を構えました。昭和46年(1971年)6月13日、自宅にて亡くなっています。81歳でした。お墓は春草と同じ拍心寺にあります。
樋口家のお墓は通路から少し入った所なので、少し分かり難いかも。昭和63年に亡くなった奥さんと一緒です。
温故知新シリーズですが、今回で一旦終了とします。次回からは地元飯田の様子を中心に!当面は桜の紹介になりそうですが^^;
(高18回 高田)
温故知新 ⑦ 菱田為吉 Ⅱ 追加情報と訂正
- At 3月 15, 2019
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先日、東京理科大の近代科学資料館へ行ってきました。わざわざこの為に?いえいえ、たまたま東京に用事が出来たので、そのついでです^^;飯田橋駅から徒歩5~6分でしょうか?電車からも見えるし、それ程遠くはありません。この駅、初めて降りましたよ^^;
見学は無料ですが、受付があります。館内は一応撮影禁止でしたが、申し込み書に記入すればOKとの事。撮影許可証のプレートを渡され、ブログへのアップも許可して頂けました。目的は菱田為吉の多面体模型です。2Fには箱に入った寄贈品が展示されていました。
部屋に入ると、壁の一面が為吉のコーナーになっていました。多面体模型はガラスケースに入っています。横に説明のパネルがあります。
これだけではその凄さが分かりませんね^^;数点アップで撮って来たので、ご覧ください。
最下段には製作過程が分かる様に、段階的な物が並んでいます。これを使って、「まずこういう形に削って、次にこうする」等と講義していたんでしょうね。
多面体の説明パネルに、為吉の経歴が少し書かれていました。ここから前回の時は分からなかったことも明らかになりました。
東京物理学校の講師となったのは、飯田中学退職後だったんですね~。多面体の製作も長期に渡ってのライフワークでした。本人はこれらの正多面体を、整正多面体と名付けています。昭和11年の退職時に東京物理学校へ寄贈されました。
高齢になってからの写真と、多面体制作時の写真もありました。椅子に座って机の上で・・・と想像していたのですが、床に座っての作業とは!ちょっと意外でした。
卒業証書もありました。為吉の名前の前に、長野縣士族とあります。
何故か中学の卒業証書も^^;長野縣中学校となっています。普通は個人に渡される物が、なぜ学校に?それだけ特別の人だった、と言う事ですね!
(これらの証書ですが、後日 近代科学資料館が所蔵している物はコピーとの説明を頂きました。説明文で〔本館蔵〕とありますが、本館とは理科大近代科学資料館ではなく飯田美術博物館の事と分かりました。
同窓会名簿では、為吉は明治17年下伊那中学校卒業となっていますが、こちらは明治19年長野縣中学校の卒業証書です。そこで『ものがたり菱田春草』を見直してみると「三男治は中等科を明治19年9月に卒業、続いて高等科に進む。翌年3月兄為吉は東京物理学校へ入学」とありました。
どうやら為吉は、下伊那中学終了後 校名の変わった長野県中学校飯田支校へ進み 明治19年に卒業。翌明治20年に東京物理学校へ入学したと思われます。と言う事は、東京物理学校は1年半で卒業した訳ですね。 また、この頃の小中学校は一級終了ごとに卒業証書を出していた様です。それで為吉の卒業証書が18枚あるのだと思います。)
更に、宮内省からの任命書も!明治28年に皇太子(後の大正天皇)の教育係となった訳ですね。更に、この時は学習院の助教授だったと分かりました。
弟たちの紹介もあり、弟家族の写真もありました。唯蔵の顔が分かります!イケメンの秀才と顔に書いてある様な^^中央は千代夫人なのかな?左端は唯蔵の奥さん?春草、唯蔵以外の説明はないので、皆さんも推測してみてください^^;
此処には為吉の他菱田兄弟の貴重な資料もあり、思い掛けない収穫でした。
(その後分かった事ですが、これ等の為吉の卒業証書や兄弟家族の写真が載っていた本は、飯田美術博物館発行の⇒日本の近代化に臨んだ人びと―田中芳男と南信州の偉人たちーでした。と言う事で、改めて飯田美術博物館より掲載の許可を頂きました。)
他にはどんな物がるのかも紹介しておきましょう。
計算機の歴史も分かります。ハンドルを回す物とか、使った事ありますか?^^
オーディオの歴史も!こんなの実物見た事ありますか?^^
世界最初の乾電池。これを作った屋井先蔵は此処の卒業生ではなく、付属職工との事。学者の皆さんと相談したりして作り上げたと言うから、産学共同開発の先駆けですね。でも特許は取りそこなった様で、乾電池の発明者は暫くの間 別の人の名になっていました。
ノーベル賞の大村先生は此処の卒業生でした。そのパネルも!
夏目漱石は帝大英文科卒ですが、小説の坊ちゃんは此処の卒業生と言う設定だったんですね~。
と言う事で、見所満載の科学資料館でした^^ う~ん、高校時代に此処を知っていたら・・・と思ってしまいました。お前じゃ無理~と突っ込みが入りそうですが^^;
(高18回 高田)
温故知新 ⑥ 菱田春草
- At 3月 11, 2019
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飯田に春草の⇒「白き猫」と言う作品があります。これは明治34年春草が飯田へ帰省した際、飯田学校同窓会を訪れ作品の制作を約束して、帰京後に描いて同窓会へ寄贈した作品です。・・・これを読んで、えっ何で我が校の同窓会へ来たのかな?春草は高等科卒業後、中学に進まず上京しています。兄為吉が飯田中学に赴任したのは明治35年だし。よくよく考えてみれば、飯田学校は現追手町小学校の事ですね^^;
春草は1874年(明治7年)9月21日、飯田市仲之町で菱田鉛治の三男として生まれました。本名は三男治、三男だからこの名前?イージーな感じがしないでもありませんが、親の一字を貰ったのは三男治だけです。前にも紹介していますが、生家跡は春草公園(正式には「菱田春草生誕地公園」)となっています。ここに誕生地の碑があります。碑はもう一ヶ所、美術博物館の庭にもあります。書体が同じと気付かれると思いますが、どちらも横山大観の書から起こされた物です。
幼い頃の春草に付いてはあまり語られていませんが「ものがたり菱田春草」には少しだけ書かれています。一部を紹介すると・・・
為吉と三男治、従兄の錬逸(れんいつ)は、3人で大きな凧を作りました。凧の絵をかくのは三男治の役目です。錬逸がふところから取り出した武者すごろくを見ると、三男治は馬にまたがって太刀を振り上げている荒武者の絵を描きました。それは、為吉も「ほうっ!」っとため息を漏らすほど見事な出来栄えでした。
明治13年、三男治は7歳で小学飯田学校(現追手町小学校)へ入学。勉強はどの科目も良く出来たそうです。中でも絵や工作の才能は学校でも認められていました。こんなエピソードも・・・
錬逸は「三男さん、今日はヤマガラを捕りに行こう」と誘いに来ました。「錬さん、おれ新しい鳥かごを作って待ってたんだよ」その鳥かごを見た錬逸は目を丸くして「うまいもんだな~」と感心しました。。小鳥屋で売っている物と変わらないほど上手に出来ていたのです。三男治11歳の秋でした。絵だけではなく工作も得意だったんですね~!
しばしば登場する従兄の錬逸ですが、調べてみるとなかなか大変な方でした!母くらの兄 小木曽岬治の次男として明治8年に生まれました。春草とは歳も近く、大の仲良しでした。飯田中学は出ていませんが(多分空白の7年間のせい)、高等商業学校(現・一橋大)を卒業し三菱に入社。東京の高橋家の養嗣子(ようしし・後継ぎの養子)となります。上京してからも春草とは付き合っていた様です。
大正13年には信陽舎の初代理事長となっています。余談ですが、⇒信陽舎のHPを見ると理事の欄に牧野憲治君(高18回)の名があります^^
昭和10年の第4回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝したガヴァナーの馬主は、高橋錬逸でした。
戦後は三菱商事を離れて日本女子大の理事なども勤めた人です。
三男治が高等科の頃、若き日の⇒中村不折が図画と算数を教えていました。後に春草の事を「もとから質はよかったが、理屈っぽい人間で吾々を困らせることばかり言っていた。絵がうまいので絵をやれと僕は言った事があったが、法律を勉強すると言っていた。」と語っています。
そんな三男治に絵かきの道を勧めてその気にさせたのは兄の為吉でした。三男治は、高等科を卒業すると上京するのでした。その頃の飯田はバスも電車もありません。三日間歩いて高崎へ出て、其処からやっと汽車で東京へ。東京へ着くと三男治は神田にいる兄為吉の下宿に同居するのでした。
春草はしばしば外遊していますが、言葉の方はどうだったのでしょう?英語サッパリの私としては気になる処です^^;春草は飯田で英語塾に通っていました。その頃飯田に英語塾があったのは驚きですが、三男治が小学生から英語を勉強していたと言うのも驚きです。上京してからも英語の勉強は続けていた様です。故に、大観も天心も外遊の際には春草を誘ったのでは?
美術学校からの春草の事は既に数多く語られているので、此処では省略します。それを書いていくと終わらなくなってしまいます^^;
代わりに地元ならではの情報を・・・
江戸町にある正永寺の庭に、魚籃観音像があります。石碑を読むと・・・この像は春草作「魚籃観音の図」をもとに彫刻した、と記されています。
はて、春草の「魚籃観音の図」とは?その様な作品は検索しても出て来ません。画集とかの中なのでしょうか?観音様のお顔を見ると、どことなく春草描くところの女性の顔に似ている様な・・・気のせいかな?^^;
春草最後の作品となったのは「早春」です。厳密に言うと掛け軸「梅に雀」の図が小品としての絶筆であり、知人に贈った菊の扇が明治44年8月の作で、これこそが絶筆という説もありますが、いずれにせよ「早春」は最後の大作と言えます。そう「早春」は、絹地の金屏風六曲一双に描かれた大作なのです。個人蔵との事なので、ネットでもあまり見る事がありません。でも見つけましたよ^^横浜国立大学准教授 平倉圭 氏が、国立近代美術館での春草展に書いた論文
⇒屏風の折れ構造と「距離」菱田春草 《落葉》・《早春》を見る
をご覧ください。冒頭は現代の目とあるのでアレッ?ですが、16ページの論文集なので10pへスクロールしてご覧ください。10pに「落ち葉」、11pに「早春」と解説があります。
「早春」完成後、春草の目は益々悪化が進み新聞も読めなくなりました。無理がたたった様です。体の方も腎臓病で弱って寝たきり状態の生活でした。昼間はまだ子供達の声や外の騒音などで気を紛らわす事も出来たのですが、夜は何も聞こえません。この頃の住まいは代々木村。今と違って雑木林や小高い丘もある静かな所でした。「落ち葉」も「早春」も、この辺りの風景を描いたものだそうです。(私は風越山の麓かと思っていましたが^^;)夜は、ポツンと一軒家の如く静かだったのです。
音もしない闇の中では気を紛らわす事が出来ません。色々考えてしまい眠れません。眠れない夜が続くと、春草は奥さんに新聞を何度も読んでもらったそうです。
雨の夜は軒のしずくがぽつりぽつりと聞こえ、心を慰めてくれました。春草は、ふと人造雨だれを思いつきました。筆を洗う缶に小さな穴を開け水を入れて天井から吊るし、下に金だらいを置くのです。当然自分では出来ないので、奥さんにやってもらいました。缶の小穴に綿を詰める等の調整をすると、良い感じの雨だれになりました。そこまでして心の辛さを我慢している春草を思うと、夫人の目には涙がにじむのでした。
それでもまだ治る事を信じていた春草は家を建て、6月に借家から新居に移りました。しかし病状は悪くなるばかり。誕生日目前の9月16日、とうとう帰らぬ人となってしまいました。
春草は若くして亡くなりました。当然ですがプロフの写真はお若い。明治時代の文化人の写真を見ると爺さんが多いですね^^;
若くてイケメンの春草、春草さま萌え~💛と言う女性も少なくない様です。こう言った方達は聖地巡礼で飯田を訪れ、ブログにアップしたりします。⇒こんな方や⇒あんな方も・・・居るんですね~^^
更に春草人気はこんな形でも⇒明治東亰恋伽! ゲーム~アニメ、ミュージカル、更にドラマ化、映画化とまぁ数年前から大変な事になっています^^ ストーリーですが、女子高生 綾月芽衣(あやづきめい)は明治時代の東京へタイムスリップ。そこで歴史上の著名人たちと出会い恋に落ちる。春草も⇒イケメン画学生として登場しています^^信州長野から上京とありますが、信州飯田から・・・として欲しかったですね~^^;
ところで春草終焉の地は今どうなっているのでしょうか? GoogleMap で検索してみると・・・ちゃんと碑が立っていました。
金網の向こうは?
代々木山谷小学校のグランドとなっています。
ではお墓は? 飯田市拍心寺の墓地にあります。墓石には「春草菱田三男治墓」と刻まれています。近くに訪れる事がありましたら、お墓参りをどうぞ!案内板に寄れば、東京中野の大信寺にも分骨してあるとの事。後年 菱田家の墓は東京に移されましたが、この墓だけは此処に留めたとの事です。
その大信寺ですが、今は別の所に移り墓地だけになっているそうです。
菱田為吉から始まった春草シリーズですが、今回で終了です^^これを書くにあたって参考にした「ものがたり菱田春草」ですが、下伊那教育会の先生方数名が共同で作られた物です。その中に私の恩師、小島恵蔵先生(故)の名がありました。もしかしたら皆さんの恩師も参加されているかもしれませんね。参考までにその名を記しておきましょう。
藤松千年男、塩沢正敏、宮下和夫、松島功、吉川喜三郎、中沢美治、林明、笹岡真次、村松睦三、長田清吉、松沢忠人、小島恵蔵、林和緒、
再版に参加、松沢平八、井浦汪、尾賀隆雄、玉木陽一郎、田中秀夫、吉川誠、伊波文三、飯田泰之・・・(敬称略)
そうそうこの本ですが、先日美術博物館へ行ってみたらそこでも販売していました・・・1,200円です^^;
さて次ですが・・・日夏耿之介に取り組んでみます。今のところ知っているのは、飯田市名誉市民第1号 と言う事だけですが^^;
(高18回 高田)