春ですね~!
- At 3月 20, 2020
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今年は暖冬?雪が積もらないまま春を迎える飯田下伊那です。桜も早く咲きそうですね。
今は紅梅がきれいに咲いています。撮ったのは少し前ですが、創造館の紅梅です。
アップもご覧ください。
こちらは加納家の紅梅です。御典医だったご先祖が堀公から授かった物と伝えられています。
堀公の紅梅はもう一本。飯田動物園の入り口にあります。
ついでに園内の動物も少し撮ってきました。珍しい白いタヌキです。 先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患、アルビノのタヌキ。以前は空洞の木が置かれその中で寝ている事が多かったのですが、今は隠れる所が無くなって見やすくなっています。顔はケガ?それとも出来物?
こちらはアライグマの家族でしょうか?
こんなシーンは春ならですね^^
さて、春といえば桜ですね。今咲いている桜を紹介しましょう。先ずは、川路の春めき桜です。
川路駅前から天竜峡にかけて、桜並木があります。なかなか大きくはならないですね~。天竜ライン下りの駐車場にも春めき桜があります。こちらは満開ですね。
アップも撮ってみました。風で動くので、アップの撮影は難しいものがあります^^;
天竜峡大橋の近くには、四季桜が咲いています。遠目ではきれいに見えませんね^^;
アップで見れば、なかなかですよ^^
せっかく天竜峡大橋を渡ったので、ついでにトンネルから出てきた電車も撮影。2両編成でした。
帰りは竜東から。八重桜街道では薄墨桜が咲き始めていました。
アップで見るとなかなか奇麗です^^
飯田の大宮桜通りはどうでしょう?南端が咲き始めています。
これはエドヒガンです。一見満開のように見えますが、近くで見るとまだまだですね。暫く楽しめそうです。
ついでに道路情報を^^;県道 飯島・切り石線ですが、工事中だった羽場・大瀬木間が3/14に開通しました。飯田インターから市街地までが近くなりましたね。
連休などで飯田に来られましたら、ここを走ってみませんか!
(3/9~20 撮 高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) 最終回
- At 2月 26, 2020
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勝ち目なき戦い
開戦以来快進撃を続けてきた日本軍。一木支隊の全滅は、帝国陸軍の不敗伝説が米軍の前に頓挫した事を示すものだった。大本営は、無謀な作戦の反省もしないまま次の兵を送る事を決めた。指名されたのは川口支隊。一木支隊の第二梯団と生存兵もこれに加わり6000人ほど。隊の戦法は、一木支隊と同じで陸軍伝統の夜襲だった。攻撃目標を飛行場とし、山に登り飛行場を上から攻撃する隊をメインに3方向から同時に夜襲攻撃する作戦だった。しかし人跡未踏のジャングルの山道は思うように進めず。攻撃態勢に入るのが予定より大幅に遅れた。他の部隊との連絡も出来ぬままバラバラに攻撃する事になり、米軍に返り討ちにされてしまう。海軍の駆逐艦7隻も加わり飛行場を攻撃したが、思うような成果は得られず。戦死者700名を数え後方撤退をやむなくされた。
ここに来て大本営は初めて本格的準備によるガ島奪還と戦局好転を図る事となった。二見参謀長は前々から「二個師団以上の兵力、重火器の準備、弾薬の補給、航空機の参加が必要」と主張していたが、作戦に消極的とされ罷免された。正論が否定されていた。
次に送られる事になったのは仙台第二師団。この頃になるとガ島周辺は制空権も制海権も殆ど米軍の手にあったが、10/13、第二師団は奇跡的に上陸に成功した。其処へ川口師団も合流。兵力は15,000人ほどだった。今度は長距離砲などの攻撃で滑走路の一部を破壊。海軍も戦艦、巡洋艦、駆逐艦を出し艦砲射撃を行い、飛行場の一部とガソリンタンクなどを炎上させたが、米軍はすでに第2滑走路を完成させていてさしたるダメージとはならなかった。10/24~25、第二師団も前回の川口支隊と同じコースで夜襲を試みたが、米軍の守りも強化されていてまたしても惨敗。戦死者は3,000人を超え、師団長は10/26早朝、攻撃中止命令を出す他なかった。
続行か撤退か
ガ島周辺のソロモン海域も、日米数度の衝突により制空権も制海権もほぼ米軍の物となっていた。米第一海兵師団も任務終了となり、バッチ陸軍少将率いる陸軍部隊が後を引き継いだ。バッチ師団長は持久戦で行く作戦をとった。実際島に残った日本兵は、補給が途絶え飢餓と病気との戦いになるのだった。米軍は飛行場を一望できるオースチン山を占拠。実質的な戦闘は終了した。
大本営では、奪回方針が堅持されていたものの、もう無理だという考えが浸透しつつあった。しかしここでも陸海軍双方の意地の張り合いが続いた。どちらも撤退という弱気な姿勢を見せたくなかった。結論が出せないまま無駄な時間が過ぎていく。この間も島に残った兵士は飢えと戦っていた。ガ島はいつしか餓島となっていった。
最終的には12/31、昭和天皇の元で大本営御前会議が行われ、ガダルカナル島からの撤退が正式決定となった。「陸海軍は共同してこの方針により最善を尽くすように」
ガ島からの撤退は、2/1、4、7の三次に分け毎回駆逐艦20隻で実施され、一万余名の撤退に成功した。しかしこの時、自力で歩けない者は置き去りにされた。ガダルカナルの戦いは、戦死、14,800人以上、戦病死約9,000人という大きな犠牲を払って終了した。大本営はこれを撤退とは言わず「転進」と発表している。
ところでこの撤退に米軍は全く気付かなかったのだろうか?それとも去る者は追わずだったのか?
誰が一木支隊を全滅させたのか
これがこの本のタイトルです。この本によって分かるのは、全滅は一木支隊長の責任ではないという事。では誰が?となると其処はあいまいな気がします。ガ島の米軍は1万人以上居たにもかかわらず、2千人程度とみた大本営の無知、無策、無謀な作戦の結果、と言えるのだが、誰とまでは書かれていない。東条英機か?戦争全体を見ればそうかもしれないが、ガダルカナルは?というとまた別な気がします。本書で辻参謀に触れている部分が気になった。「大本営の作戦失敗を覆い隠すため、現地部隊の失陥をあげつらい、その責任を擦り付けた張本人と目される人物」とだけ書かれています。これだけではよく分からないので、調べてみました。
辻正信 参謀(陸軍大佐)
ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。
その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。
神様というのは、「マレー作戦で辻は新聞記者相手の広報も担当し、記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「軍の神様」と謳った」との事で、作戦の内容が評価された訳ではないようだ。
ガダルカナルでは大本営で参謀として作戦を立てたが、米軍には「世界を知らない場当たり的な作戦」と評された。日本陸軍の戦法は日露戦争時代から同じで、銃剣突撃の白兵戦が主流だった。これが西部劇で銃器が進化している米軍に通用する筈がない。夜襲という奇襲作戦も、米軍はジャングルにマイクを設置していて奇襲にはならなかった。一木支隊で失敗した経験が教訓とされる事なく、最後まで同じ過ちを繰り返した。
南方へ行く兵士には「これだけ読めば戦は勝てる」という冊子が配布された。主に辻が書いたものだ。そこには「敵は中国兵よりも弱虫。武器はあっても兵はへなちょこだから役には立たない」等と米軍を侮る言葉が並んでいた。
辻は仙台第2師団の攻撃の際 ガ島に上陸し指揮を執ったが、マラリアに罹り途中撤退している。マラリアになって現場を離れた兵はいない。大本営に戻った辻は、最後までガ島撤退に反対していた。しかし「大丈夫、まだやれる」というだけで具体的な策を示す事はなかった。
戦後、当然戦犯とされたが、地下に潜伏。海外へも逃亡した。CIAは辻を「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」と酷評している。
昭和25年に辻は戦犯指定から逃れ、作家として世に出てくる。逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表し、それがなんと同年度のベストセラーとなったのだ。これで財と知名度を得て、昭和27年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。国会議員になったのだ。ある記者は、議員となった辻を取材した際「目の前に絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた」と感想を記している。
昭和36年、議員の辻は4月4日に公用旅券で日本を出発し、そのまま帰国する事はなかった。ラオスで捕らわれスパイ容疑で処刑されたという説もある。
昭和54年に、出身地である加賀市山中温泉に辻の銅像が建立されている。
NHKの番組
長々と書いてしまいましたが、今回でやっと終わりです^^ 私はガダルカナルと言えば、「日本軍が大敗した悲劇の島」という程度の認識で、詳細は知らずにいました。本校の先輩がこのように関わっていた事も今回初めて知りました。皆さんは如何ですか?
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その四
- At 2月 16, 2020
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ガダルカナル島
ラバウルの第17軍司令部の二見参謀長は、ガダルカナルの敵情を大本営が言うようには楽観視していなかった。一木支隊だけではなく、空母・戦艦・他の歩兵師団とも連携し態勢を整えて事に臨むべきと考えた。百武司令官も同意見だった。しかし大本営は、敵が態勢を整え飛行場を使い始める前に一刻も早く一木支隊を派遣せよ、と指示してきた。更に海軍が輸送艦艇の配備を渋ったため十分な輸送体制が取れず、支隊を2班に分けなければならなかった。二見参謀長は一木支隊の派遣を決めたが、その目的を敵情偵察に限定した。その報告を受けた大本営は怒り心頭「速やかにガダルカナルを奪還せよ」 やむなく百武司令官は一木支隊に出撃命令を下すしかなかった。
8/16早朝、一木支隊長率いる第1梯団はトラック島から出航した。第2梯団は4日後の予定だった。
8/18午後11時頃、一木支隊第1梯団916名はガダルカナルのタイポ岬に上陸した。目標の飛行場までは約35㎞だった。支隊は隊形を整え夜間の砂浜を前進した。川を渡り暫く行軍を続けると開けたテテレという砂浜に出た。そこで一旦休憩をとり、明け方将校斥候軍38名を送り出した。「前進経路の地形、敵の位置・数など何も分かっていない。しっかり情報を上げてくれ」しかし午後になっても何の連絡も来ない。2時過ぎになってようやく息も絶え絶えに伝令が戻ってきた。「将校斥候軍は全滅しました」それは予想だにしない報告だった。この先無人のコリ部落を出た所で兵に遭遇。味方かと思って合言葉を掛けると、銃弾が飛んできた。猛烈な勢いで撃たれ殆んどの者が戦死したと言う。支隊長は言葉を失った。
まず何をすべきか?生存者がいるかもしれない。一人でも多くの将兵を助けなければ・・・支隊長は、救護班と一個中隊をコリ部落へ向かわせた。救護班は午後8時過ぎ部落に到着。ジャングルに隠れていた仲間の兵を一人見つけた。他は皆やられた様だとの事。捜索したが、結局他に生存者はいなかった。
支隊本体は、午後4時に隊形を整えテテレを出発。コリ部落の少し手前で斥候軍の一人を見つけた。部落到着は午後10時ころだった。先発の救護班も合流した。遺体処理のための一個小隊を残し、本体は前進する事にした。処理班は全ての遺体を埋葬し、ヤシの木を削り墓標とした。作業を終えると本体の後を追った。
8/20、午前2時半ころ支隊はジャングルを抜け広場に出た。目安として目指していたレンゴだった。支隊長は大休止を伝えた。
この状況を司令部に伝えなくては。しかし通信は不通だった。第17軍司令部のラバウルとガダルカナルとは1,000㎞ほど離れていて無線が届かない。島の沖合に海軍の潜水艦を配備、中継する事になっていた。後で分かった事だが、この潜水艦が海軍の作戦指令を受け、陸軍に無断で別の海域に移動していたのだ。支隊長は司令部の指示も受けられないまま、今後の作戦を決めなければならなかった。出した結論は、このまま前進し攻撃続行、「行軍即捜索即戦闘」だった。
8/20、午前10時、支隊長は各部隊長を集め攻撃計画を伝えた。出発は18時、最後の川を渡ったら一気にルンガ飛行場に夜間攻撃。今日は持っている食料を全部食べてよし。飛行場を占領すれば倉庫の食料を好きなだけ食べられる。
午後6時、予定通り行軍を開始。海岸線に沿ってジャングルを前進した。必死の思いで大きな川を渡り切ったのは、午後10時半ころだった。
突然照明弾が光った。辺りが明るくなるとあちこちから一斉射撃の弾が飛んできた。もう反撃どころではなかった。次々と銃弾に倒れていく。更に照明弾の明かりで前方に沼があると分かった。実際は沼ではなく広い川だった。先程渡ったのは最後の川ではなかったのだ。支隊長は海側に砂州があるのを見つけ、そこを進むよう指示した。しかし集中射撃を浴び多くの兵が倒れていった。それでも何人かは砂州を渡り切った。しかしその先には鉄条網が張り巡らされていて、そこでも銃弾を浴びてしまった。突撃は何度か繰り返されたが結果は同じ、鉄条網を突破できた者はいなかった。
遅れて機関銃中隊と大砲小隊が合流した。遅れるのも無理はない。あの重い兵器を分解し人力だけで運んでいたのだ。先に着いた大砲が火を噴いた。続いて機関銃中隊の重機関銃も対岸の火点に向かって射撃を開始した。一旦は敵の勢いが衰えたかに見えたがそれもつかの間、敵の集中砲火を浴び機関銃手が戦死。交代するも同じ事、終いには撃ち手がいなくなってしまった。大砲も同じだった。撃つ度に敵弾が集中。一発撃つと何十発も撃ち返された。最後には砲弾の直撃を受け、飛び散ってしまった。
一木支隊全滅
支隊全力で行った突撃も、事態を好転させる事は出来なかった。支隊長は、これ以上の突撃は戦死者を増やすだけと考え、攻撃中止命令を出した。一旦タイボ岬に戻り第2梯団を待て、との指示も出した。しかし今度は戦車が現れた。海軍が見落とした輸送船から数台の軽戦車が陸揚げされていたのだ。退路も断たれた一木支隊はほぼ全滅。支隊長も戦死した。後の記録では、戦死者は777名となっている。タイボ岬には、奇跡的に戻る事が出来た十数名の戦傷者と最初から留守を守っていた者など、80名ほどが終結した。岬にあった漁師小屋に立てこもり、簡易的な陣形で守りを固め第2梯団の到着を待った。
8/21午後10時半ころ、ラバウルの第17軍司令部に「一木支隊全滅」の電文が届いた。しかし、そんな馬鹿な・・・これは敵の揺動工作だ、とされた。8/25、生き残った中尉から、一木支隊長の戦死とタイボ岬に生存者が集結している旨の知らせが第2梯団に届いた。この事でやっと一木支隊の惨敗が事実だと確認された。それは直ぐに第17軍司令部から大本営陸軍部に伝えられた。作戦の失敗は現地部隊の責任にする、というのが大本営の常だった。大多数の参謀は、作戦に過ちはなく失敗は現地部隊の精神力が足らなかったからだ、と決めつけた。服部課長と田中部長は、今回の作戦が失敗したのは一木支隊長の責任とし、支隊長はその責任をとって軍旗奉焼を命じたのち自決したとの筋書きを決めた。支隊は全滅している、証拠は何もない。戦闘詳報も第2梯団にこちらの言う通り書かせればよい、とされた。それはそのまま公式記録とされ、「一木支隊長はガダルカナルの作戦を駄目にした張本人」とされてしまった。・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その三
- At 2月 11, 2020
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グアム島
6/14、グアム島に上陸した一木支隊は、島の中心部にあるアガナ兵舎に入った。これまで参謀として支隊長を補佐してきた山内少佐は、帰京命令が来て参謀本部に戻った。しかしその他の情報は全く入ってこなかった。それでも訓練はこれまで通り行われた。支隊長は隊員の士気が下がらない様、中隊対抗の競技会などを行った。夕方太陽が沈み空が朱色の染まると、多くの兵士は海で釣糸を垂らして過ごした。カツオが良く釣れた。また兵舎には米軍が残して行った食糧も豊富に残っていた。しばし平穏な日々を楽しんでいた。そんな優雅な日々が長く続く筈もなく、突然の帰還命令で終わる事となった。
8/7、一木支隊は宇品に向け出航。隊員たちは長い遠征を終えグアム島で買ったお土産を抱え帰国の途についた・・・筈だったのだが、翌朝突然呼集ラッパが船内に鳴り響いた。大本営から指令が来たのだ。「次の作戦のため、直ちにグアム島へ引き返し乗船のまま待機せよ」
8/8、「パラオへ転進せよ」との内報があったが、9日の夜になって「トラック島へ行き第17軍司令官の隷下に入れ」。兵士たちは背嚢に入れた土産物は没収された。反応は様々。涙を流して悲嘆にくれる者、楽観的な者、「このまま帰ったら後ろめたかったな」「とっとと行って手柄を立てて帰ろうや」「今度こそいい機会だ」という者も多かった。
大本営
8/7、「ガダルカナルの飛行場が敵にとられた」との報せが届いた。ガダルカナル?陸軍部は全く知らなかった。海軍は米豪遮断のためソロモン諸島に飛行場を造り制空権を得ようと考えた。空からの調査でガダルカナル島が最適となった。島の大きさは四国の1/3程度、ソロモン諸島最大の島だ。6月に設営部隊が投入され、飛行場の建設が始まった。海軍はこの事を陸軍に伝えていなかったのだ。
8/6に800mの滑走路を持つ飛行場がほぼ完成した。それを見計らった様に8/7早朝、米軍は上陸作戦を敢行した。島に居た日本軍は殆どが設営隊で武器を持たない工兵。銃を持った将兵は300人に満たない。抵抗はしたもののもはや米軍の敵ではなく、ほぼ全員が玉砕した。海軍は、ここに飛行場を造れは強力な基地となる、そう考えただけで敵からの攻撃など全く頭になかったのだ。後で考えれば愚かな策と分かるが、当時そこまで考えた者は誰もいなかった。
海軍と陸軍は決してワンチームではなかった。「海軍が始めた事は海軍に責任を取らせろ」というのが陸軍の本音だった。それでもガダルカナルは重要拠点だ。取られたなら奪還しなければならない、という点は一致した。では陸軍は「状況により部隊の派遣を検討する」となった。多くの陸軍参謀は、グアムに居る一木支隊を想定していた。一木支隊はミッドウエー作戦の失敗を知っている。このまま帰国させれば、敗北という不名誉な事実が国民の間に知れ渡ってしまう。新たな任務に就かせれば帰国も先延ばしとなる。その後、賛否両論はあったものの派遣は一木支隊と決定した。
8/9、第1次ソロモン海戦に勝利したとの知らせが大本営にもたらされた。海軍第8艦隊は、敵大型巡洋艦4隻ほかを撃沈し大勝利と報告。しかし連合艦隊司令部の指示は第一目標が輸送船団だった。戦艦を沈めた事で浮かれてしまったのか、第8艦隊はそちらを攻撃ないまま帰還してしまった。米軍輸送船団は無傷でガダルカナルに上陸、武器弾薬などの資材と兵力の補給に成功していた。海軍情報部はこの情報を大本営陸軍部に伝えていた。しかしそこから現地の第17軍には伝わらなかった。士気に影響する負の情報として無視されてしまったのだ。
大本営陸軍部は、一木支隊をトラック島に行かせ第17軍の隷下に入れる様指示を出した。
米軍の体制
米艦隊司令長官のキング海軍大将は、ハワイの防衛とオーストラリア・ニュージーランドへの支援、更に北へ進出するにはガダルカナル島を占領しラバウルの日本軍を撃退する必要があると主張。米国首脳陣はこれを認めた。こうして米軍では「ガダルカナルを拠点として確保」という目的が、戦略レベルから第一線の部隊にまで浸透、確立された。軍種の壁を越え指揮官同士の連携も出来た。
南部太平洋軍担当のゴームレー海軍中将は、戦力不足を感じマッカーサー陸軍大将と会談。必要な協力は惜しまないとの約束をとりつけた。この作戦の指揮を執る事になったニミッツ海軍大将は、ガダルカナル攻撃作戦司令官にヴァンデグリフト少将を任命した。こうして米軍はワンチームとなって体制がまとまった。
海軍からの要請に陸軍が渋々協力する事にした日本軍。目的に向かって、陸・海・空が一致団結した米軍。戦う前から勝負はついていた。・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その二
- At 2月 02, 2020
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旭川へ
昭和16年7月、清直は歩兵第28連隊長となるため旭川へ赴任した。彼は現場進出主義で、連隊長室に居るだけの指揮官ではなかった。練兵場で訓練中の兵士一人一人に声をかけ指導にあったった。部下であっても相手を尊重し大切にする、そんな人柄で慕われていた。
翌年5/2に動員令が下され、新たな兵が合流し一木支隊が編成された。中には支那事変に従軍した者もいた。彼等は訓練が上陸戦闘を想定したものになっていたのに戸惑いを感じた。新しい夏制服と軍靴が支給され、行先は未だ聞かされていなかったがその装備からどうやら南方の戦地へ行くらしい、と察するのだった。
暫くの間待機状態が続いたが、5/13 突然「明日出征する」と告げられた。旭川最後の夜は何となくザワついて、多くの者は眠れなかった様です。
宇品へ
5/14、一木支隊は2組に分かれ広島県宇品(うじな)に向かって旭川を後にした。支隊長は部隊と同じ列車には乗らず、別行動をとった。急行列車を乗り継ぎ上野に向かったのだ。市ヶ谷の大本営で命令を受領するために。その際一時帰宅が許されていて、家族が待つ千葉の家へ向かった。自宅へ帰った直清は以前と変わらない時間を家族と過ごした。出征の朝、清直は夫人に「また留守をよろしく頼む。今度は南の島に行く事になった。3か月もしたらすぐ帰ってくるから」と言い残し家を出た。しかしそれが家族が見た父の最後の姿となってしまうのです。
大本営で支隊長に命令を説明したのは、作戦課班長の辻中佐だった。海軍と合流しミッドウェー作戦に加わるようにと伝えられたが、詳細は何も説明されなかった。それでも大本営の命令は絶対である。多くの参謀たちの激励を受け、宇品へ向かった。大本営からは南方班の山内少佐が同行した。二人は旧知の仲だった。
一木支隊は、宇品で海軍第2艦隊司令長官 近藤中将の指揮下に入った。第2艦隊はミッドウェー島攻略部隊。支隊長は着任の挨拶をすべく山内少佐と連合艦隊司令部が置かれている戦艦「大和」に向かった。大和が旗艦となったのは3か月前。連合艦隊司令長官は山本五十六でした。
南洋へ・・・ミッドウェー作戦
一木支隊は2班に分かれ「善洋丸」と「南海丸」へ乗船した。どちらも民間から徴用したもので、軍艦ではない。輸送船として使われていた。船にはキウイ、パパイヤ、マンゴーなど南国の果物が沢山積まれていた。隊員たちは、初めて口にする異国の味に大いに喜んだことだろう。しかし隊員の殆どは行き先を知らされていなかった。自分たちはなぜ海軍に合流し、どの様な任務に就くのか、全く知らさられていなかった。
日本軍は、昭和16年の真珠湾攻撃以降 連戦連勝で破竹の勢いだった。マレー沖海戦の勝利、グアム島、ペナン島、香港島、等東南アジアの島々を占領。次はミッドウエー島だった。昭和17年の東京空襲から始まった日本本土への空襲。大本営は、これを封ずるにはミッドウェー島を占拠し西太平洋の米海軍を制圧する事が必要と考えた。陸軍もこれに参加しないと存在感が薄れると考え、上陸部隊の参加を計画。軍旗を奉ずる歩兵連隊を上陸させれば絵になる、存在感を示すのに効果的、と考えた。一木大佐率いる歩兵第28連隊の軍旗は、明治天皇から授かった伝統ある物だ。加えて彼は盧溝橋での活躍からも適任とされ、一木支隊はこの作戦に参加する唯一の陸軍部隊に選ばれた。
5/25、一木支隊はサイパン島へ上陸。サンゴ礁などの環境がミッドウエーに似ている事から、ここを出撃準備拠点とし上陸訓練を繰り返した。
5/28、ミッドウエーに向けてサイパンを出航。約40隻から成る大船団で護衛の駆逐艦も一緒だった。
6/5、サイパンを出航して8日目は軍旗祭の日だった。旭川では北海道護国神社で行われていたが、洋上においても同じだった。軍旗は天皇から授かった神聖なもの。敵の手に渡る事など絶対にあってはならない。連隊旗手伊藤少尉は、棒持帯に焼夷剤を付け「万が一の時はこれで軍旗を奉焼する」としていた。軍旗祭は善洋丸の甲板で行われた。南海丸も並走し、一木支隊長の号令で軍機に対する敬礼が行われた。
翌日隊員たちは異常に気付いた。護衛の駆逐艦が速度を上げているが、自船は反転している。「大変だ。あれを見ろ」元の進行方向を見ると黒い煙が上がっている。飛行機もたくさん飛んでいる。戦闘が始まっていたのだ。
これまでの勢いからこの作戦も勝って当たり前と思われていたが、ミッドウエー作戦は失敗。海軍は初めての敗北を味わった。
(事の詳細はWikipedia で見る事が出来ます⇒ミッドウェー海戦)
この作戦失敗により、一木支隊の上陸作戦は何も出来ないまま中止。では何処へ行くのか?大本営海軍部は帰還させるとしたが、陸軍部は敗戦がバレない様にグアム島で暫く待機させるとした。大本営のご都合主義に振り回されるのだった。・・・(つづく)
(高18回 高田)
温故知新 ⑨ 一木清直(中9回) その一
- At 1月 30, 2020
- By dousoukaiadmin
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名前だけでは殆どの方が、誰~?と思うでしょうね。
私もそうでした^^; 教えてくれたのは北川 稔夫 さん(高18回)。この人を是非HPで採り上げてほしい、と言って一冊の本を渡されました。読書習慣のない私には重荷でした^^;著者の関口高史氏は、防衛大学の准教授。そのせいか、270頁にも及ぶその本は軍隊用語も多数。意味も読みも不明。2~3頁読むと睡魔に襲われる^^;そんなこんなで本を受け取ってから半年以上、いや一年近く経ってしまいました。
一木は養子に行ったための姓で、旧姓は加藤。余談ですが一木の読みは(いっき)。しかし静岡県袋井市の一部の地域しかそう読まないので、清直は(いちき)と呼ばれても訂正しなかった。
清直は、明治25年に市田村(現高森町)で加藤家の次男として生まれました。加藤家は代々飯田藩主 堀家の御殿医を務めた家柄でした。そんな家風から加藤家の人々は、医者か学校の先生になっていました。しかし清直は、帝国陸軍の軍人としてお国に身を捧げたいと考え飯田中学卒業後 陸軍士官学校へ。
結果、日本軍の転機においてその名を残す事になるのです。
盧溝橋事件
昭和11年5月、少佐の清直は支那駐屯軍歩兵弟1連隊第3大隊長として盧溝橋近くの豊台に赴任した。その翌年の7/7に、日中戦争の引き金になったと言われる盧溝橋事件が起きた。その日、部隊はいつもの様に夜間演習を行っていた。演習終了後、支那軍の兵士が実弾を撃ち込んできた。中隊長の清水大尉は呼集ラッパを鳴らし兵を集結させた。すると、ラッパ音の方向へ更に十数発の実弾が撃ち込まれた。この概要は、先に兵舎に戻っていた一木少佐に報告された。
一木少佐は連隊長の牟田口大佐に報告、指示を仰いだ。「一文字山を占領して戦闘隊形をとり支那側と交渉せよ」との事。午前3時頃、一木少佐は命令通り一文字山を占領した。そこへ大佐から電話。待機せよとの指示だったが、その前に支那軍からの銃撃があったため「我が方は如何しましょうか?」。一木少佐は、ここで戦闘が始まれば全面戦争になりかねない、と思ったので上官に訊いたのだが「撃たれたなら撃ち返せ」との指示。事は重大なので再度確認「本当に攻撃してよろしいんですね?」と。「間違いない。一木大隊はこの敵を攻撃せよ」。
この戦闘で多大な成果を挙げた一木少佐は、陸軍だけでなく日本中から称賛された。
それからほどなく清直は歩兵学校の教官を命じられ帰国。陸軍の後輩たちに、実戦経験に基づく最新の戦闘要領を教えた。学生たちは「一木教官の教育は精神論的なものではなく、実戦に裏付けされたもので大変勉強になった」との感想を述べている。
昭和13年7月 清直は、郷里の市田村尋常高等小学校と飯田中学校で「盧溝橋記念日を迎えるにあたり」という演題で講演を行っている。その締めくくりで、「これが支那事変の導火線だが、小生の如きがチヤホヤされるのは心苦しい。たまたまそこに居合わせただけの事。犬が棒に当たったまでの事です」と語った。上官だった牟田口少将(大佐から昇進)は、陸軍大学での講演で「日支事変は俺が始めた」と見得を切り失笑をかった。人柄の違いが良く分かるエピソードですね。
盧溝橋事件の詳細は Wikipedia で見る事ができます。興味を持たれた方はこちらをご覧ください⇒盧溝橋事件
さて、実はまだ本題に入っていません。ここまではプロローグの様な物。
270頁をかい摘まんでも一度には紹介しきれません。
続きはまた後程^^;・・・(つづく)
(高18回 高田)
飯田市消防出初式
- At 1月 14, 2020
- By dousoukaiadmin
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消防の出初式が1/13に行われました。文化会館で式典が行われた後、市中パレードです。シルクホテル横から隊列が組まれます。皆さんそちらに移動です。
パレードは駅前へ。閉店してしまったピアゴ横を通過。実は私も少し関係者でパレードに参加しています^^;
中央通りを通過。
リンゴ並木の交差点で、幹部の方々とラッパ隊がお出迎え。
千劇前を通過し、銀座通り~通り町へと進みます。
イベント会場となるのは、リンゴ並木の交差点。はしご車にくす玉を準備中。
パレードを終えた消防車は、通り町へ整列。
ラッパ隊の演奏が始まると・・・
くす玉が開きました。
続いて曲を演奏。
今度は音楽隊と交代。女性が目立ちますね。日向と日蔭はカメラ泣かせです^^;
今度は木遣り隊とまとい隊です。
最後は牧野市長(高32回)が万歳三唱で閉め、お開きとなりました。
(1/13 撮 高18回 高田)
どんど焼き!
- At 1月 13, 2020
- By dousoukaiadmin
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正月の松飾りなどを焼くどんど焼きが行われました。昔は1/7と決まっていましたが、いつの頃からか第1または第2日曜に行う様になりました。それも地区ごとの決めなので、実施日はマチマチです。私の地区は12日に行われました。全国的には小正月の行事で1/15に行う所が多かった様ですが、実施日は曜日で流動する様です。
前日の夕方おんべの前を通ったら、バックに月が出ていました。満月ではなく16夜でした。
点火は12日の早朝6時と決まっています。時間まで暖を取りながら待機。小島県議(高26ページ)も参加しています(中央白っぽいコート)
時間になると周りからいっせいに点火!
火の回りは早いですね。おんべは直ぐに火に包まれました。
先端の幣束にも直ぐに火が燃え移ります。
火の勢いが強い間は、皆さんも遠巻きに待機。
段々空も明るくなってきました。火の勢いも徐々に弱くなってきます。
皆さん、今か今かと待機中。
頃を見計らって、火を広げオキを作ります。
準備が出来た処で餅焼きです。焼き方も年々工夫されている様です。
焼くのは餅だけではありません。アルミ箔に包んだイモを投げ込んだり、フランクフルトやピザまで。ピザは初めて見ました^^
最後は用済みとなった竹竿も投入。三々五々流れ解散となりました。
それにしても今は子供の参加が少ないですね。不参加が多いのか、それとも子供の数が少ないのか?私が子供の頃は楽しみな行事の一つでしたが、今は違うのでしょうか?
昔は子供が主役の行事で、松集めやおんべ作りも子供がメイン。朝の点火前には「どんど焼きホーホ、方々のオヤジ、餅持ってとんで来い!」とはやし立てて町内を回ったものでした。皆さんの所は如何でしたか? 田舎から離れれてしまうと、どんど焼きは忘れてしまうのでは?都会では出来ない行事ですよね。此処は高羽町の公園ですが、昔と比べると飯田もおんべの数が減っています。
(1/12 撮 高18回 高田)
赤石山は巍々として
- At 1月 06, 2020
- By dousoukaiadmin
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明けましておめでとう御座います。皆さんのお正月は如何でしたか?私は・・・^^;
校歌にも歌われている赤石山脈ですが、今は南アルプスと言った方が一般的の様ですね。南アルプスジオパークも設定されています(2008年12月8日)ジオパークについてはこちら⇒南アルプスジオパークとは
昨日(令和2年 1/5)の飯田地方は快晴。山も冠雪で綺麗に見えました。と言っても自宅付近では、電線やら建物で写真にはなりません。それなりの所へ行って撮って来ましたので、ご覧ください。
赤石山脈の個々の山は分かりますか? 左から仙丈岳、少し離れて 北岳・間の岳、農鳥岳・・・
左から塩見岳・烏帽子岳・小河内岳
左から荒川岳、小赤石、赤石、兎岳、聖岳
小さくて分からない?では左(北)から順番にドアップで迫ってみます。先ずは仙丈岳。飯田からは一番大きくハッキリ見える山ですね。
北岳、日本で2番目に高い山。これだけ山梨県の山ですね。他はほぼ県堺。右隣は間ノ岳(あいのだけ)。
右隣の西農鳥岳と農鳥岳。
さらに右の塩見岳。
烏帽子岳と小河内岳。
荒川三山(悪沢岳、中岳、前岳)、手前の雪のない山は前茶臼山。
お待たせしました、やっと赤石岳です。一段低い方は小赤石。
聖岳
今度は上河内岳。
南端で未だ雪のない山は池口岳。
伊那谷と言っても高台からですが、こちらから見えるのはこの位ですね。市街地からだと見える山は少なくなります。赤石岳も殆ど見えませんね。赤石岳が良く見えるのは大鹿村でしょうか。数年前に撮ったものですが、ウエストンの碑もあります。
赤石岳も間近に見えます。
登れば一番なのでしょうが、登山の趣味が無い私は下から見るだけです^^ 晴れた日には、山を眺めるのも良いですよ^^
(高18回 高田)
丘の上のイルミネーション
- At 12月 31, 2019
- By dousoukaiadmin
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てっぺん公園のイルミネーションは早々と終わってしまいましたが、丘の上は年を越しても大丈夫です^^年末年始は、里帰りやら帰省やらでこちらに来ている方も多いかと思いますが、ちょっと覗いてみませんか^^;
旧飯田測候所では、橋北イルミネーションフェスタが行われています。
大正11年に建てられた本館は、国の登録有形文化財となっています。
かつての測風塔からは光の波が庭に・・・百葉箱や雨量計などの観測機器が設置されていた所は、今イルミネーションで賑やかになっています。
藤棚にもイルミネーション。ハートもあります^^
更に裏側に進むと、滑り台と下への階段が光のトンネルに!裏側にも3本のツリーと木に登るサンタさん!
脇坂門の先の階段には光のトンネル。二本松方面への遊歩道にもイルミネーション。
本館前の庭も賑やかです^^
最後に外側を見て、次に移りましょうかね。 此処のイルミネーションは1/10迄です。
次はトップヒルズです。場所は本町の信金本店前、立体駐車場の向かい側です。
人形美術館前のツリーも綺麗です。
側面にもイルミネーション!
階段の上はこうなっています。こちらは2月中旬迄との事です。
最後は大宮通りの桜並木です。こちらは1/25迄です。
此処は地面への投影が奇麗ですね。
色も変わります。
此処にほど近い洋菓子のトップさんも店頭にイルミネーション。
この日もファミリーで楽しんでいる方が居ました。
バラエティばっかりのTVに飽きたら、外に出てイルミネーションを楽しむのも良いですよ^^
今日は大晦日、今年最後の投稿になりますね。それでは皆さん良いお年を!
(高18回 高田)