先日の総会における、後藤拓磨さんの講演です。私的には理解が進まず、説明も上手くまとめられませんでした。折角の講演なので、私なりに調べて説明の補足をし、話をまとめたいと思います。

キーワードとなった落書きの「連帯を求めて孤立を恐れず」は、思ったより有名な言葉の様で検索すると沢山出てきます。更に安田講堂の落書きには続きがありました。全文を紹介します。
「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」
出てきたのはこの本。北野隆一著 プレイバック「東大紛争」(1990年)落書きの写真もあります。

 

 

 

 

北野隆一 はどういう人か?1,967年、岐阜県高山市生まれ。90年東京大学法学部卒、朝日新聞社入社。著者は、エピローグで「本多勝一氏(高2回)のルポを読んで、新聞記者になりたいと思ったのが高校時代。」と書いています。

では、これは誰の言葉か?調べていくと谷川 雁 の名が出て来ます。後藤さんの説明にも・・・もとは谷川雁が言い出す・・・とありましたね。谷川雁の評論集「原点が存在する」(1958)の中の「工作者の死体に萌えるもの」に記載されているので、その部分を引用します。

・・・すなわち大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する。そして今日、連帯を求めて孤立を恐れないメディアたちの会話があるならば、それこそ明日のために死ぬ言葉であろう。

はて、これには続きの言葉が出ていない。「力及ばずして~」は誰かが付け足したものでしょうか?

では、谷川 雁はどういう人か? 1923年1995年、熊本県水俣市生まれ。 旧制熊本中学、第五高等学校~東京大学文学部社会学科卒、日本の詩人評論家サークル活動家、教育運動。評論集「原点が存在する」「工作者宣言」は1960年代の新左翼陣営に思想的な影響を与えた、とあります。長野県との関わりは、 1978年 黒姫山のふもとへ移住。「信濃毎日新聞」に昭和59年から昭和60年迄寄稿したものをまとめた、「海としての信濃」谷川雁詞集 があります。

後藤拓磨さんの話には、色々な先人の名が出て来ましたね。知った名前はありましたか?私は誰も知らない。

其処から一人、後藤総一郎氏が呼び出される。

どういう人か?1933~2003。遠山郷生まれ。1952年 飯田高校卒業(高4回)。1955年、明治大学法学部入学後、同大学政治経済学部に再入学。柳田國男研究を軸に、多くの著書がある。
・『柳田国男論序説』伝統と現代社 1972。
・『柳田学の思想的展開』伝統と現代社 1976。
・『柳田国男論』恒文社 1987。
・『天皇制国家の形成と民衆』恒文社 1988。
郷里にちなんだ物も。
・『柳田学の地平線 信州伊那谷と常民大学』信濃毎日新聞社 2000。
・『伊那谷の民俗と思想』南信州新聞社出版局 2003。


明大で全学連に加わり、副委員長に。委員長は東大の香山健一とある。
香山健一(こうやま けんいち)、1933~1997年。東京生まれ。昭和16年~昭和21年を、父の転勤のため満州国新京特別市(現・長春市)で過ごす。昭和28年、東大文科I類入学、社会科学研究会に入る。学生運動に参加し、昭和31年、 全学連の委員長に就任。日本の政治学者。元学習院大学法学部教授。

総一郎は、昭和52年に、故郷の遠山で「遠山常民大学」を開く。

更に数年後、飯田歴史大学も開講。拓磨は南信州新聞に入社、「総一郎番記者」となる。ここで出会った訳ですね。

拓磨は総一郎から本を貰う。「天皇制国家の形成と民衆」・・・天皇の存在は、柳田国男が腑分けした〈祖霊信仰―産土信仰―氏神信仰―天皇信仰〉という経過を辿って天皇制心理を形成している。天皇信仰の幻想と制度的実体との葛藤に論及しつつ、天皇制国家の作為と自然の思想的構図を追究した本。そして「拓磨、伊那谷の右翼運動を書け」と!これを機に彼は、歴史作家への道に進む事になったのかな?

今度は松本健一の名が出て来る。

松本健一、1946年~2014年。群馬県生まれ。埼玉県立熊谷高等学校~1968年に東大経済学部 卒。評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。著書は多い。

・『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』現代評論社 1971 、
・『北一輝論』現代評論社 1972、講談社学術文庫。
・『評伝 北一輝』大和書房 1976 。
・『北一輝伝説 その死の後に』河出書房新社 1986 。
・『評伝北一輝』(全5巻) 岩波書店 2004、中公文庫 2014。
・『北一輝霊告日記』第三文明社 1987。
・『谷川雁革命伝説』河出書房新社 1997
・『北一輝の革命-天皇の国家と対決し「日本改造」を謀った男』現代書館 2008。
など、北一輝について書いた物が多い。

北一輝については多くの人が書いている。手塚治虫も「一輝まんだら」という漫画を描いている。更に、松本清張も「北一輝論」を書いている。
村上一郎は「北一輝論」(三一書房、1970)を書き、そこで日本の戦後憲法は北一輝の「日本改造法案大綱」だという。

はて?学校で「日本の憲法はGHQ が作った」と習った。そうではなかったのか?

北 一輝(きた いっき)本名:北 輝次郎〈きた てるじろう〉について調べてみる。1883年(明治16年)~ 1937年(昭和12年)。新潟県佐渡生まれ。早稲田大学政治経済学部。思想家。失明したためか、思想家としては著書が少ない。
1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』刊行。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は、発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされた。「日本改造法案大綱」の初版はガリ版刷りだった。

「日本改造法案大綱」で日本の国家改造を提唱。その中で、「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した・・・確かに今の憲法ではほぼそうなっていますね。

二・二六事件で、民間人でありながらも理論的指導者の一人として逮捕され銃殺刑に処される。時に54歳。

GHQは、一輝の著書を手本として日本憲法をまとめた、と言えそうだ。「GHQに押しつけられた憲法は、変えなければいけない」と叫ぶ政治家は、この事を知っているのだろうか?

憲法の話の後は、南京大虐殺に移る。余談ですが、盧溝橋で応戦した日本軍は、市田出身の一木清直少佐(中9回)率いる一木大隊ですね。
半年後、松井石根(まついいわね)大将は首都南京を制圧。この時、軍は一般人を含む中国人を大勢殺害したとされる。

大虐殺は本当にあったのか?後年(平成元年)それを否定する田中正明氏(中3回)の投稿が南信州に載った。

これに対し、今度は本田勝一氏(高2回)から、何故載せた?との質問状が届く。

本田氏は、戦後の中国を取材し「南京で日本軍による大虐殺があった」と報道している。本田氏の質問に、琢磨氏は「投稿があったから載せた」と回答。そこはそれで治まった。

田中 正明(たなか まさあき)明治44年~ 平成18年。歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者、アジア植民地解放運動の活動家。喬木村出身、 中3回生。興亜学塾卒。松井石根の元私設秘書。南信時事新聞(現 南信州)編集長も務めた。世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事[2]。拓殖大学講師。日本アラブ協会常任理事。著書も多い。南京事件に関しては「無かった」としている。

  • 大東亜戦争は侵略ではない(靖國神社)
  • パール判事の日本無罪論(慧文社、1963年、2001年に小学館文庫で復刊)
  • 南京虐殺の虚構―松井大将の日記をめぐって(日本教文社)1984年
  • 松井石根大将の陣中日記(芙蓉書房)1985年
  • 「南京事件」の総括(謙光社、1987年、2007年に小学館文庫で復刊)

本多 勝一(ほんだ かついち)昭和7年。作家。元朝日新聞記者。松川町出身、高3回生。千葉大薬学部卒業後、京都大学農学部農林生物学科卒。昭和34年、朝日新聞社に入社。同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく「常識」なしの昭和34年組と社内で皮肉られたという。平成3年に同社を定年退職。著書も多い。南京大虐殺はあったとする側の急先鋒ともいえる。

・『中国の旅』朝日新聞社 1972 のち文庫
・『中国の日本軍』創樹社 1972
・『南京への道』朝日新聞社 朝日ノンフィクション 1987
・『南京大虐殺と日本の現在』金曜日 2007
・『裁かれた南京大虐殺』編 晩声社 1989
・『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 小野賢二 , 藤原彰 共編 1996 大月書店
・『南京大虐殺歴史改竄派の敗北 李秀英名誉毀損裁判から未来へ』渡辺春己,星徹共著 教育史料出版会 2003
・『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』星徹,渡辺春己共著 週間金曜日 2009

変わったところでは、『NHK受信料拒否の論理』未来社 1973 も書いている。

野球は嫌いらしい。朝日の週刊誌『朝日ジャーナル』連載で、『新版「野球とその害毒」』を書いている。でも皮肉な事に、全国高校野球選手権大会は朝日新聞社と日本高等学校野球連盟(高野連)が主催している。

南京事件を巡っての論争は、同窓の先輩二人が先に立っている。これは興味深い。それにしてもこの様な大事件の有無が何故論争となるのか?当時の報道は、両国のプロパガンダの影響が強い。今のウクライナ戦争にしても、プーチンの国内向け発表はプロパガンダそのものだ。ロシア国民に真実は伝わっていない。

今はどうなっているのか?論争は論争のままで、決着は付いていない様ですね>南京事件論争(Wikipedia)
ネットにはこんな記事もあります>音を立てて崩れ始めた「南京大虐殺」の嘘(JBpress)

冒頭の落書きですが、18回生の私は見ていない。気付かなかったのか?そんな落書きがあれば、私の目にはとまった筈。私の時には無かったのだ。
谷川 雁が本に書いたのは1958年(昭和33年)だが、一般的に知られるようになったのは安田講堂事件(1969年・・・昭和44年)以後ではなかろうか。話の順番から、母校に書かれた落書きがその後安田講堂に書かれたと思ったが、順番は逆なのでは?安田講堂の落書きを知って、その頃の在校生が母校に書いた。この方が自然と思われる。そう考えると、書いたのは21回生以後の人であろう。如何ですか?

(高18回 高田)