秋葉路の足神神社とにしうれ西浦田楽(会報の原稿を拝借)


車も鉄道もない昔、下伊那地域から秋葉山にひぶせ火防のお札をもらいに行くのには小川路峠さらに青崩峠を超えて遠州に入り、二日半を要した。この秋葉街道は「塩の道」として伊那谷と遠州を結ぶ要路でもあった。
青崩峠の遠州みさくぼ水窪側の麓には、つい見落とし通り過ごしてしまいそうな小さな祠があって、往還の旅人は旅の安全を祈ったという。その祠に由来する縁起は古く鎌倉時代に遡る。社伝によると時の執権北条時頼が名を伏せて諸国行脚し、青崩峠を越える際に脚を患う。それを祠の一隅の石清水で治癒せしめたのが、諏訪神家・守屋一族を出自とする五代目守屋辰次郎であった。それが機縁となって「足神神社」が誕生したという。
今の四十一代目宮司、守屋冶次君は、同じ一六回卒。昨年の秋奉りに仲間を募り参詣。深い谷の斜面に杉林で囲まれた狭い境内に近在遠来の三百人もの参詣者ですずなり。あらたかな霊験が呼び寄せた参詣者は九十代の長老をはじめプロサッカー選手もいて多彩だ。奉りの後の参詣者の顔には清清しさが浮かぶ。
境内の一隅に湧き出る清冽な石清水は霊験あらたかなだけでなく「うまい!」との評判。遠くから多くの人が訪れ、求める。「中央構造線が発する霊気の気場にあって、その気を受けた御神水、足神様からの恵みの水」と守屋宮司はいう。守屋宮司にはもう一つの顔がある。水窪町にしうれ西浦の田楽(国指定重要無形民俗文化財)の保存会長、能衆の頭として自らも舞う。養老三年、行基がこの地を訪れ聖観音像と仮面をつくる。これを機に祭りが始まったと伝わる。
旧暦一月一七日の足神神社の御開帳を受けて、観音堂境内で翌一八日の月の出から翌朝の日の出まで徹夜で執行する五穀豊穣、子孫長久などを祈願する神事である。
昔からこの地に伝わる儀式と舞いから成る「地能」、比較的新しい芸能の舞いを含む「はね能」と続き、最後は迎えた神々を送り返す厳粛な「しずめ」で閉めくくられる。その直後に太陽が昇る。厳寒の谷間は日が輝き、身体を温かく包んでくれる至福の瞬間である。
信毎(2/22付)は「千三百年の歴史を持つ神事は、能衆の家がかつての二十四戸から十三戸に減少する今も男子の世襲によって厳格に守られている」「一六会の仲間が見守った」と写真入りで報じた。     (田中正俊)

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