風景の中に溶け込む、丁寧な暮らしのかたち

飯田高校は、これまで長きにわたり、地域や社会に多くの人材を送り出してきました。

私は、地域の中で実践を重ね挑戦している「人」にも焦点を当て、ご紹介したいと思います。
本稿は、その一つの試みとしてご覧いただければ幸いです。

殿倉 由起子さん(高54回)

株式会社 太陽農場         代表取締役

飯田高校卒業後、「地元を出たい」という思いからイギリスへ留学。観光学を学びながら、スコットランド・エディンバラのホテルでインターンを経験し、卒業後も現地で勤務されました。帰国後は東京の外資系ホテルに就職し、サービス業の現場で経験を積まれます。

その後、2011年の東日本大震災を機に、ご主人とともに飯田市へUターン。実家である株式会社太陽農場に入り、就農されました。かつては「農業は自分に向いていない」と感じていたという殿倉さんですが、野菜ソムリエの資格取得をきっかけに農業の奥深さと魅力に目覚め、活動の幅を広げていきます。

若手農家との交流を通じて農業の仲間を増やし、長野県の農業青年組織「PALネットながの」の会長(20162017年度)を務めるなど、地域農業の担い手として中心的な役割を果たしてこられました。2021年には父から事業を継承し、太陽農場の代表として経営を担っています。                      

殿倉さんのもう一つの軸が、りんごを原料とした発泡酒「シードル」の普及です。留学先のイギリスで親しんだ文化を原点に、自ら育てたりんごでシードルを製造・販売。さらにその魅力を伝える場として、202311月には自社農園の隣にご主人殿倉健一さんと農業体験型宿泊施設「Cider Barn &more」を開業しました。

この施設では、農業体験やシードルの試飲を通じて、訪れる人々が南信州の風土と食の豊かさを体感できる場づくりが行われています。

地域の農産物を単なる「生産物」としてではなく、「体験」として届ける取り組みは、これからの地域観光の可能性を感じさせるものです。 

プライベートでは一児の母として子育てにも向き合いながら、地域に根ざした暮らしと仕事を両立されています。現在は小規模特任校制度を活用し、お子さんを自然豊かな環境の中で育てておられます。

「一度は離れたからこそ見える地元の価値」

殿倉さんの歩みは、南信州という土地の持つ可能性と、その魅力を未来へ繋いでいく人材の存在を、私たちに改めて教えてくれます。

南信州の未来をつくる「暮らしの現場」

今回私が宿泊した宿「Cider Barn &more」でまず感じたのは、南信州の持つ魅力は、東京や京都には存在しないもの、体験できないこと、ということでした。

日々の暮らしの中にある風景、人の営み、そこで交わされる言葉やおもてなしの心こそが、この土地の見えざる価値なのではないか、そのことを、滞在を通じて改めて実感しました。

南信州の「日常」が、特別になる場所

南信州・飯田市下久堅に佇む一軒の宿「Cider Barn &more」

一見すれば、何気ない農村の風景

しかし、ここには“外から来た人”だからこそ気づく、そして“地元に生きてきた人”だからこそ形にできる、不思議な魅力がありました。

この場所は、南信州の「これまで」と「これから」が静かに交差する中継地点です。

■ Cider Barn &more 宿泊レポート

ここで過ごす時間は、どこか懐かしく、そして新しい。
ストーブの薪の燃える香り。
漆喰と木に包まれた暖かみ。
人の気配がほどよく残る暮らしの音。

ウェルカムドリンクは3種のりんごジュース。

ゲストルームの大きく縁取られた窓から見えるのは、遠くに中央アルプス、風越山、眼下には天竜川に沿って緩やかに広がる河岸段丘。

ゆっくりと影っていく風景のなかに身を置く贅沢な時間、観光地のような作られた非日常ではなく、「日本の日常の暮らし」がそのまま残っている、それを体験できること自体が、いまや一つの大切な価値になっていると感じました。

◾️夕食 ― 食を通して地域を知る

夕食は、地元の旬の食材の料理が中心で、自家製シードルとともに提供されました。

一皿ごとに説明を聞きながらいただくことで、単なる食事ではなく、南信州の気候や文化、暮らしぶりが自然と理解できます。

食事の時間には、オーナーとの会話も弾みました。移住までの経緯や、この地での生活、海外でのご経験などを伺う中で、「なぜここで農業をし、この宿を営んでいるのか」が少しずつ見えてきます。

観光では得られない、地域の内側に触れる時間を感じました。

■ 夜 ― 静寂の価値

夜になると、周囲は驚くほどの静けさに包まれます。

普段の生活では意識することのない「音のない時間」が、ここでははっきりと感じられました。

客室は質素でありつつ清潔で、必要なものが過不足なく整えられています。

余計なものがない分、気持ちも自然と落ち着いていくようです。

その夜は、久しぶりに深く眠ることができ、「何もしない時間」の大切さを実感しました。

◾️朝 ― 日常の中にある豊かさ

朝は、窓の外に広がる山と里の風景とともに始まります。

特別な観光地ではない、ありふれた風景のはずですが、不思議と心に残るものがありました。

朝食はシンプルながら、食材の新鮮さを感じられる内容で、身体にやさしい印象です。

香り高いコーヒー、新鮮な牛乳、りんごジュースをいただきながら過ごす時間は、まるでこの土地で暮らしているかのような感覚を覚えました。

◾️出発 ― 「また来たい」と思える訳

チェックアウトの際、自然と「また来たい」という言葉が浮かびました。
それは単なる観光地への再訪するというよりも、「もう一度この人に会いに来たい」という気持ちに近いものでした。

今回の滞在を通じて感じたのは、南信州の魅力は風景や名所だけではなく、「そこに暮らす人」にあるということでした。

◾️Cider Barn &more とは

この宿での一夜は、観光ではなく「体験」であり、「出会い」でした。
南信州は一見すると「何もない場所」に見えるかもしれません。
しかし実際には、余計なものが削ぎ落とされた中に、本質的な豊かさが存在しています。
そしてその中心にあるのは、やはり「人」です。

■ なぜ、Cider Barn &more を始めたのか

今回、宿のオーナーで株式会社太陽農場代表取締役殿倉由起子さんにお話を伺いました。

Q. Cider Barn &more を始めたきっかけを教えてください。

A. もともとは、自分たちが育てているりんごや農産物の価値を、もっと直接的に伝えたいという思いがありました。

ただ「作って出荷する」だけではなく、その背景にある風土や暮らし、人の想いまで含めて届けたいと考えるようになったのがきっかけです。

イギリスは世界一食事のまずい国、と言われている通りで、イギリスの食生活の貧しさから、南信州の食と農業の豊かさを体感しました。

また、一度外に出たからこそ、この地域の日常そのものに価値があると気づけたことも大きいです。

何気ない風景や暮らしが、外から来る人にとっては特別な体験になる。
それをちゃんと受け取ってもらえる場所をつくりたいと思いました。

農業だけでは伝えきれないものを、宿泊という形で届ける。その中で、食やシードル、人との会話を通して、南信州の魅力を体験として感じてもらいたい。

そんな思いが重なって、「Cider Barn &more」を始めました。

Q. Cider Barn &more の立ち上げから運営までに感じた苦労は何ですか。

A. 一番大きかったのは、この取り組みに対して周りの方に共感してもらうことでした。

農業に宿泊を組み合わせるという形は、まだ地域の中でも前例が多くなく、理解していただくまでに時間がかかりました。

Q. Cider Barn &more から感じる喜びは何ですか。

A. 一番の喜びは、県内外、そして海外から来てくださるお客様との出会いと交流です。

普段の生活の中では出会うことのない方々が、この場所を訪れてくださり、同じ時間を過ごす中で自然と会話が生まれます。

その中で、この地域の魅力をお伝えできたり、逆にお客様の価値観や文化に触れられることが、大きな刺激になっています。

また、「また来たい」「誰かに紹介したい」と言っていただけることや、実際に再訪してくださる方がいることも、大きな喜びの一つです。

この場所を通じて、人と人がつながっていくこと。それを日々実感できることが、続けていく原動力になっています。

Q. Cider Barn &more を利用されるゲストに特徴はありますか。出身地に傾向はありますでしょうか。

A. 特徴としては、想像以上に海外からのお客様が多いことです。

イスラエルをはじめ、日本では普段なかなか出会うことのない国から来られる方も多く、この地域にいながら世界とつながっている感覚があります。

国内では、東京や名古屋など都市部からのお客様が中心です。日常とは違う環境の中で、ゆっくりとした時間を過ごしたいという方が多い印象です。

国籍や背景はさまざまですが、「その土地の暮らしや文化を体験したい」という思いを持って来てくださる方が多く、この場所のあり方と重なっていると感じています。

Q. この土地から外に出たことで見えたものは何でしたか?

A. 一番大きかったのは、南信州の食や農業の豊かさに気づけたことです。

外に出て生活してみると、食材がどこから来ているのか分からなかったり、季節を感じる機会が少なかったりと、日々の食と暮らしの距離が遠いと感じることが多くありました。

それに対して南信州では、身近なところで季節の野菜や果物が手に入り、それを当たり前のように食べられる環境があります。

それは決して当たり前ではなく、とても価値のあることだと実感しました。また、伊那谷の景観の美しさも、外に出たからこそ強く感じるようになりました。

日常の中にある風景が、実は特別なものだったと気づけたことは、大きな変化だったと思います。

Q. この場所で伝えたいことは何でしょうか?

A. この場所で伝えたいのは、伊那谷・南信州の「風味・風土・風景」という3つの“風”です。

まず「風味」は、この土地で育った食材の味わいです。
りんごや野菜など、日々の食を通して、この地域ならではの豊かさを感じてもらいたいと思っています。

「風土」は、この土地の気候や歴史、人の営みです。農業や暮らしの背景にあるものを、体験や会話を通して知っていただけたら嬉しいです。

そして「風景」は、伊那谷ならではの景色です。山や川、日々移り変わる自然の中で過ごす時間そのものが、大切な体験になると感じています。

この3つを通して、この土地の魅力を“情報”ではなく“体験”として持ち帰っていただくことが、私たちの役割だと思っています。

Q. 南信州で何かにチャレンジしたいと考えている同窓生、在校生にひとこと

A. 南信州は、一見すると何もない場所に見えるかもしれません。でも実際には、ここには人の営みや自然、文化が重なり合った「本質的な豊かさ」があります。

私自身、一度この土地を離れたからこそ、その価値に気づくことができました。そして今は、その価値をどう伝え、どう形にしていくかに向き合っています。

正直に言えば、地方で何かに挑戦することは簡単ではありません。人も資金も限られていて、思い通りにいかないことの方が多いです。

でも、その分、自分のやりたいことがダイレクトに地域とつながり、形になっていく面白さがあります。

「何もない」と感じるか、「まだ何もない」と捉えるかで、可能性は大きく変わります。南信州には、これからいくらでも新しい価値をつくれる余白があります。

もし少しでも「やってみたい」という気持ちがあるなら、その気持ちを無視しないでほしいと思います。小さくてもいいので、一歩踏み出してみてください。

■ 南信州の女性が持つ力

今回の滞在で強く感じたのは、この地域の女性が持つ“しなやかな強さ”でした。

外で得た視点と、地元で育った感覚。その両方を自然に行き来しながら、新しい価値を生み出している。

決して前に出すぎず、しかし確実に周囲を動かしている存在。それは、これからの南信州において重要なロールモデルになると感じました。

■ 編集後記

南信州には、世界遺産もテーマパークもありません。富士山も望めません。
だからこそここには、「何にもないけど全部ある」誇るべき日本の日常があります。
そしてその価値に気づき、形にしている人たちが確実に存在します。
今回の訪問は、この土地が持つ無限の可能性を強く感じる時間でした。
本稿が、南信州という地域を新たな視点で見つめ直す一助となれば幸いです。

Cider Barn &more:☎ 070 – 3197 – 0412

399-2602 長野県飯田市下久堅下虎岩41-2

Instagram  https://www.instagram.com/ciderbarn_andmore?igsh=MWF6aDc3NGhhNm4zcw==

※本稿は筆者個人の宿泊体験および所感に基づくものであり、同窓会としての公式見解を示すものではありません。

(中京支部 所澤  高33回)