北川 稔夫 さん (高18回)からの投稿
- At 2月 26, 2019
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北川 稔夫 さん (高18回)からの投稿を掲載します。
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兵庫県丹波市での大江磯吉
ふるさと情報便の大江磯吉をみました。
数年前に磯吉が亡くなる直前に校長をしていた兵庫県丹波市の柏原高校を訪ねたことがあります。歴史資料館で聞いた話では磯吉に関する資料が旧制中学の校舎が兵庫県の有形文化財「白陵記念館」として残されていて納められているそうです。
あいにく休館日であったので見ることはできませんでしたが 磯吉の柏原に於ける話をかなり詳しく聞くことができました。地元柏原では校長排斥運動の話が語り伝えられているようですがその対処に対して高い評価を受けている話でした。
また昨年丹波新聞に磯吉の紹介記事が掲載されていましたので紹介します。
==丹波新聞より==
「破戒」のモデル・大江礒吉 生誕150年、部落差別と戦った教育者島崎藤村の小説「破戒」のモデルとなったといわれている大江礒吉 島崎藤村という有名な小説家に「破戒(はかい)」という作品があります。被差別部落出身の教師を主人公にした小説で、この作品のモデルになったといわれているのが、明治34年(1901)に33歳で兵庫県氷上郡(現・丹波市)の柏原高校(当時は柏原中学校と言っていました)の2代目校長になった大江礒吉(ぎきち)。今年で生誕150年を迎えます。
礒吉は、その「生まれ」のためにいわれなき差別を受けましたが、差別とたたかいながら教育者として見事な生涯を生き抜きました。
母のせんべい「もったいない」
礒吉は、明治元年(1868)、今の長野県飯田市に生まれました。もともとの名前は磯吉(いそきち)で、のちに礒吉(ぎきち)と改めました。 磯吉の祖父も父も「番太(ばんた)」という仕事をしていました。村の番人として警備の仕事をしたり、ときには変死体の処理や墓掘りをしたりしていました。「番太」は、いやしい職業とされ、さげすまれていました。
磯吉は小さいころから利発な子どもでした。両親は「何としても学問で身を立たせてやりたい」 と願い、貧しさにあえぎながらも、必死の思いで磯吉を学校に通わせました。
母親は、磯吉の学費や生活費をかせぎ出すため、せんべいを焼いて、遠くまで売り歩き、夜遅くに帰ってきました。こんな話があります。母親は、売れ残ったせんべいを磯吉に食べさせようとしましたが、母親がどれだけ苦労しているかを知っている磯吉は、せんべいを食べることが何とも申し訳なく、母親がいくら 「お食べ」と言っても、「もったいない」と食べませんでした。磯吉の人柄がつたわってくるエピソードです。
ランプ頼りに猛勉強
磯吉は14歳で、中学校(今の飯田高校)に入学しました。中学校に入学できる生徒は少なかった時代です。にもかかわらず、磯吉が入学できたのは、近所の人たちらの支援があったからです。成績が優秀で、日ごろの行いも良かった磯吉は近隣の人たちから愛されていました。
この中学校で、大きな出会いがありました。武信由太郎(よしたろう)という英語教師との出会いです。 武信は、我が国の英語教育に多くの業績を残した先生で、欧米の文明に明るく、自由主義を尊んだ人物でもありました。
磯吉をかわいがった武信先生は、欧米諸国の文化を磯吉に紹介し、キリスト教精神に基づく自由や平等といった民主主義の考え方を説いて聞かせました。教育に対する磯吉の考え方には、自由と平等を尊ぶところがありますが、武信先生との出会いがその出発点になったのでしょう。
貧しいために、辞書や参考書も買えない磯吉のために、武信先生らは英語辞典などを貸し与えてくれました。磯吉は毎夜、薄暗いランプを頼りに、それを写しながら勉強に励みました。中学校を卒業し、長野師範学校に進んでからも、磯吉は猛勉強をしました。「差別に打ち勝つには勉強しかない。勉強で負けないようにしなければ」と必死の思いでした。
「生まれ」理由に塩まかれる
教育者の道を志した磯吉は、18歳で小学校の先生となりました。しかし、磯吉の「生まれ」が問題にされ、磯吉はその学校を追い出されるようにして去っていきました。
20歳のとき、東京にあったわが国でただひとつの高等師範学校に入学しました。わが国の教育界で、最高の学校とされたところです。入学生はわずか30人。しかも磯吉はトップの成績で入学し、さらにトップの成績で卒業しました。
卒業後、磯吉は母校の長野師範学校の教壇に立ちました。しかし、差別がなかったわけではありません。教育学の講習会が開かれたとき、磯吉の宿泊した宿が、磯吉の泊まった部屋の畳替えをし、 塩をまくという事件がありました。
明治26年(1893)、磯吉は大阪師範学校の教諭となりました。このとき、磯吉は名前を「礒吉」(ぎきち)に改めました。新たな人生を切り開くために、自分自身に何らかの変革を求めたのでしょう。しかし、わずか2年で大きな壁にぶつかりました。 「生まれ」があばかれたのです。
ある日のこと。礒吉の母親が、学校にやって来ました。そのときの母親の言葉づかい、態度などに疑問を持った生徒が礒吉の身元調査をしたのです。礒吉を退ける動きが起こり、鳥取師範学校へ移りました。そして明治34年、柏原中学校の2代目校長として着任しました。
柏原中で「理想の学校」めざす
礒吉は、柏原中学校で 「理想の学校」づくりをめざしました。その一つが、授業料の大幅な減額です。家が貧しいため、入学しながらも学校を途中でやめていく生徒が多く、経済的な負担を減らそうとしたのです。貧しく、しいたげられてきた礒吉です。社会的な弱者が、そこから抜け出すためには教育しかないという思いを強く持っていたのでしょう。
生徒の自主性や自立心を高めるために、生徒の自治会活動や部活動を大いに奨励し、軟式テニス部やベースボール部、英語弁論部などをつくることを認めました。「学友会」という組織もつくりました。これは同窓生も加わった組織で、機関誌や雑誌の発行などを計画しました。
当時は、上級生が下級生をげんこつでなぐってもいいという空気が校内にありましたが、礒吉はそれを強く戒めました。このように礒吉は、自由と平等を重んじ、人間性を尊ぶ教育をつらぬこうとしたのです。
しかし、軍国主義が広がっていた当時、礒吉の教育を「なまっちょろい」と受け止めていた生徒たちがいました。このため、 柏原中学校で初めて行われた卒業式で、卒業生たちが式をボイコットしようという動きが起きました。
担任の先生の説得で、式だけは行われましたが、 式のあと、卒業生が学校への不満をぶちまけた「声明書」が見つかり、先生たちの間で大騒ぎとなりました。しかし、礒吉は「いったん卒業証書を渡した以上は社会人であり、校則で律すべきではない」と、問題にしませんでした。生徒を信頼し、深い愛情を寄せたことを物語るエピソードと言えるでしょう。
のちの首相・芦田均から「ナマズ」とあだ名
礒吉の「生まれ」は、生徒たちも知っていました。礒吉はそれをことさら隠すこともなく、教育に対する自分の姿勢を堂々とつらぬきました。そんな礒吉でしたが、病気のため、 明治35年(1902)に亡くなりました。
ちなみに、柏原中学の校長時代、礒吉は生徒から「ナマズ」と呼ばれていました。このあだ名をつけたのは、のちに内閣総理大臣になった柏原中学の第3回生、芦田均でした。(2018年9月14日 丹波新聞より)
高18回 北川稔夫
温故知新 ② 大江磯吉
- At 2月 18, 2019
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下伊那中学校の卒業生を見てみましょう。記念碑には「生徒は65名であった」とありますが、同窓会名簿を見ると下伊那中学校修了者は50名となっています。15人の方はどうされたのか?留年?退学?当時から進級や卒業が難しかった様ですね。また「明治17年8月終了」とあります。高校の沿革を見ると、「8月に群立中学校廃止、県立中学となる」とあるので、8月に卒業となった様ですね。前回「卒業時は二の丸跡の新校舎」と書いてしまいましたが、11月に二の丸跡に新校舎竣工とあるので、卒業時はまだ専照寺と思われます。
50名の中に気になる名前が!大江磯吉と菱田為吉の名があります。
大江磯吉は皆さんご存知でしょうか?かく言う私が知ったのは数年前です^^;偶然いただいた在京飯田高校同窓会誌「稲穂」11号に、吉澤香代子さん(高14回)が書いた随想「大江磯吉の胸像建立」が載っていたのです。それまでは名前を聞いた事がある程度でした。「破戒」のモデルと言われていますが、不勉強の私は未だ読んでいません^^;
今回これを書くにあたって色々調べたのですが、「稲穂」11号は大江磯吉関連資料として飯田図書館にも所蔵されています。
こちら⇒大江磯吉の胸像建立 吉澤香代子
からその全文を見る事が出来ます。是非ともご覧になってください。
名簿に「下伊那中学校終了者」が載っているのは、吉澤さんの尽力と分かります。
胸像は、伊賀良の円通寺に設置されたとの事です。円通寺の境内にはかつて磯吉が通った「知止小学校」が在ったとの事です。では行ってみなければ!
目指す胸像は境内の庭に設置されていました。お顔が若い!それもその筈、35歳の若さで亡くなっています。当時は兵庫県柏原(かいばら)中学校長でした。そこで郷里から母危篤の知らせを受け帰郷。自身も大病を患いどうにか回復した身。そこに長旅の疲れも加わって、腸チフスに感染。帰郷はしたものの、母を看取る前にご自身が亡くなってしまったのです。
胸像の製作は南島和也さん(高43回)との事です。此処の他、下伊那教育会館、伊賀良小学校にも設置されています。
ではお墓は?下殿岡の中部労働技能教習センター脇の通路を入った所にある、共同墓地に眠っています。以前この通りを通った際、偶然 案内板を見ていました。その時は通り過ぎてしまったので、今回改めて行ってみました。
広場の脇に「従七位大江磯吉先生の一生」と記された案内板がありました。34歳の時に従七位!特別に優秀な方だった事が分かりますね。享年35歳。法名は「謙譲院秀法智才居士」法名そのままのような生涯ではあった・・・と書かれています。
被差別階層の家に生まれた事で幾多のいわれなき迫害を受けた磯吉。いわゆる「部落差別」「同和問題」ですが、私は子供の頃そういう言葉を聞いた事がありません。しかも小学校では町内会の集まりを「部落会」と言っていました。それが今では部落=被差別部落 と言う意味合いになっていますね。そんな風潮には違和感を覚えます。地元にこの様な差別があったと言うのも意外でした。
お墓の脇には、遠目でもそれと分かる案内があります。墓石には「従七位 大江磯吉之墓」と刻まれています。機会がありましたら大先輩の墓参りも如何でしょう!
大江磯吉は、島崎藤村の小説「破戒」のモデルとも言われています。それを最初に言い出したのは、どうも高野辰之の様です。氏は、唱歌「ふるさと」や「おぼろ月夜」等の作詞者と知られる文学者。出身地の中野市には「高野辰之記念館」が在ります。辰之はかつて飯山市の真宗寺に下宿していて、その寺の娘さんと結婚しています。
「破戒」の主な舞台は飯山市。主人公瀬川丑松が下宿していた「蓮華寺」の描写は真宗寺。住職は生臭さ坊主。丑松がエタと知ると直ぐに追い出し畳替えをして塩をまいた、となっています。「破戒」を読んだ辰之は、義父はそんな人物ではないと憤慨し「唖峰生」という名前で抗議文を雑誌に投稿。それには・・・しかし丑松が差別されていたのと同じようなことがあったのは本当だ。あの大江磯吉が飯山に講師として招かれた時最初に泊まった寺でも、大江が「エタ」だと知るやいなや彼を追い出し、すぐさま畳替えをして塩をまいた、そういうことが本当にあったのだから・・・とも書かれていたそうです。
藤村もこれに対し別の雑誌に反論を書いています。あれは小説として書いた。それを事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である、と。
藤村は「破戒」を書く前に飯山を取材で訪れています。真宗寺へは下宿を営んでいる寺を描く参考のため、偽名で訪れた。でも連れの女学生に問いただすと、島崎藤村という小諸義塾の先生と分かった。住職は「手厚くもてなしたのに恩をあだで返された」と言い、辰之に「破戒」を読ませたのでした。
そんなこんなで藤村と真宗寺の関係がギクシャクした時期があった様ですが、昭和40年真宗寺境内に「破戒」の文学碑が建立されています。除幕式には藤村の長男 楠雄氏も出席した との事です。
部落差別は、南信地方ではあまり耳にしませんね。でも同じ県内でも北信地方 特に千曲川流域では、被差別部落が多く差別意識も強かった様です。明治5年の「小学校令」の際にも、被差別部落の子供たちは学校に行けなかったと聞きます。
磯吉は知止小学校から飯田尋常高等小学校(現追手町小)へ進み、卒業時には成績優秀で下等科の助教に採用されています。更に下伊那中学が開校すると直ぐに入学。卒業後は長野師範学校(現信州大学教育学部)へ進んだのですから、勉学に関して差別される事は無かった様ですね。しかも地域の人々の支援も少なからずあったそうです。磯吉にとって、この地に生まれた事は不幸中の幸い とも言えそうな気がします。
次回はもう一人の大先輩、菱田為吉に付いて調べる予定です。
(高18回 高田)