はじめまして。
高24 348の横山と申します。
ふと校歌を思い出し、同窓会のホームページにたどりつき一番までは歌えたのですが、「これ、どう読むの?」という感じでした。
で、あれこれ調べて(音源も聞きましたが聞き取りにくかったので)添付のPDFにまとめてみました。よければホームページに掲載し、私のように困っている人を助けてやってください。(笑)
また、ルビが間違っているようでしたら訂正しますのでご教示ください。
よろしくお願いいたします。
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との事ですが、このままでは横山さんもご不満かと思いますので、補足してみます。特に3番は馴染みが無いので、今回はこれを掘り下げてみたいと思います。
3番は私も歌った記憶がありません。合唱の際も「校歌~~ 1番・2番・4番~ソレ!」と言った感じでしたね。歌詞も初めて見たと言っても過言ではありません。内容も他とは異なりますね。1・2・4番は主に飯田下伊那の自然を詩っていますが、3番は二人の著名人を採り上げています。でも、どう言う人?と思われる方も多いかもしれませんね。
太宰春台は、県歌「信濃の国」にも出て来ますが、山口阿藤(おふじ)はご存知でしょうか?
>遊惰(ゆうだ)の世よりぬけ出でて 骨ある儒者の名を得たる
春台の父は下野国烏山藩士(栃木県那須烏山市)でしたが、藩主 堀 親昌(ほり ちかまさ)の移動に伴って飯田藩士となる。春台は飯田で生まれています。しかし藩主が堀親常に変わると改易され、一家は浪人として江戸へ出ました。春台は苦学して、漢詩・天文学・地学・朱子学などを懸命に勉強しました。
遊惰とは、仕事もせずぶらぶらしている事。春台は其処から抜けて高名な儒学者となった、と言う事ですね。36歳の時、本格的に研究・執筆活動に入るとともに江戸の小石川に塾を開き、多くの門下生を育てました。また「経済」と言う言葉を広めた人でもあります。(写真はクリックで大きくなり、多少は読みやすくなります)
確かに飯田生まれですが、飯田に居たのは9歳の頃まで^^; 生誕地の中央通り3丁目には太宰邸址の石碑と太宰松があり、昭和9年に長野県史跡天然記念物に指定されています。樹齢300年の松は飯田大火で焼けてしまい、今あるのは2代目です。
かつてはここに「太宰楼」と言う料亭がありましたが、その後 西友になり今は労金になっています。先日の獅子フェスでは此処も演舞場の一つでした。
蛇足ですが、本町4丁目の烏山稲荷社は 堀 親昌 が下野国烏山から移したものです。
>侫諛(ねいゆ)の俗(ぞく)を退(しりぞ)けて 血ある女(おみな)と謳(うた)はれし
山口阿藤(おふじ)は飯田藩士山口弾治の娘。飯田藩江戸屋敷に仕えていました。藩主 堀 親寚(ほり ちかしげ)の愛妾 若山が私利私欲から藩政に口出ししていると知り、思い余ってこれを刺殺!自身はその場で捕り押さえられ、飯田に送られ谷川の牢舎で斬首されました(一般の罪人は野底の処刑場)。時に22歳。辞世の句を見ると、才女でもあったと思われます。
侫諛(ねいゆ)は聞きなれない言葉ですね。媚びへつらう、とか おべっかの事です。上に忖度する事なく藩のために己の手を汚した烈女、と称えられたんですね。
色々読んでみると中には・・・阿藤の行いは 私的な恨みつらみが積み重なっての事だったが、若山は藩士の間でも不評で快く思っていない人が多く良くぞやってくれた!となった・・・という説もありました。
父親はどうなったのか? 事件後 江戸詰めから国詰めになり減俸されましたが、藩主が堀親義に代わると元に戻されたそうです。
明治になってから箕瀬の長源寺にお墓が建てられました。入り口の所に石碑と説明板があります。お墓は一般の墓地ではなく本堂近くの境内にあります。今でも花を添える人が居るんですね~。
お墓としては、かなり広いスペースで立派ですね。
あまり馴染みのない3番ですが、少しはご理解いただけたでしょうか? 歌う歌わないはまた別問題かと思いますが^^;
さて、作詞者・作曲者についても調べてみましょう。
作詞は福澤 悦三郎 とあります。
福澤先生は、伊那出身の国漢の先生で、飯田中学在任は明治39年5月~44年3月まで。赴任した年に「南信健児の歌」を作詞しました。
作曲は井出 茂太 とあります。
井出先生は、上野音楽学校卒業後 明治36月年4月に飯田中学に初赴任。西洋音楽教育への情熱をもって、当時の島地校長にピアノの購入を決断させた人。福澤先生の詞「南信健児の歌」を見て感銘を受け曲作り。それを知った島地校長が「これは素晴らしい。我が飯田中学の校歌にしよう」と決断!
元々は校歌ではなく「南信健児の歌」だったんですね~。そう知ると3番の歌詞も不自然ではなく思えます。とは言え校歌としては??? 歌い継がれて来なかった原因も、私同様に不自然さを感じた方が多かったのでしょうか^^;
定かな説ではありませんが・・・山口阿藤は人を殺めたテロリスト。それを校歌で称えるのは不適切・・・と考える方もいた様です。
井出先生の尽力で購入されたピアノですが、今は高校の玄関ホールに展示されています。なんと燭台が付いていてロウソクも立ててあります!豪華な物ですね。
説明板を見ると・・・
山葉洋琴竪型2号というタイプで、1902年に造られ翌年に納入された物。製造番号1010 とは、純国産10台目との事。独立100周年記念事業の一環として修復に取り組んだところ、メーカーのヤマハも丁度100周年で全面的に協力して頂けた・・・とあります。(少々読みにくいかと思いますが、クリックしてご覧ください)当時ヤマハの役員の中に同窓生が居て、事はスムースに運んだようです。
100年以上前のピアノで演奏できる物となると非常に少なく、これは貴重な1台との事です。学校に訪れた際には、是非ご覧ください。腕に覚えのある方は、演奏してみては如何^^それなりに音が出るので、時間を考えてですが・・・一応事務所に言ってからにしましょう。
ところで「作詞 福澤 悦三郎・作曲 井出 茂太」 で検索したら、上伊那農業高校の校歌が出て来ました。そこもでしたか。でも我が校の校歌は出て来ない???
多分ですが、このブログをアップした後は直ぐ出て来るんじゃないでしょうか^^
(高18回 高田)