9/27(日)同窓会総委員会が行われました。例年ですと史跡巡りなどで外へ出ることが多かったのですが、コロナ禍の今年は座学となりました。会場は昨年改築されたばかりの上郷公民館の講堂。

高台の端にあるので、眺めの良い所ですね。駐車場には「大空へ」と題された像があります。

今回の幹事 ユリノキ会の神崎さんが、開会の挨拶。続いて大田中会長も挨拶。マスクがコロナ禍を象徴していますね。

今回の講師は、あかいし学友会代表・上郷史学会長の中島正韶さん(高11回)

演題は「母校はなぜ高松原にあるのか―時代の真相と謎とロマン」。母校はなぜ長姫城址から移転しなければならなかったのか?当時の地元新聞や県立歴史館の資料などを調べ、解説してくださいました。

高松原に移転が決まったのは、大正10年でした。その背景にあるものは?

パソコンを操作しながら、熱く語ります。

永昌院から専照寺へ移り、飯田中学となって飯田城二の丸へ・・・そんな歴史も紹介。

飯田城二の丸の位置は、此処。今の美術博物館の所ですね。
(クリックで拡大できます。大きくしてご覧ください)

此処からの移転を提唱したのは、3代目の校長 奥源治氏。奥校長が着任したのは大正7年。翌年 改革の旗を掲げ、二の丸校舎からの移転を強く提案したのです。

大正9年は1920年。今から100年前と直ぐ分かりますね。それほど遠い話ではないのです。

当時の見取り図です。これは飯田高校の資料には無くて、長姫高校に残されたいたものです。

スケッチ画も出てきました。春草の兄菱田為吉が教師として勤務していたのはここですね。思い出してください⇒温故知新 ③菱田為
第二運動場から風越山をバックに描かれています。桜と校舎の位置に注目。この校舎は取り払われ、今は庭や駐車場になっていますね。桜は安富桜です。

当時の新聞です。奥校長が、「入学希望者は年々増加し、近年は200~260名もいる。しかし教室は100名分しか受け入れられない。競争率は2.0~2.6倍と県内きっての難関校となっている。青年の発展上質に憂慮すべき状態にある。この場所での拡張は無理。運動場も城下まで降りなければならず不便。よって移転拡張しなければならない」と語っています。。

これによって、各地区で激しい誘致合戦が行われました。それぞれの言い分は激しく、下伊那議会ではなかなか結論が出せず・・・結局、県議会にお任せとなりました。

県知事が出した結論は、高松原に移転でした。これを受け奥校長は「非常に都合の良い場所」と喜んだようです。

知事はなぜこの場所に決めたのでしょうか?傾斜の少ない広い場所、交通の便の良さ等があげられています。でもおそらく奥校長等の学校関係者が知事に要望したのでは?と、中島さんは推測。

最後に二の丸校舎から移築された建物が紹介されました。私的には見覚えがある様な!当時は部室となっていてスラム街と呼ばれ、1年生は近付き難い場所でしたね。3年になる頃には建て替えられ、物理の教室などになった所だと思います。

移転当時は博物館の構想があったとの事。その構想がいまの美術博物館に繋がったようです。
中島さん、貴重な資料とお話、ありがとう御座いました。

講演終了後、例年ですと場所を変え慰労会なのですが、コロナ禍ではそうもいかず。机を並び替えて茶話会となりました。

この席で坂巻副委員長(高18回)から「当時父が在籍していて、椅子や机を自分ら生徒たちが運んだ・・・という話を聞いた」とのエピソードが紹介されました。

さて次回はどうなるでしょう?

(高18回 高田)