組 田中義訓 君より

故 今村匡司 (B) 氏について2017/09/08

今村氏とは在学中は、ローカですれ違っただけでした。 

本格的に知り会ったのは24歳ころ、アマチュア無線を始めたところ、彼も同時期に始めたのが馴初めです。同じ頃、同級生の羽場眞人(F)氏、他一年下に二人いて楽しく交信しておりました。

今村氏は間もなく、最上級資格の第一級アマチュア無線技士を取得し、その頃飯田下伊那在住のアマチュア無線愛好家で、クラブを結成しようということになり、並み居る諸先輩を差し置いて、彼が技術部門の申請書を作成しました。

無線機は市販の物が普及していましたが、高い周波数は手作りでした。

クラブは最盛期数十人いて、年二回程の移動運用、ミーティング、技術講習会、家族ぐるみのバス旅行など行われ、バスの運転は彼がしていました。

私は自動車会社にいたので車を買ってもらい、無線車に改造の手伝いなどしていました。

彼は家業の今村冷凍の御曹司だったので時間も比較的自由になったようです。夜のお付き合いもして朝帰りも何度もありました。

個性がかなり強かったので、もう一人以外は深く付き合った人はほとんどいなかったと思います。

 彼は三十代後半に運転免許取消しとなってしまい、あろうことか全ての免許を外来で取得しようと企て、運転は出来ていたので一年位で取得したようです。国内には存在していなかった車種の大特二種、牽引二種も取得し、原付一種が無かったので警察署へ相談したが、既に含まれているので、受験もできないと言われたそうです。
苦労したのは大型自動二輪で、試験車両と同じ物を買い、コースへ持ち込んで練習したそうです。

志を同じくする仲間もいて、挑戦しておりました。私も引かれて大型二種に挑戦しましたが、流石に壁は厚く、八回程受けたがダメで、試験官に一種が有ればいいんだろうと言われて変更した所、二回で合格しました。

 今村氏は狩猟もしていたので、免許の無い間は私が同行し、猟銃も撃たせてもらいました。もちろん違反です。

三十九歳ころ、私は伊那に転勤になり、今村氏は家業も衰退したので、野辺山に野菜を運びに行っているとか、松電でバスの運転手をしているとか風の便りに聞く程度でした。

 久しぶりに会ったのは七十歳前で、彼はクララ幼稚園のバスを運転していました。その時携帯番号を交換したのが最後となってしまいました。八月後半に腹が張って痛いとのことで市立病院へ入院し、駒ケ根へ転院し、そのまま帰らぬ人となったとのことです。(クララ幼稚園談)

家族は、今村家の方針が飯田下伊那一の嫁さんをもらおうという事で、きれいな人と一緒にいたこともありましたが、うまくいかなかった様で、独身のままだった様です。

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私自身は、彼の事を全く覚えていません。写真をアップしてみて、何処かで見かけたような・・・そんな程度です。でもこうして彼の人生を読んでみると、凄いな~と思う事も多々ありますね。

三十代後半に運転免許取消し?でも、全ての免許を外来で一年位で取得!これって凄くないですか!
他にも、最上級資格の第一級アマチュア無線技士を取得・狩猟の免許!
好きな事をして過ごした人生も!

生涯独身のまま?それはチョッと私には^^;

ご冥福を祈ります。

(F)高田

(今村君との思い出がある方、メッセージをお寄せください)