高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから) [塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
氷河をわたる風(20) Dryad
3000m以上の高山で痩せた岩場に張り付くように咲くこの小さな花はバラ科に属し常緑樹です。葉がぎざぎざなのが特徴的です。Alpine Avens, Alpine Rose, White Mountain-avensなどの別名もあります。 花の直径はイチゴの花より少し大きいくらい、2cm位でしょうか。この親戚で黄色い花を咲かせるMountain-avensはロッキーにしかありません。コロラドから北のロッキー山の高地、アラスカそして北極圏に咲きます。その他世界中の寒さの厳しい土地やアルプスのような高山で見られるそうです。常緑であるため雪が溶けると直ぐに光合成を始めます。 ロッキーでは7月から8月にかけて見られます。強い氷河の風に吹かれて細かに震える花は、可憐ながら逞しいです。
一寸小寒い日Payto山の中腹をルートを外れて登った棚地の岩の上に割いているのを見つけました。この小さくて逞しい花には荒れた天候が似合うようです。
写真1、花の大きさに比べて茎の長さが短く厳しい環境に耐えるように育っているようです。
荒れた天気の中一瞬射した光の中で映しました。(1999年7月19日撮影)
写真2、岩にへばりつくようにして咲いている様子がお分かりになると思います。
一見草のように見えますが実際はバラ科の潅木です。(1999年7月19日撮影)
写真3、Payto Lakeのあたりには7月でも雪が降ります。後ろの山の雪は多分新雪と思います。
この花の咲く厳しい環境を想像して下さい。(1999年7月19日撮影)
旅行者も少なくなった秋の林の中に入ると、よく晴れているのにポツポツと雨のしずくの落ちるような音がします。松の木から風もないのに松毬が落ちて来ます。見上げるとリスが松毬を.食いちぎってはせっせと下に落とし、冬ごもりのために集めているのです。枝から枝へと忙しく走り回り、どの様に見分けるのか落ちてくる実は何れも豊かに稔っているものばかりです。 その松毬を手にしていると、何時の間にか地上に降りて来たリスがいささか逃げ腰ながらしきりに威嚇します。俺の物に手を出すなとでも言うのでしょうか。
秋の空は澄み渡り水嵩の減った湖の色も心なし沈んだような青さとなり、波も立てず静かさを保っています。ポプラは黄色い葉を落とし始め茶色に枯れた下生えに針葉樹の緑が映える頃になると、鹿たちの恋の季節です。それまでは雌雄別々に群れを作って暮らしていたのですが、この季節になると一頭の強いオスを中心にハーレムをつくります。雄達はこの一頭になるために壮烈な命がけの戦いを始めるのです。この様にして出来たエルクの群れが夕日を浴びた針葉樹林の中に見られるようになるのもこの時期です。
多少寒さを感じるこんな時期になると日本からの旅行者の数もぐんと少なくなります。この季節に来る日本人は人混みを避ける本当の旅行の仕方を知っている人達でしょう。カナダ人の中に溶け込み、風景の中にすら溶け込んで異質さを感じさせません。初雪でほんのりと化粧した山々の静けさの中で旅を楽しんでいるようすは、眺めている方にも何となくほのぼのとした旅情が伝わってきます。
秋は人間を感傷的にすると言うのが日本では定説ですが、カナダの秋は過ぎて行くのが早く、変化が急すぎて感傷に浸っている時間がありません。見渡す限りの森林が一夜にして黄葉したかと思うと、その翌日には木の葉が落ち丸坊主となります。そして直ぐ雪です。このように厳しいカナダの自然条件では人間、感傷的にならないかと言うと、そうでもないのです。
カナダに住んでいる日本人にとって感傷的な気持ちを誘発させるのは、季節ではなく、日本の歌です。小さな時に歌った歌が特にいけません。「ふるさと」など一曲目ですら完全に歌えた事がないのです。「うさぎ追いし………」とやり始めると、喉の奥が妙に引き攣ってきて、「こぶな釣りしかのかわ」あたりで声がふるえ、涙がぼろぼろ出てくるのです。
カナダ育ちの子供たちはそんな親父を実に不思議そうに眺めています。唄を歌いながら泣く等と言うのは彼女等にはありえない事のようです。尤も、彼女等は訳の解らないロックン・ロールで育っているのだから無理もないことではありますが。「谷間の灯火」は日本の歌ではないのですが歌詞がいけません。「たそがれに我が家の灯、窓に映りし時」と歌いだすことは出来ますが、「我が子帰る日祈る、恋し母の姿」となるともう駄目です。「ふるさと」と同じ現象が起きてきて歌い続けることが出来なくなるのです。「故郷の廃家」「峠の我が家」など「家」「母」「ふるさと」「ともだち」「はらから」等という言葉は禁句なのです。うっかりこんな唄を人の居る所で歌って、おかしなことになった時には逃げる事にしていますが、困るのはドライブしている時など、ふっとこんな唄が思い浮かぶと、魔法に掛ったように独りでにぼろぼろと涙が出てきて運転できなくなってしまいます。
日本に居た時にはこれらの唄にこれほど感情を動かされた事はありませんでした。また外国に出たばかりの夢中で暮らしていた頃は余り感傷的になるような時間は無かったように記憶します。しかし、日本に帰る基盤を完全に失い、外国に定住して骨を埋める事になると自覚し始めた頃からいけなくなったようです。カナダ人にはこうした感情は余り無いように見受けます。彼らは常に流浪的であるのかもしれません。
実際には、日本をそれ程恋しいとは思わないし、ある意味では日本の外に暮らせる事を幸いに思う一方、こうした歌えない歌が出来てくると言うのは、我が事ながら実に理解に苦しむ矛盾した現象です。外国へ出る機会を掴んだ時、むしろ「しめた、もう日本には帰らないぞ」と心が弾んだものでした。 大概、外国定住の人たちはこんな気持ちでやって来ているのに、潜在的に、何か頭で考える事と異なる、意識的思考とは独立した「気持ち」と言うものが存在するのでしょうか。住む所が日本から遠くなるに従って、また、離れて住む時間が長くなるに従って、「ふるさと」とは一体何なのだろうか、何処なのだろうかとしきりに考えるようになります。
小さい頃は父親が教員であった関係で県内を転々と歩き、小学校は三つ変わりました。何れの学校でも常に客人あつかい。今もそれは続いています。従って外国に出てきた時も、現在も、客人扱いにはいささかもたじろがない自信があります。 こうした環境に育ったため幼馴染を持つ幸福を未だかつて味わった事がありません。親友は他の関係から結ばれて来ています。幼馴染は感情的な理屈抜きの関係のようですが、自分の得た親友はむしろ理知的な関係に基づくのが多いのに気付きます。それでいて、「ふるさと」の歌に泣かされるのです。こんな人間にとって「ふるさと」は何処なんだろうか。それはもはや地理的なものではなく、親の住む所であり、帰れる可能性のある所、客人扱いされない所なのです。こうした歌にはこんな気持ちが込められていて、親の思いが運ばれてきて親への気持ちを募らせるのかもしれません。今まで客人としてばかり生きてきた人間が此れほどに気持ちを動かされるのですから、根の生えた、幼馴染のある人たちが外国で骨を埋める決心をした時にはもっと深い感情に囚われるのではないかと想像したりします。多分、「ふるさと」などは一句とて歌えないような。
それにしてもこれらの歌は不思議な作用をします。親父が死んだ知らせを受けた時にも、葬式に出られなかった時にも泣かなかった。海を隔てた遠い国で貧乏生活をしていた時でもあり、その日暮らし、俄かな時の渡航費すらなかった。借りられる関係も無く、親の死に目には会えないだろう事は始めから覚悟していた事ではありました。ただ、太平洋の広さをなんと冷酷なものとしみじみ感じたものです。親父は手紙をくれる度に、「早く帰って来い、早く帰って来い」と繰り返して来ました。それでも日本に帰ると言う気持ちは涌いてきませんでした。憬れていた外国に住めるという気持ちの高まりが帰る気持ちを抑えて込んでいたのかもしれません。後で聞くと、親父は、外国に住む息子の名前を飼っていた小鳥につけて毎日呼びかけていたと言う。父親としては情のあり過ぎる人でした。そんな話を聞かされても泣かなかった。しかし、「ふるさと」を歌うと泣いてしまうのです。帰るところのある旅行者には決して生じない、かえる所を捨てた旅人の感傷です。
アスペン・ポプラの葉もすっかり落ちた。もう直ぐ冬です。
写真1、餌を集めながら一寸人間にけん制に来たリス。Payto Lakeの近くで。(1999年)
写真2、秋の初め頃林の中に逞しくたつElkの雄。6歳くらいでしょう。男盛りです。まだ袋角です。
この袋角がむけて落ちると鋭い角がむき出され恋の争いが始まります(1997年)
写真3、崖の上にのうのうと寝そべり、下の人間を悠々と見下ろすAmerican Big Horn Sheep。
彼らも秋ハーレムを作ります。大きな角を激突させての恋の争いは秋の山々にこだまします。(1997年)
写真4、高い岩山に生息する、Mountain Goat。望遠レンズを使いましたが一寸遠過ぎました。
少し拡大してみましたがボケてしまいました。雰囲気だけをお楽しみください。(1998年)
写真5、ロッキー山に秋が来ました。冬との境は明確ではありません。秋は忙しく過ぎて行きます。
Jasperの近くで撮影しました。(1980年10月撮影)