飯田の御用水ですが、元々は羽場南部地区の灌漑を目的として作られた井水です。最盛期の灌漑面積は、水田40町歩余りに及んだと言われています。当初は「上飯田井」と呼ばれていましたが、城下町から飯田城内へも延長されて「御用水」と呼ばれるようになりました。先日その水路を訪ねてみる機会がありましたので、ご紹介いたします。小中学校で見学に行ったという方も多いのでは?
取水口は松川で、妙琴浄水場の少し下流、多摩川精機裏の崖下辺りです。取水口は慶長8年(1603年)に、一升枡大の口を開けたのが初めとの事です。
では水路を辿ってみましょう。少し下った所に水神さまが祀られています。(取水口は画面左奥です)
更に下流に進むと、大雨などの急な増水時に水量を調節する水門があります。
羽場赤坂辺りから、松川とはだんだん離れていきます。さて、この先の中央道はどう通過しているのでしょうか?
橋の上は、人が歩いて渡る事が出来るようになっています。
その先は階段状で下り、水路が続きます。
かつては田畑だった所も今は住宅街です。その一角に記念碑があります。
何と書いてあるのでしょう。読めますか?(クリックで大きくなります)
この先は殆どが暗渠になっていて、次に水面がみられるのは曙町のAコープ付近です。この辺りは、昔とあまり変わっていない様ですね。
ここを過ぎるとまた暗渠。飯田線の線路下を通過し市街地へ。通年ではない様ですが、リンゴ並木の所にも来ています。写真は以前撮ったもので、今の時期 水は止まっています。
赤門の前の水路。かつては城内まで御用水が行っていましたが、此処も今は来ていません。
城内では既に埋められた水路もあります。でも、この下に御用水が通っていたという印があります。斜線でペイントされている所がそれです。(写真は、以前城跡を散策した時の物です)
では今の末端は?かつての復興記念館(現 橋南公民館)下に放流口があります。此処から下に流れる水路で、松川に戻るのです。この日の水量は僅かでした。
水道が無い時代、御用水は灌漑用水であると同時に人々の大事な生活用水でもあった訳ですね。先人の知恵と努力の跡を見たと思いました。その水路を、水害や区画整理などを経ても後世に残している。これも素晴らしい事だと思いました。
(5/13 撮 高18回 高田)