ホームページ上や同窓会第67号会報の中「総委員会」報告に追手町小学校の校章にふれた。友人などから、「知らなかった」との話題になっている、私も詳しくないので、知識人に聞いたり、調べてみた。我々の時代は制帽は必需品であり、飯田高校の象徴であったが、校章を胸に付けることも、制帽もとっくの昔になくなっている。

卒業生はみんな知っていると思うが、追手町小学校は明治初期の頃開校され、下伊那高等小学校→飯田尋常高等小学校などを経ている、明治41年後に、大久保小学校、浜井場小学校は飯田尋常高等小学校大久保部・浜井場部(分校みたいなもの)と位置付けられ開校、1~3年生は大久保・浜井場小に通学し、4~6年生は、尋常科の追手町小に通学した。そんな訳で今でも3校同じ校歌(明治40年浅井 冽作詞)を歌っている。(大久保小は既に廃校、卒業生は今でも歌う) 

丸山小学校は、やはり明治初期 明倫学校から始まり、明治19年頃、現追手町小学校と合併し飯田小学校上飯田小学校と校名が代わり、分校となる、大久保・浜井場小が出来るまで飯田町の1部通学校で明治22年頃、学区改正で上飯田村立上飯田尋常高等小学校として独立する。 校歌は明治40年頃浅井 冽作詞で作られた。 校章は4校同じデザインで各学校のHPでも同じように表現されている「旧飯田中学の校章に校名を入れて現在に伝える。八稜の鏡の中に稲穂を配す。飯田の「飯」は米に通じることから稲穂になったという」。4校が継ったが、飯田中学の方が、創立が遅い訳だから、いつこの様になったかは、定かでない。      (斎藤 純)