次は菱田為吉と書きましたが、興味深いブログを見付けたので急遽予定変更です。ご了承ください。

戦時中飯田下伊那へは大勢の方が疎開していましたね。中には後の有名人も!歌手のアイ・ジョージが飯田西中に。女優の岸田今日子は家族で来ていて飯田高等女学校(現飯田風越高校)を卒業!父親の岸田國士氏は飯田を去る際寄稿文を残しています。それは碑となって、リンゴ並木にあります。

では母校には?映画監督の恩地日出夫氏が一時在籍していました。(卒業時は東京へ戻っていたので、名簿には載っていません)
そんな中で、神戸から喬木に疎開して通学していた方のブログが見付かりました。羽生眞彦さん(高2回)です。ご本人の承諾も頂いたので、ここに紹介させていただきます。なかなか興味深いですよ。中でもウラサ(市瀬岩男先生)の思い出話は面白い^^我々の時にもクラス担任をしていたので、戦時中からズ~~と飯高一筋だったのですね。でも私は先生の授業を受けた事がありません^^;

⇒飯田高校の先生達 その2

読んで驚いたのは英語だけではなく物理も教えていた事、更に車の運転まで教え、おまけにドイツ語も!もうびっくりです。
そもそも学校にそんな自動車があった事も驚きです。


私は市瀬先生の娘さんと同学年でした。しかも小・中・高とも同じ学校。ただ同級になった事は無く、頭の程度もかけ離れていたので無縁でした^^;その綾子さんですが随分早くに訃報を目にしました。多分先生より早く亡くなられたと思います。でもここにお孫さんからメールをもらったと追記されていて、なんだかホッとした気分になりました^^

疎開先は喬木村。お母さんはこちらの出身と言う事でその縁あっての事ですね。其処から学校まで凡そ8㎞を、朴歯の下駄で歩いての通学。片道2時間。阿島橋が出来たのは昭和41年ですから、天竜川を渡るには弁天橋経由。徒歩で遠回り、もう大変です。特に冬場はきつかった様です。
疎開先と通学の思い出


阿島橋の下、河川敷にはマレットゴルフのコースがあります。飯田下伊那地方はこのマレットゴルフが盛んです。特にシニア世代。かく言う私もちょいちょいプレーしています^^

かいつまんでご紹介しましたが、「昭和一桁男のほうむぺいじ」は こちら

他の記事も面白いので、是非アクセスしてみてください。

戦後の混乱期、高2回生の皆さんは飯田中学に入学、卒業時は飯田高松高校。学校制度の変換期で6年通った訳ですね。落第しなくても6年です。そんな皆さんのページは こちら

2007年を最後に更新されていませんが、これを機にどなたか続きを書いていただけると嬉しく思います。よろしくお願い致します。

(高18回 高田)