日夏 耿之介(中7回)は、明治23年2月22日に知久町3丁目で生まれました。本名は樋口國登(くにと)です。同窓会名簿には名前が載っていますが、中退している様です。上京して京北中学へ編入したのですが、神経衰弱のため2年間休学の後退学しています。その後早稲田大学高等予科に入学し、大正3年に早稲田の文学部英文科を卒業しています。ペンネーム、日夏耿之介は早稲田大学の頃から使い始めた様です。

飯田市民がその名を知るきっかけとなるのは、リンゴ並木にある碑ではないでしょうか。この碑は昭和37年に建立され、岸田國士の碑の奥に立っています。書は当時の市長・松井卓治が書いたそうです。 写真はクリックすると多少大きくなりますが、さあ読めますか?その意味が分かりますか?私はサッパリ^^;この碑によって、日夏耿之介=難解な文学となってしまい、結果 何も読んでいません^^;


とは言え多少なりとも説明しなければ^^;調べてみると、詩集『咒文』(じゅもん)の「咒文乃周囲」末尾の一節と分かりました。

あはれ夢まぐわしき密咒(みつじゅ)を誦(ず)すてふ
邪神(かみ)のやうな黄老(おきな)は逝(さ)った
「秋(さわきり)」のことく 「幸福(さいわい)」のことく 「来し方(こしかた)」のことく

う~~ん、読めてもどういう事なのか、意味まではよく分かりません。皆さんは如何ですか?やはり全部を読まないと・・・とは思いますが、その気力が^^;

文学界での評価は高く、読売文学賞、毎日出版文化賞、日本芸術院賞 等を受賞しています。昭和14年には、早稲田大学より文学博士号を受け、早稲田大学教授に就任。昭和27年には青山学院大学の教授に就任しました。

昭和28年に 第1回飯田市名誉市民に選ばれています。
平成元年には 飯田市美術博物館内に日夏耿之介記念館が開館しました。これは愛宕の住いを再現した物で、本宅の方はそのまま今も愛宕にあります。無人となっている様ですが。

記念館は通常施錠されていますが、平日は美博の受付に申し込めば開けてくれます。と言う事で中に入ってみましょう。
館内には氏が寄贈した蔵書、書簡、書画、原稿、文具類などの一部が展示されています。

こちらは茶道具ですね。

端の方に、若かりし頃の写真が!中学時代ですね。

日夏耿之介全集、全8巻です。読んだ事ありますか?

第一詩集「転身の頌(しょう)」出版記念の晩餐会。そうそうたる顔ぶれをご覧ください。

写真じゃ誰かもさっぱり分からない? でしょうね~~^^;こちらと合わせてご覧ください。

如何ですか?知っている名前は何人ありますか? 文学界の重鎮であったと分かりますね。

歌碑の写真と拓本です。写真の方は風越山の山頂近くの崖っぷちに刻まれた物。拓本の方は此処の裏庭の物と思われます。

同じ句の碑が記念館の玄関前にもあります。
秋風や 狗賓(ぐひん)の山に 骨を埋む

裏庭には
水鶏(くいな)ゆくや この日宋研の塵をあらふ

解釈は皆さんにお任せします^^;


日夏耿之介の歌碑は、この他にも市内十数か所にあるとの事です。探してみては如何でしょう!
歌碑ではありませんが、出身の追手町小学校には「仲よく」の碑があります。

作品の中に意外な物がありました(私的にですが^^;)英文学者でもあるので翻訳は当り前かと思いますが、「サロメ」の翻訳は私的に意外と思えました。でも、人物の名前は全て漢字で表しているあたりはいかにも日夏耿之介らしいですね。タイトルも『院曲撒羅米』で、サロメは「撒羅米」と書いています。

下伊那農業高校の校歌を書いている(作詞)のも意外でした。

昭和31年(1956年)に脳溢血の発作で倒れ、飯田市に帰郷し愛宕神社境内に居を構えました。昭和46年(1971年)6月13日、自宅にて亡くなっています。81歳でした。お墓は春草と同じ拍心寺にあります。

 

樋口家のお墓は通路から少し入った所なので、少し分かり難いかも。昭和63年に亡くなった奥さんと一緒です。

温故知新シリーズですが、今回で一旦終了とします。次回からは地元飯田の様子を中心に!当面は桜の紹介になりそうですが^^;

(高18回 高田)