名前だけでは殆どの方が、誰~?と思うでしょうね。
私もそうでした^^; 教えてくれたのは北川 稔夫 さん(高18回)。この人を是非HPで採り上げてほしい、と言って一冊の本を渡されました。読書習慣のない私には重荷でした^^;著者の関口高史氏は、防衛大学の准教授。そのせいか、270頁にも及ぶその本は軍隊用語も多数。意味も読みも不明。2~3頁読むと睡魔に襲われる^^;そんなこんなで本を受け取ってから半年以上、いや一年近く経ってしまいました。
一木は養子に行ったための姓で、旧姓は加藤。余談ですが一木の読みは(いっき)。しかし静岡県袋井市の一部の地域しかそう読まないので、清直は(いちき)と呼ばれても訂正しなかった。
清直は、明治25年に市田村(現高森町)で加藤家の次男として生まれました。加藤家は代々飯田藩主 堀家の御殿医を務めた家柄でした。そんな家風から加藤家の人々は、医者か学校の先生になっていました。しかし清直は、帝国陸軍の軍人としてお国に身を捧げたいと考え飯田中学卒業後 陸軍士官学校へ。
結果、日本軍の転機においてその名を残す事になるのです。
盧溝橋事件
昭和11年5月、少佐の清直は支那駐屯軍歩兵弟1連隊第3大隊長として盧溝橋近くの豊台に赴任した。その翌年の7/7に、日中戦争の引き金になったと言われる盧溝橋事件が起きた。その日、部隊はいつもの様に夜間演習を行っていた。演習終了後、支那軍の兵士が実弾を撃ち込んできた。中隊長の清水大尉は呼集ラッパを鳴らし兵を集結させた。すると、ラッパ音の方向へ更に十数発の実弾が撃ち込まれた。この概要は、先に兵舎に戻っていた一木少佐に報告された。
一木少佐は連隊長の牟田口大佐に報告、指示を仰いだ。「一文字山を占領して戦闘隊形をとり支那側と交渉せよ」との事。午前3時頃、一木少佐は命令通り一文字山を占領した。そこへ大佐から電話。待機せよとの指示だったが、その前に支那軍からの銃撃があったため「我が方は如何しましょうか?」。一木少佐は、ここで戦闘が始まれば全面戦争になりかねない、と思ったので上官に訊いたのだが「撃たれたなら撃ち返せ」との指示。事は重大なので再度確認「本当に攻撃してよろしいんですね?」と。「間違いない。一木大隊はこの敵を攻撃せよ」。
この戦闘で多大な成果を挙げた一木少佐は、陸軍だけでなく日本中から称賛された。
それからほどなく清直は歩兵学校の教官を命じられ帰国。陸軍の後輩たちに、実戦経験に基づく最新の戦闘要領を教えた。学生たちは「一木教官の教育は精神論的なものではなく、実戦に裏付けされたもので大変勉強になった」との感想を述べている。
昭和13年7月 清直は、郷里の市田村尋常高等小学校と飯田中学校で「盧溝橋記念日を迎えるにあたり」という演題で講演を行っている。その締めくくりで、「これが支那事変の導火線だが、小生の如きがチヤホヤされるのは心苦しい。たまたまそこに居合わせただけの事。犬が棒に当たったまでの事です」と語った。上官だった牟田口少将(大佐から昇進)は、陸軍大学での講演で「日支事変は俺が始めた」と見得を切り失笑をかった。人柄の違いが良く分かるエピソードですね。
盧溝橋事件の詳細は Wikipedia で見る事ができます。興味を持たれた方はこちらをご覧ください⇒盧溝橋事件
さて、実はまだ本題に入っていません。ここまではプロローグの様な物。
270頁をかい摘まんでも一度には紹介しきれません。
続きはまた後程^^;・・・(つづく)
(高18回 高田)