旭川へ
昭和16年7月、清直は歩兵第28連隊長となるため旭川へ赴任した。彼は現場進出主義で、連隊長室に居るだけの指揮官ではなかった。練兵場で訓練中の兵士一人一人に声をかけ指導にあったった。部下であっても相手を尊重し大切にする、そんな人柄で慕われていた。
翌年5/2に動員令が下され、新たな兵が合流し一木支隊が編成された。中には支那事変に従軍した者もいた。彼等は訓練が上陸戦闘を想定したものになっていたのに戸惑いを感じた。新しい夏制服と軍靴が支給され、行先は未だ聞かされていなかったがその装備からどうやら南方の戦地へ行くらしい、と察するのだった。
暫くの間待機状態が続いたが、5/13 突然「明日出征する」と告げられた。旭川最後の夜は何となくザワついて、多くの者は眠れなかった様です。
宇品へ
5/14、一木支隊は2組に分かれ広島県宇品(うじな)に向かって旭川を後にした。支隊長は部隊と同じ列車には乗らず、別行動をとった。急行列車を乗り継ぎ上野に向かったのだ。市ヶ谷の大本営で命令を受領するために。その際一時帰宅が許されていて、家族が待つ千葉の家へ向かった。自宅へ帰った直清は以前と変わらない時間を家族と過ごした。出征の朝、清直は夫人に「また留守をよろしく頼む。今度は南の島に行く事になった。3か月もしたらすぐ帰ってくるから」と言い残し家を出た。しかしそれが家族が見た父の最後の姿となってしまうのです。
大本営で支隊長に命令を説明したのは、作戦課班長の辻中佐だった。海軍と合流しミッドウェー作戦に加わるようにと伝えられたが、詳細は何も説明されなかった。それでも大本営の命令は絶対である。多くの参謀たちの激励を受け、宇品へ向かった。大本営からは南方班の山内少佐が同行した。二人は旧知の仲だった。
一木支隊は、宇品で海軍第2艦隊司令長官 近藤中将の指揮下に入った。第2艦隊はミッドウェー島攻略部隊。支隊長は着任の挨拶をすべく山内少佐と連合艦隊司令部が置かれている戦艦「大和」に向かった。大和が旗艦となったのは3か月前。連合艦隊司令長官は山本五十六でした。
南洋へ・・・ミッドウェー作戦
一木支隊は2班に分かれ「善洋丸」と「南海丸」へ乗船した。どちらも民間から徴用したもので、軍艦ではない。輸送船として使われていた。船にはキウイ、パパイヤ、マンゴーなど南国の果物が沢山積まれていた。隊員たちは、初めて口にする異国の味に大いに喜んだことだろう。しかし隊員の殆どは行き先を知らされていなかった。自分たちはなぜ海軍に合流し、どの様な任務に就くのか、全く知らさられていなかった。
日本軍は、昭和16年の真珠湾攻撃以降 連戦連勝で破竹の勢いだった。マレー沖海戦の勝利、グアム島、ペナン島、香港島、等東南アジアの島々を占領。次はミッドウエー島だった。昭和17年の東京空襲から始まった日本本土への空襲。大本営は、これを封ずるにはミッドウェー島を占拠し西太平洋の米海軍を制圧する事が必要と考えた。陸軍もこれに参加しないと存在感が薄れると考え、上陸部隊の参加を計画。軍旗を奉ずる歩兵連隊を上陸させれば絵になる、存在感を示すのに効果的、と考えた。一木大佐率いる歩兵第28連隊の軍旗は、明治天皇から授かった伝統ある物だ。加えて彼は盧溝橋での活躍からも適任とされ、一木支隊はこの作戦に参加する唯一の陸軍部隊に選ばれた。
5/25、一木支隊はサイパン島へ上陸。サンゴ礁などの環境がミッドウエーに似ている事から、ここを出撃準備拠点とし上陸訓練を繰り返した。
5/28、ミッドウエーに向けてサイパンを出航。約40隻から成る大船団で護衛の駆逐艦も一緒だった。
6/5、サイパンを出航して8日目は軍旗祭の日だった。旭川では北海道護国神社で行われていたが、洋上においても同じだった。軍旗は天皇から授かった神聖なもの。敵の手に渡る事など絶対にあってはならない。連隊旗手伊藤少尉は、棒持帯に焼夷剤を付け「万が一の時はこれで軍旗を奉焼する」としていた。軍旗祭は善洋丸の甲板で行われた。南海丸も並走し、一木支隊長の号令で軍機に対する敬礼が行われた。
翌日隊員たちは異常に気付いた。護衛の駆逐艦が速度を上げているが、自船は反転している。「大変だ。あれを見ろ」元の進行方向を見ると黒い煙が上がっている。飛行機もたくさん飛んでいる。戦闘が始まっていたのだ。
これまでの勢いからこの作戦も勝って当たり前と思われていたが、ミッドウエー作戦は失敗。海軍は初めての敗北を味わった。
(事の詳細はWikipedia で見る事が出来ます⇒ミッドウェー海戦)
この作戦失敗により、一木支隊の上陸作戦は何も出来ないまま中止。では何処へ行くのか?大本営海軍部は帰還させるとしたが、陸軍部は敗戦がバレない様にグアム島で暫く待機させるとした。大本営のご都合主義に振り回されるのだった。・・・(つづく)
(高18回 高田)