元一は(もといち)と読みます。暫く前までですが、私は恥ずかしながら(げんいち)と読んでいました^^; 写真家であり童画家としてもよく知られた方ですね。1909年7月12日に阿智村で生まれ、 2010年11月6日に武蔵野市の老人施設で亡くなられました。101歳でした。

飯田中学卒業後、昭和5年に阿智村の小野川小学校で代用教員となりました。翌年、童話の挿絵を「童画」と名付けた武井武雄に師事し「童画」を書き始めました。昭和9年には初めての絵本を執筆しています。写真を撮り始めたのは昭和11年からで、それを勧めたのは童画の師 武井武雄でした。昭和13年には写真集『会地村: 一農村の写真記録』を朝日新聞社より出版しています。

昭和14年、拓務省(後の大東亜省)の専属カメラマンとなり上京。満州へ渡り国策だった満蒙開拓を撮影。しかしこの事で負い目を感じていた様です。
戦後は村に戻り智里東国民学校に復職。昭和20年、農林省農業総合研究所在村研究員となり、村の婦人生活を研究テーマとして調査・撮影。岩波写真文庫「かいこの村」「農村の婦人」を出版しました。

昭和30年には、『一年生 ある小学教師の記録』(岩波書店)により、第1回毎日写真賞を受賞。これによって一躍写真家として注目されるようになりましたが、相変わらず先生は続けていました。

昭和41年、教師退職を機に、清瀬市に転居しました。なぜ阿智を離れたのでしょうか?

平成6年には、毎日出版文化賞、また地域文化功労者として文部大臣の表彰を受けました。

昭和63年に阿智村は「ふるさと童画写真館」を建設し(のち「熊谷元一写真童画館」に改称)、熊谷元一本人から寄贈を受けた写真作品(約50000点)の紹介を行っています。⇒熊谷元一写真童画館
という事で私も行ってみました^^

受付は保存会のボランティアの方々が交代で行っているとの事でした。

館内は基本撮影禁止なのですが、今回は特別に許可してくださいました^^

展示室に入ると、数々の受賞を物語る賞状などが展示してあります。

その裏側には第1回毎日写真賞の受賞作『一年生 ある小学教師の記録』に使われた写真の数々。

子供たちの日々の情景が写されています。

表情が良いですね~!カメラを意識させないで撮る、常に生徒の身近に居る先生ならではですね。

シャッターチャンスも素晴らしい。桜をバックにブランコの少女、決まってますね!

これも良いタイミング。一見ボケている様にも見えますが、ピンボケではありません。男の子が動いてブレているのです。教室内ですから、シャッタースピードは1/30秒以下でしょう。それが返って臨場感を生んでいますね。この後はどうなったんでしょう^^

今回は三六災害を記録した特別展がありました。

地元の阿智村だけではなく、被害が大きかった川路や大鹿村も写されていました。川路には商店街があったんですね。知らなかった。

大鹿村は大西山の崩壊で大きな被害が出ました。

今は整備されて大西公園となり、桜の名所になっています。高台からは大西観音が町を見守っています。

それにしても当時よく大鹿まで行ったものだと感心してしまいました。道路も寸断されていたと思います。館の方は、自転車で行ったのではないか?と想像されていました。それにしても報道関係者なら頷けますが、学校の先生がです。私には何となく分かる気がします。カメラを使う人間としてこの惨事は記録しておかなければ、と思ったのでしょう。
実は当時中学生だった私も、近所の撮影をしています。残念ながらフィルムは残っていません。プリントも僅かです。撮影している私を見た当事者の方に「この馬鹿小僧、写真なんか撮ってる場合か!」と怒鳴られてしまいました。その時今宮町で撮った写真ですが、本邦初公開です^^;

懐かしい情景の写真もありました。昔の我が家も似たようなカマドがありました。

2階には童画が展示されています。

制作に使った筆や絵の具類も展示されています。

柿の皮むきも懐かしさを感じます。昔の我が家にも数本の柿の木があって、似たような作業をしていました。これほど大規模ではありませんが^^;

このようなシーンもあまり見かけなくなりましたね。昔は飯田でも豚を飼っている農家が多かったのですが!

この「いろりばた」の絵はどこかで見たような気がしました。

帰ってから記憶を頼りにファイルを探してみると、ありました^^今宮半平の五平餅の包装紙ですが、似た絵が使われていました。

作品はここで紹介した物が全てではありません。「熊谷元一写真童画館」、昼神温泉を訪れたら是非お立ち寄りください。

今回の取材でとても親近感を感じたのですが、残念ながら生前の先生にはお会いした事がありません。お名前は聞いた事がありましたが、地元の方で高校の大先輩とは恥ずかしながら知らなかったのです。
これが悔やまれますね~。一度会って話を聞いていたら、私の写真も少しは変わっていたかも^^;

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この先の話はあまり知られていない事なので、書こうかどうしようか迷いました。
先生にはトラウマがあったようです。阿智村には満蒙開拓平和記念館が在るくらい、多くの方が開拓にが行きました。満州に渡った方達は悲惨な目にあっています。国の依頼で満蒙開拓を撮影したのですが、その写真に刺激されて満州へ行った方も多かったのでは、と悔やんでいたようです。

もう一つ、悲劇がありました。それは第1回毎日写真賞を受賞し、村で展覧会の準備していた時です。昭和30年9月4日、日曜日、学校プール開放の最終日でした。先生たちは教室で展覧会の準備中でした。会知の小学校と中学校は左右に隣接していて、プールは共用でした。一人の小学生が中学生用の深い方へ行って溺れてしまったのです。騒ぎを聞いて先生たちが駆け付けました。溺れたのは芦沢宏文君、熊谷先生のクラスの子でした。

通夜の席で亡くなった生徒の親戚の方から、先生に怒号が浴びせられました。「あんたが、写真ばっかし撮ってるんで、そいで宏文は死んだんじゃあないのか」彼は次々と「カメラなんか、持って、金持ち面して」「写真展もやめちまえ、こんな時に、なにが展示会だ」「もう写真は、とらんでくれ、宏文がかわいそうと思うなら、もう写つせんはずだ」先生は「すみません。もう撮りません」としか言えませんでした。

「やめてくんろ!!」突然、宏文くんの母親が叫びました。「宏文が死んだのは、カメラのせいでも先生のせいでもないだに。宏文に注意がなかったずらに、三年生にもなって、気を付けろといっといたのに、深い方に行って、自分が悪かったんな」「先生、明日から展示会、必ず開いてくんな。宏文は永遠の一年生です。他の子は、みんな大きくなっていくだが、宏文は一年生のままだに。ずっとこんさきも。展示会で、そのことをみんなにみせてやってくんな。先生、写真展、やめたら、宏文は、永遠に忘れられちまうだに。お願いしますだ。それから、先生、一年生の写真、これからずっと撮りつづけてくんな。それをひろふみの供養としてくんな」

詳細はこちら⇒ 創作秘話  永遠の一年生

当時の会知小学校は、今の阿智第一小学校です。

プールは今もほぼ同じ場所にありますが、小学校専用ですね。

(3/18 撮 高18回 高田)