久保田創二さんは同窓生ではありませんが、高18回久保田郷二さんのお父さんです。馬場町で小さな時計屋を営む傍ら、音学・絵画・随筆・俳句とあらゆる趣味に生きた人でした。それも趣味の域を超えプロ顔負けの活躍でした。残念な事に不慮の交通事故で53歳で亡くなっています。

生前の作品をお仲間が遺稿集「聖夜の燭」としてまとめ関係者に配布しました。それをまた郷二さんの同級生である北川俊夫さんが再発行して配布。私の所にも回って来たと言う次第です。

読んでみるとこれがなかなか面白い^^俳句、イラスト、随筆など幅も広い。まぁ全てを紹介するわけにもいきませんが、随筆を中心に一部を紹介したいと思った次第です。

馬場町界隈

遠くから、それはさながら旗の林であった。その旗の下をはじめに通ったとき私の足は楽隊の歩調になっていた。ジンタの太鼓や、ラツパの音が、そのへんからきこえてきそうな思いに、誘われたからである。上馬場町では今、春の売出しの最中で、各商店の名を染め抜いた、のぼり旗が町に景気を添えている。据の方へかけて斜めに裁断してある。奇妙なかたちは多分、道幅が狭いので、往来の邪魔にならぬようにとの配慮からであろう。

この町はここ数年来、売出しの飾りと云えば、もっぱら青竹を用いた。それまた、たなばたさまがはじまった、と陰口さえたたかれた。青竹の小枝にクス玉や、五色のテープを結びつけ、エビスさまの面を吊るした竹の葉はさらさらと風に鳴り、それは売出しというよりも、ひなびたお祭りの感じをただよわせた。売出しが済むと青竹の枝をはらってさっそく物干し竿や、きうりの手に利用するむきもあった。

(今は昔より道幅が広くなっています)

上馬場町にくらべて下馬場町は万事が地味なうえ売出しに就いても気乗りうすである。それというのも床屋、経師屋、炭屋、建具屋、かざり屋、旅館、金貸し、飲み屋、大工、長唄の師匠、ダンスホール、車庫、空地などに挾まれてわずかに菓子屋、貸本屋、時計屋、酒屋、せともの屋の、商店と云えば、たったそれだけがまばらに点在しているんでは、売出しはおろか商売にも気勢のあがる道理がなかった。

(この辺りから昔の道幅。下馬場町はこの辺からかな)

それでも三年前に旗を作った。万国旗である。いっぱつ景気をつけようと、商栄会の役員が寄って考案したものである。ながいほそびきに四角な旗を結びつけ、それを町内の軒から軒へ千鳥に引張っていって、ひものあまりは、まむし坂のあたまの道路観音の杉の若木へしばりつけた。観音さまの頭の上で万国旗は、谷川線から吹き上げでくる風に、はためいた。その万国旗も、ここしばらく影を見せない。

元来、この町は夜の町である。午後の三時半になると仲の湯のふたがあく。男湯の方は、ひまな老人や、病気あがりが、ひっそりと音も立てないのに、女湯は、はじめから騒々しくとりわけ水商売の女たちの軽る口が、ひとしきりはずんで賑やかである。彼女たちはからすの行水で、銭湯を出ると手早く化粧して、それぞれの夜の勤めに出かけるのである。目のふちへ青く絵の具をほどこし、髪を飴色に染めたおねえさんたちは、橋の向うの繁華な方角へ出勤し、むかしながらの化粧法による女たちの多くは、ここら界隈の店へ出向いて行くようであった。

彼女たちの出勤と前後して、勤め帰りの人々で町はいっとき賑わい、それがやがてしずまる頃には、ジンギスカンの焦げる匂いにさきがけて、この界隈の夜がおちつき払ってはじまるのである。かつて遊廓をひかえていた土地柄だけに、遊蕩の気を誘う風が土にしみ込んでこの界隈、飲み屋小料理屋がじつに多い。軒なみと云ってさしつかえないであろう。いくつもの赤い提灯が街の両側にともり合って、なまめいた気分が夜更けまでただよう。

遊廓のさかんだった頃、このあたり一帯、特種飲食店と称する奇妙な名の、あいまい屋が軒をつらねて繁昌した。福の家のよねちゃんとか、ひふみのよっちゃんとか、うれし屋のすみちゃんなどと、わたしは懇意だった。これらのひとたちはわたしに、恋文の草案を書かせ俳句のテンサクを引受けさせ、なかでも、すみちゃんに 至っては、まっぴるま、ギター 抱えて、広くもないわたしの店へ乗り込んできて、古賀政男の教則本を売台の上に展げて、やるせない音をさせた。これらの女たちにとってわたしは要するに怜好な話し相手だった訳である。

まもなく遊廓がなくなり特飲店が廃業し、ここの女たちもいつかそれぞれ四散してしまったのも、時の流れとあきらめたが、名物だった二本松までが二本ともあとかたもなく伐りはらわれ、美事だった福の家の紅梅の古木も、ささいな理由で姿を消してしまったのが、ときがときだっただけに、いっさい根こそぎもっていかれた感じで、当座、しばらく片つかぬ気もちだった。

(当時はもっと高かったであろう二本松・・・今は杉?)

松を伐られて、だいぶおもむきは減ったが、それでもさいわい、天神様のあたりのようすはさして変らず、ここでは子供の遊びさえ、遠い昔の、ひなびた遊びに見えるのも不思議である、

私は銭湯へのちかみちの天神様の境内を通りぬける道すがら、そこの、もみじの木の下にうずくまる石彫の牛の、時代のさびに黒ずんだ背中に目をやりながら、このあたりの、間伸びした時間をしばしばなつかしむのであった。…

馬場町にはおおぜい芸術家が住んでおりますねえ―とある人はわたしにそう云った。さらにその人は言葉を次いでで馬場町展がひらけますねえ―と冗談めかして云った。なるほど、云われてみれば、はしからあげて、歯医者の吉川嘉幸先生の花鳥画はすでに有名だし、山田帽子店の日木画は県展の常連級だし、メガネ屋の林君は文学では、一流のうえに、かっつてパステルで、ムンクの画風に似た人物画をさかんに描いていた時期もあって画才は充分だし、矢高行路先生に至っては今さら云うもおろか、

かざり屋の加藤さんの画には年期がはいっていて、これはもう一家を成しているし、その前の長尾のお茶屋の息子の写真は、すでに余技の域を越え、その先の時計屋のおやじ、かくいうわたしも、馬場町展とあれば、河童の色紙の一枚ぐらいは出品せざるばなるまい。

さらに下って長沼かざり屋の弟の久夫君は、警察という、かたいところに勤めながら、歌舞伎人形を作らせたら一級品と云ってさしつかえないだろう。その先のダンスホールの赤川君の弟も、折々スケッチブックらしいものをさげて通り、セザンヌだのモヂリアニだのと云ってるところを見ると、これも馬場町展の会員にいちまい加えるべきだろう。

宝屋牛肉店の若い妻君が忙がしい商売のかたから詩を書き、小説の勉強していると云ったら驚く人もあるだろう。ひところ私の店の裏に、きみちゃんという病身のひとが住んでいて、このひとも詩を書いた。秋の壁に向かいて、と題する一編の詩は今も私の印象に残っている。

音楽なら矢高先生の御子息、眼科の若先生はチェロの名手で、飯田室内楽の重要なメンバーだし、質流れ品屋の村沢君は有望なテナーで、すでにしばしば権威のあるコンクールに入賞しているし、その前のうさぎ屋菓子店の亭主も、あんな顔していて、飯田音楽協会初代のドラムを叩いて人気があった。

和楽なら長唄の鈴木とくさん、ときわずの菊葉さん三味線の寺沢みっちゃで今は大瀬木の農家の後妻にはいってしまったが、久保田はなまの手踊り、まだほかにさがしたら出てきそうに思われて、なるほど多士さいさい、これなら馬場町芸術祭とても銘うって、音楽祭でも、展覧会でも、その気になれば開催できそうである。

ま、それはともかく、この人たちの町の芸術家は、私にとっていずれも尊敬すべき先達であり、敬愛すべき友人知己ばかりであることが、何よりもありがたい。谷川を隅田川に見たてれば、さしずめ墨東にあたるこの隈界の人情風俗は、たとえば銭湯の仕舞風呂に似て、薄汚れているが、しんから柔らかく温まる。

そんな環境にぬくぬく甘ったれながら、ああ、馬場町はたのしい町、こんな町に住んでいる限り、わたしにとって-飯田よいとことしみじみ思うのである。

 

道 観 音

仕事に疲れると私はぶらりと外へ出て、まむし坂の展望台へおもむくか、さもなければ昼湯を一つ風呂浴びに出かけるかして、気分の転換をはかることにしている。馬場町をしもへ下って家並みを出はずれると、いきなりパッと視界が展ける。そこはちようど、まむし坂の下り口と、養老院の方へ行く道とがふたまたになっていて、ここを私は勝手に展望台と呼んでいる。ここからの眺めは絶景である。眼下を一直線に走る谷川線を挾んで対岸の段丘は四季おりおりの彩どりに美しく、ことにまむかいにこんもり茂る、ご三霊様の森は、耳を澄ませば小鳥の声さえ聞こえる近さである。

段丘のはずれから鼎町のいらかが見え、その向うに名古熊の原を前景にして、竜東の丘、村落、森、林、山々が霞んで見える。私はひとり展望台に立つたまま、よもの眺めに目を遊ばせ、刻の経つのも忘れがちであった。

そばに一基の観音様が祀つてある。この観音様は数年前、道路を改修したとき、町内の人が、よそから請け出してきて、ここへ祀つて道観音と名づけた。鼻が半分かけているけれども、おだやかな顔立ちの胸に蓮の花のつぼみを抱いている姿はあどけなく、童謡に出てくるお地蔵様とか観音様とか、そんな感じがあった。誰が供えるのかおりおり草花がしんぜてあった。

この夏ごろからときどき私の店前―つまり熊谷理髪店の横の石垣のうえにどっかりとあぐらをかき、ゆっくり一服つけて休んで行く老人があった。すぐ鼻の先を、騒々しい音の乗りものがひっきりなしに走りまくるのに、老人の目は、どこか遠くの海でも眺めているような、おだやかさであった。全休の感じが想像図の火星人に似ていて、頭の鉢より、ふたまわりほども大きい鳥打帽子をかぶり、ズボンの上をグルグル巻きつけた兵古帯のあいだから、がま口の端がのぞいていた。それはいかにもしまの財布に五十両といった感じで、その大きながま口に老人の生涯が支えられているおもむきであった。

飯田祭りの終りの日に、 私は谷川線の広場へ阿波踊りの見物に出かけた。ふと、人垣の中に例の老人を見た。老人は相変らず大きい鳥打帽子をかぶり、白の半袖シャツを着ていた。阿波踊り、奴音頭、自衛隊の音楽、おすわ太鼓の全部が勢揃いするまでに手間がかかった。間もなく開会のあいさつがはじまつた。堂々たるあいさつであった。堂々たるあいさつは由来リズムが悠長である。雨雲がひろがり暮れそめてきた。堂々たるあいさつがようやく終り、いよいよ皮切りにおすわ太鼓の演奏がはじまろうとしたとき、またもや別の人がマイクロホンを握ってあいさつをはじめた。

胸を張って前の人よりもいつそう堂々たるあいさつをはじめたのである。「演説はたくさんだ、早くやれえ」と怒鳴る者があった。そのときヘンに透きとうる声が「やらせておけ・・・あれがうれしいんだ」と云った。例の老人だった。おすわ太鼓がはじまり、太鼓が強烈なリズムを奏でだしたとき老人は「ヒヨー」という奇声を発し頭より高い所で拍手をした。

老人の熱狂的な声援にくらべて、たよりない拍手がパラパラと鳴つだ。「もつと手を鳴らしてやったらよからずに、耳のない奴らに出合つちやあ、おすわ太妓もカワイサイ」そう云いながら老人は帽子を脱ぎ、腰から手ぬぐいを抜きとって頭の汗をふいた。

街にネオンがかがやきだしていた。ついきのう、私は市立病院に用事があっておりて行く道すがら、道観音の前でひとりの老人が、塩からの空き瓶へ日照草に似た花を挿して、それを観音様に供えているところを見た。

それが例の老人である事に気がつくまでに間かあった。鳥打帽子をかぶっていなかったせいばかりではなく、印絆天にゴム長といういでたちだったからである。老人はパンパンとかしわ手を三つうち肩らし、何か口に唱えながら、ふたたびパンパンとかしわ手をうって一礼すると、そのまま馬場町の方ヘゴム靴の音をボクボクさせながらのぼって行った。

彼岸を過ぎるとさすがにめっきり秋めいてきて、そのへんの雑草が末枯のようすを見せはじめていた。

 

==久保田創二さんの事==

久保田さんは、明治43年1月10日、飯田市白山町で生まれました。本名は信夫。創二は後のペンネームの様です。上飯田尋常高等小学校尋常科卒業。画家になりたがったが家庭の事情でそうもいかず。東京の叔父の元で、時計職人の修行をしました。大正12年の関東大震災を体験しています。昭和9年、修行を終えて帰郷。時又の時計店へ職人として住み込む。昭和12年、独立して馬場町で店を構えました。しかしこの店は、昭和22年の飯田大火で焼失。昭和29年11月、下馬場町角の3畳に半坪の土間が付いた店舗を借りて開業。

その場所は何処なのか?幸い熊谷理髪店のご主人に話が聞けました。此処に在ったんですよ!と教えられた場所はビルの横の小さな空き地でした。今はもうくつわ小路に降りていく道と一体化しているように見えます。道路とは舗装の仕方が少し違う傾いて見えるスペースです。建物もないとホントに狭く見えます。

此処は店舗だけで、住まいはくつわ小路の方だった・・・との事ですから、ここら辺りだったのかな?

くつわ小路は狭い路地です。長屋のように並んだ建物は老朽化が進んでいますが、レトロな雰囲気が味わい深い通りです。以前は飲食店だったと思われる建物もあります。今も住んでいる人は居るのかな?家並みの後ろ側は谷川線になります。

では谷川線側からはどう見えるのか?合同庁舎の駐車場からよく見えます。何軒かは住んでいる人が居そうですね。

こちらは空家なのかな?

裏側ついでに、くつわ小路から見た谷川線沿いの廃屋も凄い事になっています。通りから見ると二階建てに見えますが、裏から見ればその実態は木造四階建て。今の建築基準法からすればアウトでしょう。

昭和39年12月20日、午前0時50分頃、このロータリーで交通事故にあい亡くなられました。飯田新人句会忘年俳句会の帰途、酩酊運転の車にはねられてしまったのです。

飯田市代田病院へ収容され意識不明のまま、五十三年の生涯を終えました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

(高18回 高田)