私のもとに一冊の本が届きました。送ってくれたのは同期の山田治和さん。本のタイトルは『龍峡小唄ものがたり』 以前在京同窓会HP担当、三ツ橋史緒子さん(高22)より紹介された本ですね。
在京同窓生 近著のご案内

著者は(中47回)の大先輩、牧内 雪彦さん。
内容はタイトル通り「龍峡小唄」の誕生秘話。この本によって初めて知った事の多い事。作曲者はどなたかご存知ですか?
誰あろう、あの有名な中山晋平氏とは驚きました。
作詞は白鳥省吾氏。日本詩人連盟会長、日本歌謡芸術協会会長などを歴任された方。
のちに天龍下ればの歌手を努めた市丸姐さんは松本出身の信州人。という事で、この本を少し詳しく紹介しようと思います。

龍峡小唄」は、農村生まれの大正青年が育んできた夢「郷土に新民謡天龍峡小唄を!」から始まりました。その青年は牧内武司氏、著者の父親でした。その構想を初めて語ったのは下川路村七区公会堂。「郷土に新しい民謡を!素晴らしい提案だ」村長はじめ一同大賛成。

川路・龍江 両村の村長に趣意書を届け、賛同協力は約束された。後は実行あるのみ。曲作りは誰に依頼するか?念頭に浮かんだのが自然主義詩人の白鳥省吾氏だった。氏は幾度か伊那谷に来て文学青年たちに講演もした詩人。伊那谷の風土もご存じだ。若さと言う無軌道に乗って、白鳥省吾氏宛てに天龍峡小唄の構想を述べ、作詞の依頼状を書いたのだった。

白鳥氏は、無礼千万な田舎青年の書簡を鷹揚に受け止め、快諾との返事をくださった。そこで二通目の書簡。その概略「早速のお返事深くお礼申し上げます。ご承諾下さいまして感激です。作曲の方は中山晋平先生にお願いして頂くよう切望致します。踊りの振り付けにつきましては藤間流が最高と望んでいます」
(これはもうプロジューサーですね。しかもそれが実現するのですから、唯々感心するばかり)

事が順調に運び始めると、次は費用の捻出である。龍江村村長、川路村助役他数名で、伊那電の重役等に会うため飯田蕉梧堂へ行く。(蕉梧堂・・・詳しい事までは分かりませんが、当時は格式の有るホテルだったようですね)

此処で寄付のお願いをした訳だが、思いがけない収穫も。川路村の出で伊那電の重役 代田芳太郎氏からのアドバイス「私の個人的な意見ですが、天龍峡小唄と言う題名がどうも野暮ったい。天を外して龍峡小唄としたらどうだろう目から鱗とは正にこの事。「代田先生、ありがとう御座います。龍峡小唄で決まりです」

龍峡小唄も順調に仕上がりつつあった。そうなると、披露発表会の算段だ。相談の結果、天竜峡ホテル前の広場で行う事となった。発表会準備会議の席上で、武司氏はこれまでの経過と新民謡の意義などを説明。更に白鳥省吾先生から届いていた龍峡小唄の歌詞を朗読した。

1 天龍流れて稲穂はこがね
繭はしろがね お国自慢の天龍峡

2 伊那の黒土踏みふみござれ
川は天龍 山は赤石みてござれ

・・・と、十番まである歌詞を披露、読み終わると一斉に拍手が沸き起こった。雰囲気にわかに好転。両村協調して事業達成を期する心が全員に芽生えた様子。龍峡小唄披露発表会は、昭和3年11月6日に決まった。
10月29日天竜峡ホテルに於いて第2回実行委員会が開催され、発表会当日の段取りが決まった。

11月1日、この日の地元新聞各紙は龍峡小唄の記事を大きく載せている。これは南信新聞の記事。
『龍峡小唄の一行、四日に来峡 華々しく披露発表会は六日』の見出しに続いて「・・・作詞の白鳥省吾氏、作曲の中山晋平氏、振り付けの藤間蔦枝、藤間芳枝 両女史ら一行は四日午後1時に天龍峡駅に到着し、天竜峡ホテルに滞在する。披露会のステージは目下ホテル前に設営中。・・・午後7時から葵の間を練習場として歌の教授、舞踏の振り付けを受ける。短期間の講習で成果を上げるため相当経験のある者を選出。川路・龍江両村から十名、飯田花柳界から十一名を出す事となった」

舞台の設置場所は天竜峡ホテル前、姑射橋西畔の広場。山側の斜面に頑丈安全な舞台を構築する。丸太を縦横に組み、左右が6間(10.8m)奥行2間(3.6m)の大舞台。材料の木材や竹は、山持の村民数名が提供を快諾してくれた。更にありがたい申し入れも。飯田の料亭「舞鶴」の老女将から電話『藤間流の名手が信州の山ん中の天龍峡で踊りなさると言うのに、踊り台無しでは済まされませんよ。うちの踊り台をお使いなさいな』と。これを聞いた演出係担当の田中氏が「こうなりゃあ、舞台の飾りに俺らほうの大屏風を出そうじゃないか」田中家自慢の大屏風は、三十六歌仙を描いた六曲一双の見事な物。野舞台は一気に格式を上げる事となった。(その舞台の場所は、今土産物店などが並ぶこの辺りではなかろうか)

11月4日(日曜)中山先生ご一行到着。中山先生が乗り換えを間違えたため大幅に遅れ、天龍峡到着は午後6時20分だった。それでも駅前には黒山の人だかり。夕食後葵の間に集合、顔合わせ。中山先生の要望で、舞踊会のメンバー揃って伊那節を2種類踊る。では明朝は午前9時から練習を開始しましょう、となって一同解散。

翌日、一同顔を揃えると中山先生から、囃し言葉を「ヨイトヨイト、ヨイトサノ、ヤレコノセ」に変更したとの説明。「この方が力強くて良いでしょ。自画自賛かな?」一同大きく頷いて同感した。「まず歌の練習をしましょう」と中山先生が美声で歌い始めた。一同揃って練習すること一時間余り。
三味線組は歌の練習半ばで2階へ移動、藤間蔦枝女史より曲調の教授を受ける。この地では三味線の巧者名手と言われる三氏である。
踊り組の練習は階下で開始。基本を藤間芳枝女史が踊って見せると、中山先生は早くも要領を身に付けた様子で歌いながら踊り始めた。それに倣って次々と踊りの輪に入り、大勢になって熱心な練習となる。
昼食はどんぶり飯で腹を満たすと、午後1時に練習再開。飯田の芸姑衆も到着。葵の間で揃って猛練習を開始すると、中庭に見物人が集まり一杯になった。夕食後も練習続行。本番は明日なのだ。

11月6日(火曜)発表披露の日。葵の間では総仕上げの練習が始まる。祝砲が晴れた大空に轟き渡り、峡谷を揺るがせて山彦になる。昼近くには観衆が集まり始め、天龍峡の賑わいは有史以来と言うべしか。作詞の白鳥省吾先生が弟子二名を連れて到着。飯田芸姑衆も揃って姿を現した。定刻となり、龍峡小唄発表披露の幕は切って落とされた。
昼の部は、招待された関係者の皆さんに披露。
南信新聞の記事「伊那谷に生まれた最初の新民謡 龍峡小唄 の披露会は6日午後1時より天龍峡ホテル前の広場で盛大に開かれた。当日は特に作詞者白鳥省吾氏、作曲者中山晋平氏、振付の藤間蔦枝、芳枝の4氏が来峡し、付近の若い人々に教え込んだので当日の人気は盛り上がり、定刻前から詰めかける者三千余名。プログラムの進むにつれて非常な人気を集め午後6時散会した」

夜の部は6時半から開始。一般開放とあって続々と集まる人々。幕が上がると、昼の部とはまた違った美しさと賑わいで別天地の情趣が醸し出された。舞踏、歌と踊り、そして合唱など盛り沢山の余興を終えて、小唄披露になると割れんばかりの拍手だった。
歌詞十節を3回繰り返して歌い踊る。そしてまた委員役員も踊りの輪に加わって、舞台いっぱいの大輪になって踊る。幕を引くも未だ踊りは止まず、幕の内にてドンドンと板を踏み鳴らし踊り続け、やむなく又幕を開く。すると中山、白鳥両先生も舞台に飛び出し踊りの輪に入った。ようやくにして幕を閉じ、万歳三唱を繰り返した。仰げば満天の星座きらめく中に、龍峡小唄 が轟き響いた天龍峡の夜だった

龍峡小唄 の評判は上々だった。11月20日には中山先生より「ラジオ放送の為上京せよ」との通知。30日に三味線、歌い手の5人で上京。12月1日、中山先生と愛宕山の東京中央放送局 JOAK の放送室に入る。先生のアドバイスもあって、無事大役をやり遂げた。更に翌日は、丸の内の「日本ビクター蓄音機会社」へ赴きレコードの吹込みまで行った。中山先生は「ご苦労さま。地元青年衆の味が出た龍峡小唄 になったよ。良かった良かった」この日吹き込んだレコードは、翌年1月6日に郵便小包で武司氏の家に届いた。

下伊那各地からは、龍峡小唄 の指導要請が次々舞い込む。それに応えて各地へ出張指導。更に松本浅間温泉からも指導要請があり、13人で指導に出掛た。特別に熱が入ったのは昭和6年3月の名古屋行。中部旅行協会ジャパンツーリストビュロー主催、名古屋鉄道局後援「春の行楽の会」とやら。期日は3月27日。会場は名古屋松坂屋6階大ホール。此処での出演が要請されたのだ。いつも応援してくれる天龍峡ホテルの伊原恒子女史も、特別な力の入れ様。3/15 から練習開始、深夜12時近くまでの猛練習。26日、天龍峡発4時50分の電車、今回のメンバーは16人。辰野に出て中央線で名古屋入り。夜遅く、旅館に伊原恒子女史が激励に訪れた。27日、松阪屋6階の大ホールへ。この日は3回のステージ披露。満席の観衆からは熱い拍手が沸き起こった。伊原女史も喜び満面で我々に握手して回った。合間には天竜下りの映像上映、龍峡小唄の レコードを聴かせるなど、実に丁寧な観光案内。それはもう涙が出たほど感激の松坂屋ホールだった。

昭和7年夏、松竹映画「天竜下れば」が封切られた。映画自体は、龍峡小唄の評判に便乗しようという即席凡作だったが、主題歌は大ヒット。うぐいす芸者と呼ばれビクター専属歌手となったばかりの市丸の巧みな節回しと美声が、歌謡曲ファンを熱狂させ大衆を虜にした。作曲はあの中山晋平先生だ。市丸は 天龍下れば こそ自分の持ち歌と確信。放送やステージでは必ず歌ってビクター看板歌手の地位を確立した。天龍下れば の人気は高まるばかり。
昭和9年7月、作詞の長田幹彦氏と市丸姐さんが舟下りをするために揃って来峡。噂を聞いて集まった人々は、二人の美貌に驚いたという。(テレビもない時代、芸能人を生で見たのだからその驚きは想像できますね)
この頃から武司氏は、この姑射橋畔に二曲一双の屏風様式の歌碑を建て、後世まで伝えたい、と空想していた。

この思いは昭和32年4月に実現する事となる。武司氏は郷土の民俗芸能の掘り起こしに情熱を注ぎ、著書も出していた。昭和30年秋、それに対し文部省から助成金が下された。その使い道を考えた時、龍峡小唄碑 の建立を思いついた。おりしも龍峡小唄30周年も近い。それに合わせて歌碑を建てよう。この案は、観光協会や商工会に働きかけて実現の運びとなった。歌碑は、天龍峡ホテル前の築山東端に姑射橋に向けて建立された。
南信日報 昭和32年4月14日(日)の記事
「白鳥、藤間氏ら迎えて 龍峡小唄30周年記念祭
信州の名勝 天龍峡で13日、春の恒例花まつりと併せて龍峡小唄30周年記念および小唄歌碑の除幕式が、作詞者白鳥省吾氏らを迎えて桜花満開の下、盛大に挙行された」

天龍下れば の歌碑は、観光協会の方で建立計画が進行していた。武司氏には、作詞者である長田幹彦氏の直筆を入手できないでしょうかとの相談が持ち掛けられた。長田氏は既に他界していたが、東京信濃町のご自宅に長女 美代子さんをお訪ねした。毛筆の原稿は無いのですが・・・と言いつつ、美代子さんは筆書きの署名とペン書きの文字を用意してくれていた。更に、除幕式には市丸さんと一緒にお邪魔しますよ、との約束。歌碑は龍峡小唄歌碑と道を挟んで向かい側、公園への遊歩道脇に建立された。除幕式は昭和50年8月23日に行われ、市丸さんと美代子さんも臨席した。

武司氏は平成元年1月12日、90歳で亡くなられました。この本は「亡父の自分史」を倅の私が書き残してやろう!と書かれたものです、と牧内雪彦氏。本の紹介としては少々書きすぎたかと思いますが、実際手にして頂ければ幸いです。本には当時の写真も沢山。大勢の関係者も実名で出ています。

この本は此方でも購入できます>Amazon「 龍峡小唄ものがたり」

こちらはネットならではですね。>YouTube 市丸の龍峡小唄 です。
本には10番までの歌詞が全て載っています。

市丸姐さんの > YouTube 天龍下れば 本人映像が見られます。
この歌詞も本に載っていますよ。

近年はこんな曲も>水森かおり 天龍峡
本人だけの物が見つからず。バックにおっさんの声が入っていますが、私ではありません^^;越後水原のB面かな。余りヒットはしなかった様な。

もう一つ> 福田こうへい 天竜流し

YouTube を探していたらこんな曲も出て来てビックリ> 飯田銀座音戸
歌っているのは 都はるみ、作曲は市川昭介 というビッグネーム 。
7年に一度のお練り祭りで「次郎長踊り」 に使われているとの事ですが、それだけでは勿体ないね。

私が小学生の頃は、学校で龍峡小唄を習い運動会で踊ったものです。今はどうなのでしょう?かつてのリンゴ並木での盆踊りもこの龍峡小唄がメインでした。「ヨイトヨイト、ヨイトサノ、ヤレコノセ」に続いて「素敵なベッピンサンにわしゃ惚れた、あら、お楽しみ」と合いの手を入れるのも楽しかった。それが今は「飯田りんごん」なる奇妙な踊りに変わってしまった。詞は無く囃し言葉だけ。それが「りんごんりんごん、ホイ、おいな、ソレ」これを初めて聞いた時、背筋がゾクッとする程の嫌悪感を覚えたのは私だけでしょうか?中山晋平氏は、囃し言葉に下伊那の方言も検討したが好都合なものが見つからなかった、と。私も、わざとらしい方言を入れると言うのは如何なものか思うのですが。

丘の上では無くなってしまった盆踊りですが、天龍峡では毎年行われています。メインはもちろんこの龍峡小唄。でもコロナ禍で2年連続の中止となってしまいました。残念。

残念と言えば、本書にしばしば出て来る天龍峡ホテルも今はもう在りません。創業者は伊原五郎兵衛氏、女将の伊原恒子女史は縁戚に当たる女性との事でした。五郎兵衛氏は、紀州徳川候の大磯別邸を購入、移築して「彩雲閣 天龍峡ホテル」と命名して開業。伊那電・天龍峡駅の開業に合わせての事業でした。その建物も今はもう無いのです。残っているのは歌碑が置かれた築山だけ。

もう一軒の老舗旅館 龍峡亭 も、コロナ禍の影響で営業危機。8/30 付で倒産処理の手続きが決定した様です。

残念な話が続いてしまいますが、先日天竜舟下りの船頭さんが舟から転落してしまいました。現場は鵞流峡辺りらしい。天竜川は最近の雨で増水していて捜索も困難な様子。9/14現在 未だ見つかっていません。

(高18回 高田)