大正新道を横切るとその先は仲ノ町二本松。正面のこんもりとした木は普門院の糸桜。通りは鍵の手になって、奥が見えない様になっています。

ついでに満開時の写真も!電線がね~~残念なロケーションですね^^;

桜の下に堀成子の句碑があります。碑の方は茂みの影で見難くなっているので、案内板を。(写真はクリックすると大きくなります)

普門院は堀氏の祈祷所で大きなお寺でしたが、明治政府の 神仏分離政策によって取り壊されてしまいました。今は数個の石碑とこの小さな祠があるだけです。

かつては桜の奥に「飴金」と言う大きな料亭があったのですが、今は駐車場になっています。そう言えば丘の上には料亭が何軒もありましたが、今は極わずかです。これも時代の流れと言う物でしょうか?

普門院跡の向かい側には天満宮があります。実はここも普門院の一部でした。かつては堀家ご先祖の御三霊も此処に祀られていたのですが、今は長姫神社の方に祀られています。

説明板を見ると、実に大きなお寺だったと分かります。これにも書かれていますが、この裏側にはかつて飯田遊郭があり、境内の2本の松が目印になっていました。二本松の地名もこの松から来ています。松自体は売坊法の成立とともに切られてしまった様です。今立っている木は杉ですかね?

かつては天満宮の裏手に飯田遊郭入り口の門がありました。この辺りから遊郭だったと思われます。通りは此処も鍵の手になっていて、奥まで見通せなくなっています。

飯田遊郭は1882年(明治15年)に長野県議会で設置が可決され、当初は12軒が開業。娼妓は30人程度だったそうです。江戸吉原のように江戸時代からあったんではないのですね。県議会で設置が決まった、と言うのもちょっと意外でした。

大正から昭和にかけてその規模も大きくなり、非公認の青線も数多くあった様ですね。久保田創二さんの随筆には・・・特種飲食店と称する奇妙な名の、あいまい屋が軒をつらねて繁昌した・・・とありましたね。最盛期には、人口2万人足らずの飯田の町に舞妓が380人、娼婦などが500人近くいたそうです。今は「焼肉の町 飯田」ですが、かつては「飯田の町は女の町」だったようです。

調べていたら意外な事実も・・・あの阿部定が1925年7月から1927年までこの飯田遊郭に居たそうですよ^^

1956年(昭和31年)の売春防止法制定以後は歴史に幕を閉じ、建物も次々に壊されていきました。しかし、久保田楼と深津楼の二棟は暫く残っていました。実際私も見た事があります。取り壊されたのは、久保田楼が2002年9月、深津楼が2004年春でした。今にして思えば写真を撮っていなかった事が悔やまれます。でもこの写真をネットで見付けました^^時代劇でよく見た遊郭の雰囲気を感じますね。

写真が載っていたサイトです長野県の遊郭 スクロールすると一番下に載っています。ではここは今どうなっているのか?上の写真と昔の記憶から、やっと場所の特定が出来ました^^今はアパートの様ですね。奥に蔵のなまこ壁が写っている事と、道がカーブしている角に在る事からここが元久保田楼と分かります。

奥の方から振り返ると、正面が元久保田楼です。

ではもう一軒の深津楼は?写真は無いので、昔見た記憶から推測するしかないのですが・・・確か通りを挟んで2軒並んでいたと思います。多分この空地となっている所に在ったのではないでしょうか?

通りを奥まで進むと、小さな稲荷神社が祀られています。

近寄って表示を見ると、「正一位七五郎 稲荷大明神」と記されています。正一位(しょういちい)は神様の位の様な物で最上位にあたります。この小さなお稲荷さんが最上位って?調べてみると・・・位を決めるのは朝廷や天皇。鎌倉時代に後鳥羽天皇が京都伏見稲荷を訪れた際、これは素晴らしいと言って稲荷神を正一位としました。

これを受けて、稲荷神が正一位なら分霊も正一位で良いんじゃないのと解釈^^;ここも此処もと全国的に広まり、多くの稲荷社が「正一位」となってしまった・・・と言う事の様です。近くに稲荷社がありましたら気にして見てください。そそ、七五郎の方は分からずじまいでした^^;

車はこの先通れません。でも遊歩道があります。

先へ進んでいくと・・・旧飯田測候所に出ます。

旧測候所には駐車場があります。仲ノ町、馬場町界隈には適当な駐車場が無いので、散策の際は車をこの駐車場に止めて歩くのがお勧めです。

 

(高18回 高田)