校内にある希望の像。この像はどういう意味を持っているのかご存知ですか?

私は、「学業を成し、将来に希望を持って進もう」・・・そんな意味かと思っていました。
でも実は、慰霊の為の像と最近知りました。

モデルとなっているのは、旧制飯田中学校の生徒。学徒勤労動員で赴いた軍需工場で、勤労中に命を落とした方達との事です。
昭和19年の昭和東南海地震で倒壊した名古屋の軍需工場で5人、伊那市の飛行場建設現場の落盤事故で1人が犠牲に。
その6人の方を慰霊するため、昭和35年に建てられました。

裏側に廻ってみると、その説明板があります。それぞれのお名前も刻まれている様ですが、今は判読困難な状態です。
我々だけでなく、今の生徒諸君にも知っていただきたいと思います。

上郷の飯田女子高校の隣にある平和殿。こちらも戦争遺跡と言えます。

その説明の石碑があります。

それによると、この神明作りの祠は明治36年に建てられた歴史的な物。元々は天皇皇后の写真を納めた「泰安殿」との事。戦後の昭和25年に、戦没者の霊を祀り「靖喜殿」とされた。平成11年に「平和殿」と改名。英霊の慰霊と平和への願いを込め、平和と命の尊さを後世に伝えたいとしています。

隣には忠魂碑も建てられています。

 

爆弾三勇士はご存知でしょうか?ウキペディアに詳しい説明があります>爆弾三勇士
第一次上海事変中の1932年(昭和7年)の出来事と言うから、知る人ももう僅かでしょう。
日本軍は、敵陣へ突入するため鉄条網を破壊する作戦を強行。
3人の兵士が、点火した破壊筒を持って敵陣に突入し鉄条網を爆破。自らも爆死しました。

陸軍省は最高の賛辞とし、新聞各紙も「忠烈な肉弾三勇士」と大々的に報道。映画や歌まで作られたとの事。
YouTube に歌がありました。>爆弾三勇士の歌。
3人は全国的に英雄として称賛され、子供達の間でも「肉弾三勇士ごっこ」が大流行したそうな。
九州の各々の菩提寺には、3人の合同墓が祀られているという。

その、三勇士の石像が飯田に建てられていたと言うのは驚きです。出身地でもないのに何故でしょう。
三人が爆死したのは昭和7年の2月。飯田にはその年の10月に石像が建てられています。


場所は、大平街道から、猿庫の泉への入口付近。
三しか読めない石碑が立っている。


そこから入って直ぐかと思ったら、細い山道が上に伸びている。


ゼーコラ状態となり、半信半疑で上へ上へと登って行くと・・・ありました。木々の間から石像が!


誰か手入れをしている人が居るのでしょうか?思ったより綺麗な状態でした。


石碑があります。左側はこの像の言われなどが書かれていると思いますが、判読困難です。右側には3人の名前があります。


それによると、三人は左から「江下武二」「北川丞」「作江伊之助」の様です。

それにしてもなぜこんな高台に建てたのでしょう?下からは見えないし、辿り着くのも大変な場所です。知っていなければ行けない場所。

さるくらの泉には何回も行っていますがこれまで気付いた事もなく、実際に行ったのは今回が初めてです。

今はウクライナ戦争で大変な時。中国も領土拡大に向け軍備増強中。北朝鮮は核ミサイルの開発に成功し、増産中。その一方で国民は飢えに苦しんでいるとか。

戦争や兵器の生産などが無くなれば、人類はもっと豊かな暮らしが出来るのに・・・そんな風に思うのは私だけでしょうか?

 

(高18回 高田)