江戸時代飯田藩を12代に渡って治めた堀家の墓所が、長久寺に在ります。大宮神社の裏ですね。薬医門と漆喰塗りの白壁に囲まれていて、特別の墓所と分かります。


説明板もあります。見てみましょう。此処には6代 親蔵(ちかただ)、9代 親民(ちかたみ)、11代 親義(ちかのり)の墓碑があります。

左から、6代 親蔵(ちかただ)、11代 親義(ちかのり)、9代 親民(ちかたみ)の墓碑になります。

その奥方や夭逝した若君らのお墓もあります。

また、こちらには埋葬されなかったが此処で荼毘に付したと言う碑があります。
左から、初代 親昌(ちかひさ)、2代 親貞(ちかさだ)、4代 親賢(ちかかた)の荼毘の碑です。

堀家の隣には脇坂侯のお墓も。

説明板を見てみましょう。安元侯は、城下町としての飯田の形を作った人と言われています。

2代 安政侯の時播州龍野へ移動。家臣の塩山家より赤穂の赤埴家に養子に入ったのが、赤垣源蔵 と言われています。これで一休みは如何 >元禄花の兄弟 赤垣源蔵(島津亜矢)

脇坂侯の後に飯田藩を治めたのは、小笠原秀政。飯田から松本城に移ったので、飯田にお墓はありません。ただ奥方の福姫(登久姫)は32歳の若さで飯田で亡くなり、峯高寺にお墓があります。


福姫は家康の孫であり信長の孫でもあると言う血筋。墓石には小笠原の三階菱ではなく徳川の三つ葉葵の紋が刻まれています。

少々脱線しましたが、話を長久寺の墓地に戻しましょう。豊臣時代、秀吉は毛利秀頼を飯田に置きました。その墓とされる宝篋印塔があります。また堀家の家老島地家など飯田藩士の墓もあります。
左から秀頼の宝篋印塔、島地家の墓、黒須家の墓、その後ろに安東家の墓も見えますね。

以前、中央通りに「ヤマトヤ」と言うスポーツ用品店がありました。そのオーナーの島地家は、元家老家の血筋です。更に、島地五六 飯田中学初代校長も同じ家系です。「作詞 福澤 悦三郎・作曲 井出 茂太」の【南信健児の歌】を校歌と制定したのも島地校長です。

仲ノ町の教育会館の門は、武家屋敷黒須邸の門。近くには安東家の建物もあります。

飯田藩とは関係ありませんが、こんな人の墓も。力士男山の墓。飯田巡業に参加した新人の男山。2m程の大男。入ったトイレの床が重さで抜けてしまい、落下。腰を痛めて、そのまま土俵に上がる事なく亡くなってしまったそうです。台座に「飯田角力協會」とあります。

長久寺の山門横には墓所の案内があります。

正面からの山門。臨済宗妙心寺派のお寺ですね。この門は、明治6年に取り壊された普門院から移築した物です。奥に見える門は羅漢門。釈迦三尊像と16羅漢像が安置されているとの事です。

長久寺は大宮神社の隣に在ります。では大宮神社にも少し触れておきましょう。神社によくある仁王門ではなく、ここは随身門です。左右には守護神が祀られています。此処では右大臣、左大臣。


正面から見ると、この並びになっています。ここで問題、どちらが左大臣でしょう?

左右は本殿側からの並びで言います。従って、向かって右側が左大臣。また、左大臣の方が格が上なので年寄り。右大臣は若くなっています。

門と同じ段に、夫婦杉があります。説明板によると、羊満水を逃れたお礼の記念に植えられた様ですね。

2本の根元は繋がっています。

 

その隣には御神紋の梶の木があります。


それにしては若い木と思って根本をよく見ると、これは蘖(ひこばえ)ですね。

大宮神社の御神紋はこの葉をデザイン化したものですね。

門を抜け石段を登ると、正面に社殿があります。正式名は、外県(ソトアガタ)大宮諏訪神社。


その名の通り諏訪大社の建御名方富大神(タケミナカタトミノオオカミ)と八坂刀売大神(ヤサカトメノオオカミ)が、御祭神として祀られています。

本殿の横に見えているのは、楠神社です。11代の堀親義が、長州征伐で兵庫県へ出陣した際、楠木正成を祀る湊川墓地に参拝。その分霊を迎え社殿を作り祀ったものです。「精忠」と書かれた扁額(へんがく)にも湊川神社の表記があります。

正面の赤い賽銭箱にあるマークは、正成公の馬印「菊水」 飯田の清酒「喜久水」はこれにちなんだ名だそうです。

境内の木々は一部に紅葉が。9月ももう終わり。秋ですね~!


コロナ禍で大変な年でしたが、ここへ来てかなり治まって来ましたね。このまま終息してくれれば良いのですが、第6波は来るのでしょうか?もう暫くは気を緩める事なく、色々我慢していた方が良さそうですね。

(高18回 高田)