先頃ですが、美術博物館による春草講座がありました。春草の出品作をみるという事で、講師は学芸員の小島淳さん(高40回)

第1講は10/28に、明治30年代の絵画共進会での名作。六歌仙・菊慈童・王昭君 等が紹介されました。

第2講は12/2に、明治40年代の文部省美術展覧会の名作。落ち葉・黒き猫 等が紹介されました。

私的にはとても気になっている作品がありまして、この講座に参加したのです。それは「落葉」。最初にこれを見たのは小学生の頃でしょうか。当然ですが印刷物。実物は未だ見た事がありません。

春草は飯田市出身と聞いていた事もあり、これは風越山麓かなと思ったのです。でも後年解説などを読むと、代々木の雑木林となっていてガッカリでした。春草が住んでいた頃の代々木は田舎で雑木林だったとの事。それは納得でしたが、代々木に霧は出るのかな?奥の木々は霧で霞んでいる様に見えます。

その後、千代夫人の手記を見ると「決してそう云ふわけでは御座いません」とありました。という事はもしかして・・・

更にネットで > リンク 柴田祐己の随筆  には、『伊那』の中に兄 為吉の言葉として「春草の落葉はなぁ、御殿山をかいたんだよ」との記載。

執筆の小島恵蔵氏ですが、実は小学校で私の担任でした。春草の名を初めて聞いたのも、この小島先生からでした。以前紹介した、「ものがたり菱田春草」の執筆にも参加されています。>温故知新 ⑥ 菱田春草

「伊那」724号を図書館から借りてきました。これは春草の特集号でした。その冒頭でも小島先生は、「落葉」の原点は春草が幼少期に遊んだ御殿山といわれ・・・と書いています。(クリックで拡大できます)

更に先生は39~49頁に渡って「菱田春草と伊那谷」と題し解説を書かれています。ここに兄 為吉の言葉がありました。

「落葉」が御殿山なら私の疑問「霧」も納得です。御殿山はどこかというと、飯田高校がある高台です。江戸時代、殿様らの狩場だった事からこの名になったとの事ですが、地図にその名はありません。飯田下伊那は霧がよく出る所です。写真は霧の御殿山です。民家が建ち並び春草の頃とは随分変わっていますが、所々に林があります。

霧の林の中へ入ってみました。いかがでしょう。雰囲気は似ていませんか?

小島恵蔵先生の言われる通り、「落葉」は御殿山に違いないと思ったのですが、気になる点が。先生がこれを書いたのは、1988年。かなり前です。定説となっていれば、その後の解説は「落葉」は御殿山 となる筈。でもそのようには書かれていません。その点を講師の学芸員 小島先生にお聞きしてみました。どちらも小島先生でややこしいですね😅


この点は小島恵蔵先生にとってお気の毒。後日、御殿山とは言い切れないとご本人も認められていたのですが、それを書く前に亡くなられてしまったのは残念。為吉の言葉も、春草から直接聞いた話ではありません。「落葉」に描かれている木々や小鳥などは代々木の物で、構図は春草のイメージでありデザインと言っていいでしょう。


という事は、後方の木々にかかっている霧は遠近感の強調という事でしょうか。春草のイメージなら、子供の頃遊んだ御殿山の霧もその中にあったと言えそうな気もします。

その後ですが、図録「大観 春草」に小島恵蔵先生が春草の紹介を書いている事が分かりました。気が付いたのは私ではなく、たまたま同じ物を持っていた小学校の同級生。
これは1994年に大津市と神戸市で開かれた「大観 春草 展 」の図録。小島先生は「日本画近代化の騎手 菱田春草―その不熟の生涯-」と題した文を書いていました。

此処で先生は「落葉」は代々木の自然観照から生まれた傑作、と書いています。御殿山という考えからは既に離れていた様ですね。この時の先生は「飯田美術博物館評議員」、先の「伊那」の時は「飯田市美術博物館学芸補助専門委員」として書かれています。

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最近というか少々前の事になりますが、手塚治虫の「ブラック・ジャック」の新作を生成A I で制作した、とのニュースがありましたね。
今はそう言った時代。春草の生成 A I が出来れば・・・と思ってしまいます。
私は無理ですが優秀な後輩の皆さん、チャレンジしてみませんか!

(高18回 高田)