菱田家の子は7人兄弟と言われていますが、春草・為吉・唯蔵 以外はあまり出て来ません。長男の瀬平は11歳で亡くなっているので仕方ないとして他の方は?答えは「東京の飯田を歩こう会」会長の牧内雪彦さん(高1回)が書いた

  ⇒イベント案内にありました。

2014年に東京国立近代美術館で行われた「春草展」に向けての解説です。

父・鉛治、母・くら、長兄・瀬平、次兄・為吉、姉・きわ、三男治(春草)、妹・よし、弟・唯蔵、妹・準 の9人家族。とありました。7人兄弟は、7人兄弟姉妹だったのですね^^;

仲之町の生家跡は、「菱田春草生誕地公園」となっています。2015年3月29日(日)に開園しました。

工事中の写真もご覧ください。

 ご先祖のルーツ
父の鉛治は飯田藩士でした。ではその前のご先祖様は?美博の学芸員 鈴川博さん(高19回)が書いた⇒『菱田春草先祖の才能と堀飯田藩仕官の歴史的背景』と言うレポートがありました。38ページ(59~96p)に渡って詳し~く書いてあります^^;

これによると菱田家の先祖は蒔絵師であり、代々徳川に仕える幕臣蒔絵師でした。時を経て菱田氏が堀飯田藩と関わりを持ったのは、藩主堀親賢の代から。93pに、菱田三代目善右衛門氏房は飯田城御慶間給人並六十石を命じられ、江戸から飯田城下仲ノ町侍屋敷へ移住させられた。・・・とあります。

ご先祖は蒔絵師・・・春草はその資質を受け継いだようですね!

95pに家系図があります。これによると、同窓会名簿に載っていた氏孝氏は為吉の長男でした。

 菱田唯蔵(春草の弟 4男)
前回紹介した「ものがたり 菱田春草」にも、ほんの少し登場しています。父親への手紙に
>お父さん、近いうちに上京されるそうですね。そのとき、福島の家の天井のはりにこびりついているススを、弟の唯蔵にでもとらせて、ぜひ持って来てください・・・(本の原文のまま)

福島の家と言うのは伯母の嫁ぎ先で、殿町に今もあります。江戸時代からの武家屋敷として飯田市有形文化財に指定されています。春草はこの家に子供の頃からよく遊びに行っていました。囲炉裏やかまどからの煙がススとなって天井に付いていたんですね。そのススを前から絵を描く時に使っていた様です。


以前(2014)撮った時は「春草伯母の家」等の表示があったのですが、今(下の写真)は外されています。無人となった様で、老朽化も進んでいます。
赤垣源蔵の塩山家と言うのは、ご近所ですが此処ではありません。赤垣も赤埴(あかばね)が正しい様です。


市のプレスリリースに⇒菱田春草筆《富嶽 ふ が く 》のご寄贈 と言うお知らせがあります。
富嶽は春草の弟・唯蔵の遺族からの寄贈で、春草が唯蔵の結婚祝いとして贈った作品と伝わっています。唯蔵は飯田中学を卒業後に東京大学に進学とありますが、同窓会名簿にはその名がありません。何故でしょうね?また、別の資料では『唯蔵は一高、東大を経て母校工学部の教授となっている』と紹介してありました。飯田中学から一高に転校したのでしょうか?

東大の資料で⇒内田祥三(よしかず)談話速記録 があります。

37ページ(41~77)もあるので読むのも大変ですが^^;その51pに、造船科の菱田君は人間業ではとても出来ない事をやってのけるので、モンスターというあだ名だった。娘さんがいて内田氏の教え子の奥さんになっていた事などが語られています。更に53pには、菱田君が1年からズ~っと首席だったが、自分(内田氏)が1度だけ1番になった事がある。でも卒業時にはやっぱり菱田君が首席で僕が2番だった・・・と言うエピソードが語られています。

明治40年、東京帝大工科大学卒業後は第七高等学校造士館教授となり、43年には文部省留学生として応用力学研究のためドイツ・英国・米国へ3年間派遣されています。この間の明治44年、九州帝大工科大学助教授に任命され、大正2年帰国し同大教授となり、4年には工学博士となりました。大正7年、東京帝大工科大学教授となり付属航空研究所兼務、のち米国へ出張。8年に帰国し、同年官制改正と共に東京帝大工学部教授となり航空学を担当しました。

では零戦の堀越二郎は教え子だったのか?ですが・・・堀越二郎は、大正13年 東京帝国大学工学部航空学科 入学。昭和2年 首席で卒業・・・とあるのでその可能性は大きいと言えますね。でも唯蔵は大正14年43歳の若さで亡くなっているので、子弟関係があったとしても1年程だけです。

天才春草の弟 唯蔵も、とんでもない秀才でした。菱田兄弟恐るべしです^^ご本人の写真は残念ながら見つかりませんでした。

 菱田千代(春草の奥さん)
ネットで写真は1枚だけ見付かりました。それも家族で撮った物からトリミングして拡大してあるものでした。春草も今風に言えばなかなかのイケメンですが、奥さんも美人で可愛い人ですね。美男美女のカップルと言えます^^


二人が式を挙げたのは明治37年7月でした。千代は旧萩藩士 野上家の長女として明治12年2月20日に生まれました。父が早くに亡くなったため母は実家(旧飯田藩士 石田家の江戸屋敷)に戻る様に移住。そこで育っています。なんと母親も飯田藩士の娘だったのですね。二人が結ばれたのはそんな縁あっての事でしょうか?

結婚後の住まいは谷中初音町に新築された美術院公舎でした。明治33年9月、長女を授かりますが幼くして病没。次いで明治35年1月、長男 春夫が産まれます。36年長男が一歳を迎える頃、春草は大観と共にインドへ行ってしまいます。数か月後帰ってきたものの、腰を落ち着けるまもなく翌37年には大観・天心に同行して米国へ行くのですからたまりません。千代は、3人目の子を身ごもっていた時でした。さらに米国で年越しした春草と大観は38年4月にはヨーロッパへ渡り、各地を回って帰国したのはその年の8月でした。新生児を抱え、夫の留守を甲斐甲斐しく守るしかすべの無い千代でした。

春草は欧米で稼いだ金を元手に、日暮里に家を建てました。しかしその後、天心らと共に茨城県の五浦(いずら)に移る事になるです。その時も千代は妊娠中。三男が生まれたのは8月の暑い頃でした。この頃の春草は、未だ売れっ子ではありません。千代夫人は家計のやりくりに四苦八苦していたと思われます。五浦で春草は眼病に侵され、治療のため家族で東京代々木に移住するのでした。

治療効果で目は一時回復に向かいます。春草は千代をモデルに「雨中美人」の制作に取り掛かります。春草の妹(青山準)さんの述懐によれば、「これをかく時に姉は神田の髪結に行き日本髪をきちんと結い、着物をちゃんと着ていました。 その美しい姉の姿を忘れません。 」と。一方ご本人は、座敷の中で傘をさして足駄(アシダ-高下駄)をはき、あっちを向けこっちを向け、そのまま止まれ動くな等と指示され、とうとう脳貧血を起こし倒れてしまうのでした。そこまでして取り組んだ作品でしたが、春草は着物の色が思う様に出ないと言って中断し未完となってしまいました。日の目を見なかった作品でしたが、それが見付かったという報告がありました。

⇒未完成画《雨中美人》の発見 です

また、夫人が書き残した未完の原稿「思ひ出づるまゝに」も見付かっています。美博学芸員の小島敦さん(高40回)が詳しく解説して紹介しています。⇒ ─資料紹介─ 菱田千代「思ひ出づるまゝに」 晩年の春草を知る貴重な資料です。是非ご覧ください!

春草亡き後は、生け花の先生として生計を立て3人の息子たちを育て、昭和24年10月3日に70歳で亡くなりました。

さて、次はどうしましょう?菱田家の人々に付いては未だ紹介しておきたい方もいるので・・・つづく としておきます^^;

(高18回 高田)