飯田に春草の⇒「白き猫」と言う作品があります。これは明治34年春草が飯田へ帰省した際、飯田学校同窓会を訪れ作品の制作を約束して、帰京後に描いて同窓会へ寄贈した作品です。・・・これを読んで、えっ何で我が校の同窓会へ来たのかな?春草は高等科卒業後、中学に進まず上京しています。兄為吉が飯田中学に赴任したのは明治35年だし。よくよく考えてみれば、飯田学校は現追手町小学校の事ですね^^;

春草は1874年(明治7年)9月21日、飯田市仲之町で菱田鉛治の三男として生まれました。本名は三男治、三男だからこの名前?イージーな感じがしないでもありませんが、親の一字を貰ったのは三男治だけです。前にも紹介していますが、生家跡は春草公園(正式には「菱田春草生誕地公園」)となっています。ここに誕生地の碑があります。碑はもう一ヶ所、美術博物館の庭にもあります。書体が同じと気付かれると思いますが、どちらも横山大観の書から起こされた物です。

幼い頃の春草に付いてはあまり語られていませんが「ものがたり菱田春草」には少しだけ書かれています。

一部を紹介すると・・・

為吉と三男治、従兄の錬逸(れんいつ)は、3人で大きな凧を作りました。凧の絵をかくのは三男治の役目です。錬逸がふところから取り出した武者すごろくを見ると、三男治は馬にまたがって太刀を振り上げている荒武者の絵を描きました。それは、為吉も「ほうっ!」っとため息を漏らすほど見事な出来栄えでした。

明治13年、三男治は7歳で小学飯田学校(現追手町小学校)へ入学。勉強はどの科目も良く出来たそうです。中でも絵や工作の才能は学校でも認められていました。こんなエピソードも・・・

錬逸は「三男さん、今日は御殿山へヤマガラを捕りに行こう」と誘いに来ました。「錬さん、おれ新しい鳥かごを作って待ってたんだよ」その鳥かごを見た錬逸は目を丸くして「うまいもんだな~」と感心しました。。小鳥屋で売っている物と変わらないほど上手に出来ていたのです。三男治11歳の秋でした。絵だけではなく工作も得意だったんですね~!

しばしば登場する従兄の錬逸ですが、調べてみるとなかなか大変な方でした!母くらの兄 小木曽岬治の次男として明治8年に生まれました。春草とは歳も近く、大の仲良しでした。飯田中学は出ていませんが(多分空白の7年間のせい)、高等商業学校(現・一橋大)を卒業し三菱に入社。東京の高橋家の養嗣子(ようしし・後継ぎの養子)となります。上京してからも春草とは付き合っていた様です。
大正13年には信陽舎の初代理事長となっています。余談ですが、⇒信陽舎のHPを見ると理事の欄に牧野憲治君(高18回)の名があります^^
昭和10年の第4回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝したガヴァナーの馬主は、高橋錬逸でした。
戦後は三菱商事を離れて日本女子大の理事なども勤めた人です。

三男治が高等科の頃、若き日の⇒中村不折が図画と算数を教えていました後に春草の事を「もとから質はよかったが、理屈っぽい人間で吾々を困らせることばかり言っていた。絵がうまいので絵をやれと僕は言った事があったが、法律を勉強すると言っていた。」と語っています。
そんな三男治に絵かきの道を勧めてその気にさせたのは兄の為吉でした。三男治は、高等科を卒業すると上京するのでした。その頃の飯田はバスも電車もありません。三日間歩いて高崎へ出て、其処からやっと汽車で東京へ。東京へ着くと三男治は神田にいる兄為吉の下宿に同居するのでした。

春草はしばしば外遊していますが、言葉の方はどうだったのでしょう?英語サッパリの私としては気になる処です^^;春草は飯田で英語塾に通っていました。その頃飯田に英語塾があったのは驚きですが、三男治が小学生から英語を勉強していたと言うのも驚きです。上京してからも英語の勉強は続けていた様です。故に、大観も天心も外遊の際には春草を誘ったのでは?

美術学校からの春草の事は既に数多く語られているので、此処では省略します。それを書いていくと終わらなくなってしまいます^^;
代わりに地元ならではの情報を・・・
江戸町にある正永寺の庭に、魚籃観音像があります。石碑を読むと・・・この像は春草作「魚籃観音の図」をもとに彫刻した、と記されています。


はて、春草の「魚籃観音の図」とは?その様な作品は検索しても出て来ません。画集とかの中なのでしょうか?観音様のお顔を見ると、どことなく春草描くところの女性の顔に似ている様な・・・気のせいかな?^^;

春草最後の作品となったのは「早春」です。厳密に言うと掛け軸「梅に雀」の図が小品としての絶筆であり、知人に贈った菊の扇が明治44年8月の作で、これこそが絶筆という説もありますが、いずれにせよ「早春」は最後の大作と言えます。そう「早春」は、絹地の金屏風六曲一双に描かれた大作なのです。個人蔵との事なので、ネットでもあまり見る事がありません。

「早春」完成後、春草の目は益々悪化が進み新聞も読めなくなりました。無理がたたった様です。体の方も腎臓病で弱って寝たきり状態の生活でした。昼間はまだ子供達の声や外の騒音などで気を紛らわす事も出来たのですが、夜は何も聞こえません。この頃の住まいは代々木村。今と違って雑木林や小高い丘もある静かな所でした。「落葉」も「早春」も、この辺りの風景を描いたものだそうです。(私は風越山の麓かと思っていましたが^^;)夜は、ポツンと一軒家の如く静かだったのです。

音もしない闇の中では気を紛らわす事が出来ません。色々考えてしまい眠れません。眠れない夜が続くと、春草は奥さんに新聞を何度も読んでもらったそうです。
雨の夜は軒のしずくがぽつりぽつりと聞こえ、心を慰めてくれました。春草は、ふと人造雨だれを思いつきました。筆を洗う缶に小さな穴を開け水を入れて天井から吊るし、下に金だらいを置くのです。当然自分では出来ないので、奥さんにやってもらいました。缶の小穴に綿を詰める等の調整をすると、良い感じの雨だれになりました。そこまでして心の辛さを我慢している春草を思うと、夫人の目には涙がにじむのでした。

それでもまだ治る事を信じていた春草は家を建て、6月に借家から新居に移りました。しかし病状は悪くなるばかり。誕生日目前の9月16日、とうとう帰らぬ人となってしまいました。

春草は若くして亡くなりました。当然ですがプロフの写真はお若い。明治時代の文化人の写真を見ると爺さんが多いですね^^;


若くてイケメンの春草、春草さま萌え~💛と言う女性も少なくない様です。こう言った方達は聖地巡礼で飯田を訪れ、ブログにアップしたりします。⇒こんな方⇒あんな方も・・・居るんですね~^^

更に春草人気はこんな形でも⇒明治東亰恋伽! ゲーム~アニメ、ミュージカル、更にドラマ化、映画化とまぁ数年前から大変な事になっています^^ ストーリーですが、女子高生 綾月芽衣(あやづきめい)は明治時代の東京へタイムスリップ。そこで歴史上の著名人たちと出会い恋に落ちる。春草も⇒イケメン画学生として登場しています^^信州長野から上京とありますが、信州飯田から・・・として欲しかったですね~^^;

ところで春草終焉の地は今どうなっているのでしょうか? GoogleMap で検索してみると・・・ちゃんと碑が立っていました。

金網の向こうは?

代々木山谷小学校のグランドとなっています。

ではお墓は? 飯田市拍心寺の墓地にあります。墓石には「春草菱田三男治墓」と刻まれています。近くに訪れる事がありましたら、お墓参りをどうぞ!案内板に寄れば、東京中野の大信寺にも分骨してあるとの事。後年 菱田家の墓は東京に移されましたが、この墓だけは此処に留めたとの事です。

その大信寺ですが、今は別の所に移り墓地だけになっているそうです。

菱田為吉から始まった春草シリーズですが、今回で終了です^^これを書くにあたって参考にした「ものがたり菱田春草」ですが、下伊那教育会の先生方数名が共同で作られた物です。その中に私の恩師、小島恵蔵先生(故)の名がありました。もしかしたら皆さんの恩師も参加されているかもしれませんね。参考までにその名を記しておきましょう。

藤松千年男、塩沢正敏、宮下和夫、松島功、吉川喜三郎、中沢美治、林明、笹岡真次、村松睦三、長田清吉、松沢忠人、小島恵蔵、林和緒、

再版に参加、松沢平八、井浦汪、尾賀隆雄、玉木陽一郎、田中秀夫、吉川誠、伊波文三、飯田泰之・・・(敬称略)

そうそうこの本ですが、先日美術博物館へ行ってみたらそこでも販売していました・・・1,200円です^^;

さて次ですが・・・日夏耿之介に取り組んでみます。今のところ知っているのは、飯田市名誉市民第1号 と言う事だけですが^^;

(高18回 高田)