先日、東京理科大の近代科学資料館へ行ってきました。わざわざこの為に?いえいえ、たまたま東京に用事が出来たので、そのついでです^^;飯田橋駅から徒歩5~6分でしょうか?電車からも見えるし、それ程遠くはありません。この駅、初めて降りましたよ^^;

見学は無料ですが、受付があります。館内は一応撮影禁止でしたが、申し込み書に記入すればOKとの事。撮影許可証のプレートを渡され、ブログへのアップも許可して頂けました。目的は菱田為吉の多面体模型です。2Fには箱に入った寄贈品が展示されていました。

部屋に入ると、壁の一面が為吉のコーナーになっていました。多面体模型はガラスケースに入っています。横に説明のパネルがあります。

これだけではその凄さが分かりませんね^^;数点アップで撮って来たので、ご覧ください。

最下段には製作過程が分かる様に、段階的な物が並んでいます。これを使って、「まずこういう形に削って、次にこうする」等と講義していたんでしょうね。

多面体の説明パネルに、為吉の経歴が少し書かれていました。ここから前回の時は分からなかったことも明らかになりました。


東京物理学校の講師となったのは、飯田中学退職後だったんですね~。多面体の製作も長期に渡ってのライフワークでした。本人はこれらの正多面体を、整正多面体と名付けています。昭和11年の退職時に東京物理学校へ寄贈されました。

高齢になってからの写真と、多面体制作時の写真もありました。椅子に座って机の上で・・・と想像していたのですが、床に座っての作業とは!ちょっと意外でした。


卒業証書もありました。為吉の名前の前に、長野縣士族とあります。


何故か中学の卒業証書も^^;長野縣中学校となっています。普通は個人に渡される物が、なぜ学校に?それだけ特別の人だった、と言う事ですね!

(これらの証書ですが、後日 近代科学資料館が所蔵している物はコピーとの説明を頂きました。説明文で〔本館蔵〕とありますが、本館とは理科大近代科学資料館ではなく飯田美術博物館の事と分かりました。

同窓会名簿では、為吉は明治17年下伊那中学校卒業となっていますが、こちらは明治19年長野縣中学校の卒業証書です。そこで『ものがたり菱田春草』を見直してみると「三男治は中等科を明治19年9月に卒業、続いて高等科に進む。翌年3月兄為吉は東京物理学校へ入学」とありました。

どうやら為吉は、下伊那中学終了後  校名の変わった長野県中学校飯田支校へ進み 明治19年に卒業。翌明治20年に東京物理学校へ入学したと思われます。と言う事は、東京物理学校は1年半で卒業した訳ですね。 また、この頃の小中学校は一級終了ごとに卒業証書を出していた様です。それで為吉の卒業証書が18枚あるのだと思います。)

 


更に、宮内省からの任命書も!明治28年に皇太子(後の大正天皇)の教育係となった訳ですね。更に、この時は学習院の助教授だったと分かりました。


弟たちの紹介もあり、弟家族の写真もありました。唯蔵の顔が分かります!イケメンの秀才と顔に書いてある様な^^中央は千代夫人なのかな?左端は唯蔵の奥さん?春草、唯蔵以外の説明はないので、皆さんも推測してみてください^^;

此処には為吉の他菱田兄弟の貴重な資料もあり、思い掛けない収穫でした。

(その後分かった事ですが、これ等の為吉の卒業証書や兄弟家族の写真が載っていた本は、飯田美術博物館発行の⇒日本の近代化に臨んだ人びと―田中芳男と南信州の偉人たちーでした。と言う事で、改めて飯田美術博物館より掲載の許可を頂きました。)

他にはどんな物がるのかも紹介しておきましょう。

計算機の歴史も分かります。ハンドルを回す物とか、使った事ありますか?^^

オーディオの歴史も!こんなの実物見た事ありますか?^^

世界最初の乾電池。これを作った屋井先蔵は此処の卒業生ではなく、付属職工との事。学者の皆さんと相談したりして作り上げたと言うから、産学共同開発の先駆けですね。でも特許は取りそこなった様で、乾電池の発明者は暫くの間 別の人の名になっていました。

ノーベル賞の大村先生は此処の卒業生でした。そのパネルも!

夏目漱石は帝大英文科卒ですが、小説の坊ちゃんは此処の卒業生と言う設定だったんですね~。

と言う事で、見所満載の科学資料館でした^^ う~ん、高校時代に此処を知っていたら・・・と思ってしまいました。お前じゃ無理~と突っ込みが入りそうですが^^;

(高18回 高田)