ガダルカナル島
ラバウルの第17軍司令部の二見参謀長は、ガダルカナルの敵情を大本営が言うようには楽観視していなかった。一木支隊だけではなく、空母・戦艦・他の歩兵師団とも連携し態勢を整えて事に臨むべきと考えた。百武司令官も同意見だった。しかし大本営は、敵が態勢を整え飛行場を使い始める前に一刻も早く一木支隊を派遣せよ、と指示してきた。更に海軍が輸送艦艇の配備を渋ったため十分な輸送体制が取れず、支隊を2班に分けなければならなかった。二見参謀長は一木支隊の派遣を決めたが、その目的を敵情偵察に限定した。その報告を受けた大本営は怒り心頭「速やかにガダルカナルを奪還せよ」 やむなく百武司令官は一木支隊に出撃命令を下すしかなかった。

8/16早朝、一木支隊長率いる第1梯団はトラック島から出航した。第2梯団は4日後の予定だった。
8/18午後11時頃、一木支隊第1梯団916名はガダルカナルのタイポ岬に上陸した。目標の飛行場までは約35㎞だった。支隊は隊形を整え夜間の砂浜を前進した。川を渡り暫く行軍を続けると開けたテテレという砂浜に出た。そこで一旦休憩をとり、明け方将校斥候軍38名を送り出した。「前進経路の地形、敵の位置・数など何も分かっていない。しっかり情報を上げてくれ」しかし午後になっても何の連絡も来ない。2時過ぎになってようやく息も絶え絶えに伝令が戻ってきた。「将校斥候軍は全滅しました」それは予想だにしない報告だった。この先無人のコリ部落を出た所で兵に遭遇。味方かと思って合言葉を掛けると、銃弾が飛んできた。猛烈な勢いで撃たれ殆んどの者が戦死したと言う。支隊長は言葉を失った。

まず何をすべきか?生存者がいるかもしれない。一人でも多くの将兵を助けなければ・・・支隊長は、救護班と一個中隊をコリ部落へ向かわせた。救護班は午後8時過ぎ部落に到着。ジャングルに隠れていた仲間の兵を一人見つけた。他は皆やられた様だとの事。捜索したが、結局他に生存者はいなかった。

支隊本体は、午後4時に隊形を整えテテレを出発。コリ部落の少し手前で斥候軍の一人を見つけた。部落到着は午後10時ころだった。先発の救護班も合流した。遺体処理のための一個小隊を残し、本体は前進する事にした。処理班は全ての遺体を埋葬し、ヤシの木を削り墓標とした。作業を終えると本体の後を追った。
8/20、午前2時半ころ支隊はジャングルを抜け広場に出た。目安として目指していたレンゴだった。支隊長は大休止を伝えた。
この状況を司令部に伝えなくては。しかし通信は不通だった。第17軍司令部のラバウルとガダルカナルとは1,000㎞ほど離れていて無線が届かない。島の沖合に海軍の潜水艦を配備、中継する事になっていた。後で分かった事だが、この潜水艦が海軍の作戦指令を受け、陸軍に無断で別の海域に移動していたのだ。支隊長は司令部の指示も受けられないまま、今後の作戦を決めなければならなかった。出した結論は、このまま前進し攻撃続行、「行軍即捜索即戦闘」だった。

8/20、午前10時、支隊長は各部隊長を集め攻撃計画を伝えた。出発は18時、最後の川を渡ったら一気にルンガ飛行場に夜間攻撃。今日は持っている食料を全部食べてよし。飛行場を占領すれば倉庫の食料を好きなだけ食べられる。
午後6時、予定通り行軍を開始。海岸線に沿ってジャングルを前進した。必死の思いで大きな川を渡り切ったのは、午後10時半ころだった。

突然照明弾が光った。辺りが明るくなるとあちこちから一斉射撃の弾が飛んできた。もう反撃どころではなかった。次々と銃弾に倒れていく。更に照明弾の明かりで前方に沼があると分かった。実際は沼ではなく広い川だった。先程渡ったのは最後の川ではなかったのだ。支隊長は海側に砂州があるのを見つけ、そこを進むよう指示した。しかし集中射撃を浴び多くの兵が倒れていった。それでも何人かは砂州を渡り切った。しかしその先には鉄条網が張り巡らされていて、そこでも銃弾を浴びてしまった。突撃は何度か繰り返されたが結果は同じ、鉄条網を突破できた者はいなかった。

遅れて機関銃中隊と大砲小隊が合流した。遅れるのも無理はない。あの重い兵器を分解し人力だけで運んでいたのだ。先に着いた大砲が火を噴いた。続いて機関銃中隊の重機関銃も対岸の火点に向かって射撃を開始した。一旦は敵の勢いが衰えたかに見えたがそれもつかの間、敵の集中砲火を浴び機関銃手が戦死。交代するも同じ事、終いには撃ち手がいなくなってしまった。大砲も同じだった。撃つ度に敵弾が集中。一発撃つと何十発も撃ち返された。最後には砲弾の直撃を受け、飛び散ってしまった。

一木支隊全滅
支隊全力で行った突撃も、事態を好転させる事は出来なかった。支隊長は、これ以上の突撃は戦死者を増やすだけと考え、攻撃中止命令を出した。一旦タイボ岬に戻り第2梯団を待て、との指示も出した。しかし今度は戦車が現れた。海軍が見落とした輸送船から数台の軽戦車が陸揚げされていたのだ。退路も断たれた一木支隊はほぼ全滅。支隊長も戦死した。後の記録では、戦死者は777名となっている。タイボ岬には、奇跡的に戻る事が出来た十数名の戦傷者と最初から留守を守っていた者など、80名ほどが終結した。岬にあった漁師小屋に立てこもり、簡易的な陣形で守りを固め第2梯団の到着を待った。

8/21午後10時半ころ、ラバウルの第17軍司令部に「一木支隊全滅」の電文が届いた。しかし、そんな馬鹿な・・・これは敵の揺動工作だ、とされた。8/25、生き残った中尉から、一木支隊長の戦死とタイボ岬に生存者が集結している旨の知らせが第2梯団に届いた。この事でやっと一木支隊の惨敗が事実だと確認された。それは直ぐに第17軍司令部から大本営陸軍部に伝えられた。作戦の失敗は現地部隊の責任にする、というのが大本営の常だった。大多数の参謀は、作戦に過ちはなく失敗は現地部隊の精神力が足らなかったからだ、と決めつけた。服部課長と田中部長は、今回の作戦が失敗したのは一木支隊長の責任とし、支隊長はその責任をとって軍旗奉焼を命じたのち自決したとの筋書きを決めた。支隊は全滅している、証拠は何もない。戦闘詳報も第2梯団にこちらの言う通り書かせればよい、とされた。それはそのまま公式記録とされ、「一木支隊長はガダルカナルの作戦を駄目にした張本人」とされてしまった。・・・(つづく)

(高18回 高田)