勝ち目なき戦い

開戦以来快進撃を続けてきた日本軍。一木支隊の全滅は、帝国陸軍の不敗伝説が米軍の前に頓挫した事を示すものだった。大本営は、無謀な作戦の反省もしないまま次の兵を送る事を決めた。指名されたのは川口支隊。一木支隊の第二梯団と生存兵もこれに加わり6000人ほど。隊の戦法は、一木支隊と同じで陸軍伝統の夜襲だった。攻撃目標を飛行場とし、山に登り飛行場を上から攻撃する隊をメインに3方向から同時に夜襲攻撃する作戦だった。しかし人跡未踏のジャングルの山道は思うように進めず。攻撃態勢に入るのが予定より大幅に遅れた。他の部隊との連絡も出来ぬままバラバラに攻撃する事になり、米軍に返り討ちにされてしまう。海軍の駆逐艦7隻も加わり飛行場を攻撃したが、思うような成果は得られず。戦死者700名を数え後方撤退をやむなくされた。

ここに来て大本営は初めて本格的準備によるガ島奪還と戦局好転を図る事となった。二見参謀長は前々から「二個師団以上の兵力、重火器の準備、弾薬の補給、航空機の参加が必要」と主張していたが、作戦に消極的とされ罷免された。正論が否定されていた。
次に送られる事になったのは仙台第二師団。この頃になるとガ島周辺は制空権も制海権も殆ど米軍の手にあったが、10/13、第二師団は奇跡的に上陸に成功した。其処へ川口師団も合流。兵力は15,000人ほどだった。今度は長距離砲などの攻撃で滑走路の一部を破壊。海軍も戦艦、巡洋艦、駆逐艦を出し艦砲射撃を行い、飛行場の一部とガソリンタンクなどを炎上させたが、米軍はすでに第2滑走路を完成させていてさしたるダメージとはならなかった。10/24~25、第二師団も前回の川口支隊と同じコースで夜襲を試みたが、米軍の守りも強化されていてまたしても惨敗。戦死者は3,000人を超え、師団長は10/26早朝、攻撃中止命令を出す他なかった。

続行か撤退か

ガ島周辺のソロモン海域も、日米数度の衝突により制空権も制海権もほぼ米軍の物となっていた。米第一海兵師団も任務終了となり、バッチ陸軍少将率いる陸軍部隊が後を引き継いだ。バッチ師団長は持久戦で行く作戦をとった。実際島に残った日本兵は、補給が途絶え飢餓と病気との戦いになるのだった。米軍は飛行場を一望できるオースチン山を占拠。実質的な戦闘は終了した。

大本営では、奪回方針が堅持されていたものの、もう無理だという考えが浸透しつつあった。しかしここでも陸海軍双方の意地の張り合いが続いた。どちらも撤退という弱気な姿勢を見せたくなかった。結論が出せないまま無駄な時間が過ぎていく。この間も島に残った兵士は飢えと戦っていた。ガ島はいつしか餓島となっていった。
最終的には12/31、昭和天皇の元で大本営御前会議が行われ、ガダルカナル島からの撤退が正式決定となった。「陸海軍は共同してこの方針により最善を尽くすように」

ガ島からの撤退は、2/1、4、7の三次に分け毎回駆逐艦20隻で実施され、一万余名の撤退に成功した。しかしこの時、自力で歩けない者は置き去りにされた。ガダルカナルの戦いは、戦死、14,800人以上、戦病死約9,000人という大きな犠牲を払って終了した。大本営はこれを撤退とは言わず「転進」と発表している。
ところでこの撤退に米軍は全く気付かなかったのだろうか?それとも去る者は追わずだったのか?

誰が一木支隊を全滅させたのか

これがこの本のタイトルです。この本によって分かるのは、全滅は一木支隊長の責任ではないという事。では誰が?となると其処はあいまいな気がします。ガ島の米軍は1万人以上居たにもかかわらず、2千人程度とみた大本営の無知、無策、無謀な作戦の結果、と言えるのだが、誰とまでは書かれていない。東条英機か?戦争全体を見ればそうかもしれないが、ガダルカナルは?というとまた別な気がします。本書で辻参謀に触れている部分が気になった。「大本営の作戦失敗を覆い隠すため、現地部隊の失陥をあげつらい、その責任を擦り付けた張本人と目される人物」とだけ書かれています。これだけではよく分からないので、調べてみました。

辻正信 参謀(陸軍大佐)

ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた
その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある
神様というのは、「マレー作戦で辻は新聞記者相手の広報も担当し、記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「軍の神様」と謳った」との事で、作戦の内容が評価された訳ではないようだ。

ガダルカナルでは大本営で参謀として作戦を立てたが、米軍には「世界を知らない場当たり的な作戦」と評された。日本陸軍の戦法は日露戦争時代から同じで、銃剣突撃の白兵戦が主流だった。これが西部劇で銃器が進化している米軍に通用する筈がない。夜襲という奇襲作戦も、米軍はジャングルにマイクを設置していて奇襲にはならなかった。一木支隊で失敗した経験が教訓とされる事なく、最後まで同じ過ちを繰り返した。
南方へ行く兵士には「これだけ読めば戦は勝てる」という冊子が配布された。主に辻が書いたものだ。そこには「敵は中国兵よりも弱虫。武器はあっても兵はへなちょこだから役には立たない」等と米軍を侮る言葉が並んでいた。
辻は仙台第2師団の攻撃の際 ガ島に上陸し指揮を執ったが、マラリアに罹り途中撤退している。マラリアになって現場を離れた兵はいない。大本営に戻った辻は、最後までガ島撤退に反対していた。しかし「大丈夫、まだやれる」というだけで具体的な策を示す事はなかった。

戦後、当然戦犯とされたが、地下に潜伏。海外へも逃亡した。CIAは辻を「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」と酷評している。
昭和25年に辻は戦犯指定から逃れ、作家として世に出てくる。逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表し、それがなんと同年度のベストセラーとなったのだ。これで財と知名度を得て、昭和27年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。国会議員になったのだ。ある記者は、議員となった辻を取材した際「目の前に絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた」と感想を記している。

昭和36年、議員の辻は4月4日に公用旅券で日本を出発し、そのまま帰国する事はなかった。ラオスで捕らわれスパイ容疑で処刑されたという説もある。
昭和54年に、出身地である加賀市山中温泉に辻の銅像が建立されている。

NHKの番組

山田治和さん(高18回)より、「一木支隊の行動については、昨年、NHKで放映したように思う。巷説、一木の無謀な指揮による悲劇ということになっているが、実際は全く異なることという見解であった。弁解のできない立場であるから、このように後輩が偲んであげることは、すばらしい、はなむけになると思います。」とのメールをいただきました。検索でそれと思える動画を見つけたので紹介します。著者の関口高史氏も出演しています。

長々と書いてしまいましたが、今回でやっと終わりです^^ 私はガダルカナルと言えば、「日本軍が大敗した悲劇の島」という程度の認識で、詳細は知らずにいました。本校の先輩がこのように関わっていた事も今回初めて知りました。皆さんは如何ですか?

(高18回 高田)