浪合の蛇峠山の山麓のコスモスと阿南町深見の池の秋
暑い日が続いた南信州でも九月の声を聞き、涼しい風が流れるようになった。浪合の蛇峠山の麓の治部坂スキー場のゲレンデでは、今年もお盆前から、100万本といわれるコスモス畑が咲いている(写真右:何本かの通信中継用アンテナの立つ蛇峠山とコスモス畑。今年行ってみると有料(300円)になっていた)。
この蛇峠山の名前については、地元に、ずいぶん離れている阿南町の深見の池と関係する伝説が残されているので、興味を持って池を訪ねてみた(写真左は深見の池:周り山々を映し、近くの水田はもう色づいてきていた)。
蛇峠山の東側を流れる和知野川の上流は浪合川というが、その辺りは(現在のアララギ高原ゴルフ場への入口)恩田という地名になっている。むかし、恩田に住むお爺さんが、傷ついた蛇を助けたところ、娘の姿をして現れ、お爺さんに礼をした。この蛇が神の使いとして村人を助けるために山に登り、日照りで困っていた村人を雨を降らせて助けた・・・。その後、役目を終えた蛇は山から下り、浪合川を下って深見の池(現在の阿南町・阿南役場近く)へ行ったそうだが、それ以来この池はたいそう広く、きれいで水の豊かな池になったとか・・・。
この話は、浪合では浪合小学校3年の“お話をよむ”時間に資料が配布されたようだが、阿南町側に伝えられるお話(下記ページ)とは多少異なっている。
http://www.town.anan.nagano.jp/kankouguide/hukamiike.html/
いずれにせよ、恩田から蛇峠山までは直線距離でも十キロ弱、蛇峠山から深見の池まで谷を渡り、山を越え同じく十数キロ。人の行き来する道もなかったと思われるのに・・・。深見の池は水深8メートル位で特徴のある池らしく名古屋の大学の学生などが池を調査している。
(原 健彦)
就職戦線いまむかし
大阪の大学に通っている長男の就職が内定しました。うれしい事に、飯田市へのUターンです。
私が就職したのが1983(昭和58)年ですから、25年前と今とでは状況もかなり変わっており、単純に比較は出来ませんが、当時は求人票の公開が9月10日と決まっていました。
そして、会社訪問が解禁となるのが10月1日、採用試験が11月1日からというのが、当時の決まりでした。
もちろん、「青田刈り」は当たり前の様に行われていましたが、その年の就職戦線は特に厳しく、求人票が公開された当日は、文字通り土砂降りの雨だったと記憶しています。
最近では、民間企業を目指す大学生の殆どが夏休み前に内定の通知をもらっていると言っても過言ではないようです。
私は東京の企業に8年間勤務した後、家庭の事情で田舎に帰ってきましたが、今回の長男の就職活動を見ていて、いずれ帰る事が決まっているなら、最初から飯田市での就職を考えた方がいいなと今更ながら痛感しました。
(写真は9月3日に撮影。松尾明地区の田んぼ。)
(高橋 秀治)
「秋茄子は嫁に食わすな」と昔から諺に伝えられ、この時期の茄子が最も美味しいと云うことである。その「茄子」の話題が、このところ地元の新聞等で取り上げられ、一寸したブームである。
これは、「鈴が沢なす」といって、あの”念仏踊り”で知られる阿南町和合の鈴が沢地域だけに昔から栽培されて来た野菜で、長野県の「信州の伝統野菜」にも認定されているものという。
この茄子、大きさが20~25センチにもなるという大型の茄子で、二、三本もあれば幾ら大家族といってもその食卓を飾るには十分と思われる様なジャンボ茄子。これほど大きければ味の方は・・と思いがちであるが、これが、水分を多く含み甘みが強いのが特徴だそうだ。
この伝統の食材を売り出して地域活性化に繋げたいとして、遊休農地を活用した栽培が始まったり、茄子を図案化したキャラクターを考案してPRに努めたり、または、県飯田合同庁舎の食堂では限定の茄子ずくしの弁当も発売されたとのこと。この伝統野菜を、地域内外に本格的に売り出そうと様々な活動が進められている。
飯田下伊那に古くから伝わる伝統野菜、伝統の食材に光が当てられて、高齢化・過疎化する一方の山里に少しでも活気を取り戻すことが出来たら、またそうした食材が食卓に上って家族の会話と共に味わって貰えればと期待されるところである。
写真は、この地で昔から栽培されて来た西川さんを訪ねて撮影させていただいたもの。今が一番の食べ頃とのお話しであった。
(槙原 英勝)
阿智村に満蒙開拓平和記念館
飯田日中友好協会(河原進会長・高16回生)は、町村会会議席上で、満蒙開拓平和記念館の建設地を「阿智村に内定した」と発表した。駒場の長岳寺近くに、2・3年内完成予定。
長岳寺と言えば、武田信玄終焉の地、NHK大河ドラマ以来、訪れる人が多いと聞く。この街道、あちこちに、信玄ゆかりの地がありますが、四百年祭に火葬塚より、灰を移し、供養塔にした十三重の塔も有名である。
この寺の故山本慈昭住職 昭和20年5月最後の開拓団の教員として赴きましたが、戦後の混乱の中、シベリヤに抑留された妻子を残し帰国した。「中国残留孤児の父」として親しまれていますが、当初 自費で生存を信じて ただ1人妻子を探し始めた。だんだんと、同じ思い・感銘を受けた人々が集い、「日中友好手をつなぐ会」が結成された。この会が、日本・中国の国を動かし、残留孤児の身元確認を行ったのは、記憶に新しい。
戦前、それほど裕福でない伊那谷に、「山間地でない、広大な土地を」をキャッチフレーズに、日本で最多の人数を送り込んだ満州、戦争と言う悲劇をはさんで、残留された人々の苦労は、想像を超えるものでしょう。下伊那地域各地に、満州開拓団慰霊碑が、数多く残されている。
この寺には、山門脇に、真っ赤な鐘楼が在り、中に「望郷の鐘」があります。故山本住職はこの鐘を撞きながら、遠く中国に願いを、送った事でしょう。鐘の音が響くこの地に、記念館が出来る事は、すばらしい。
飯田日中友好協会では、寄付を募るとともに、旧満州・満蒙開拓に係るすべての資料提供を呼びかけている。
事務局・信州不動産鑑定内 電話0265-24-6186寺沢秀文事務局長まで。
(写真は、長岳寺望郷の鐘の鐘楼と地元新聞)
(斎藤 純)