いまどきの結婚披露宴

 齢(よわい)も50に近くなると、礼服を着る際のネクタイの色と言えば黒が多い今日このごろ。
 そんな中、4月と5月に結婚披露宴に招かれました。披露宴の主役は、両方とも私が入っている組合(隣組)のお宅の方でした。
 披露宴の会場は違いましたが、入場の際に入り口で好きな飲み物を取って席に着くまでは同じです。新郎新婦の入場を待つ間にちょっと一杯やる事が出来ます。
 私が結婚した1980年代は、ご仲人(ちゅうにん)が新郎新婦と共に入場し、二人の紹介を兼ねた挨拶をするのが当たり前でしたが、ご存知のとおり、いつの頃からか新郎新婦が入場すると、披露宴の司会者が二人の紹介をするようになっています。
 その後、新郎側と新婦側の来賓の方がひとりずつ祝辞を述べ、すぐに乾杯となります。乾杯の前に何人もが祝辞を述べた昔とは、えらい違いです。
 乾杯の後は主役そっちのけでひたすら飲み食いに徹する私ですので、ここから順序があやしくなりますが、「夫婦になって最初の共同作業」という事で、ウエディング・ケーキの入刀があります。ケーキをカットした後は新郎新婦が互いに相手の口にケーキを入れるというのも恒例です。
 余興のトップは、私達組合のメンバーです。ちなみに、私達の組合で招待されるのは男性だけです。以前は「祝い船」を曲に合わせて踊っていましたが、足腰に痛みを抱える人や心臓に持病のある人が出てきたため、この4月から「ああ人生に涙あり」をカラオケで歌うようになりました。この曲名にピンと来ない方でも、「水戸黄門」の主題歌と聞けばおわかりになるでしょう。私達が歌っている間、肝心の主役はお色直しのために中座していました。
 最近は、キャンドル・サービスも流行りではないようです。4月の披露宴は忘れましたが、5月のそれは各テーブルの上に浮かんだ風船を二人で割り、中からハート型の風船が飛び出すという趣向でした。
 その後新婦がご両親への感謝の気持ちを込めた手紙を読み、組合の組長の音頭で万歳を三唱して目出度くお開きになるのは、以前と同様です。
 最近では披露宴の後の二次会は当たり前になっており、司会者がお開きの前にその案内をしていました。
 次回に礼服を着る際も、白い色のネクタイだといいと思います。

(高橋 秀治)


 

飯田にまた新たな名所
 全国京都会議、小京都定款が出来たのは昭和60年。飯田は以前より小京都でしょう。
 飯田は町並みでなく、お寺と、お菓子で、小京都として認められている。
 そのお菓子の歴史は古く、鎌倉時代末期 京都の清拙正澄が開善寺を開山した時から始まる。山間地が多く生糸産業が盛んな地区で、共に根が強いお茶が栽培された事が、飯田のお茶好きと、お菓子産業が盛んになったと見られる。
 特に明治・大正「養蚕王国」時代には、雇い人のお茶時にふるまう、煎餅、かりんとうの駄菓子の一斗缶が各家に常備されていた。 明治末期 下伊那菓子商組合、昭和23年 飯田下伊那菓子組合が設立され、安価で美味しい半生菓子は、コンビニや各観光地等に広がり、今では全国の40%のシェアを占めている。飯田藩主ご用達の老舗もあり、四季折々の果物を題材にした菓子等が各お店で考案され目玉商品になっている。
 飯田の名所といえば りんご並木、先ごろ、このお菓子を一堂に集め、お茶も飲めるお店と食事処が通り町角にお目見えした。(写真左)また地区をあげて「香りの街」の一部が完成した。(写真右)
 この構想、地域の手で通り町1~4丁目分離帯に生ごみ処理を肥料にラベンダーを植えようと言うもの、追手町小の生徒や自治会・市役所職員等の手で自分名前入りのプレートと一緒に4丁目に植樹し香りを放っている。あと3~1丁目と全600mがラベンダーの香りで一杯に成るのも近い。新たな観光名所が出来てきた。りんご並木・桜並木・食事処・お菓子処・人形の街・香りの街へと丘の上は懸命である。

 

(斎藤 純)

続々・リニア新幹線

 2万7千余名の飯田高校同窓生の大半が、故郷の将来を託すこの「リニア新幹線」問題に大きな関心を寄せていただいているであろうと(殆ど小生の思い込みかも知れないが・・・)、またまた今月もこの話題を採り上げさせていただく。
 2025年に東京と名古屋をリニアモーターカーで結ぶ「リニア中央新幹線構想」であるが、この5月29日にはJR東海が、松本市で県内5地区の建設促進期成同盟会を対象に説明会を開いたという。勿論、飯田下伊那地方からも「飯伊期成同盟会」の幹部の皆さんが出席されたところだが、飯田下伊那地域以外に他の4地区にそれぞれ同じような同盟会があったとは・・・。
 元よりこのプロジェクトに関する他地区同盟会の存在も聞いてはいたし、また従来Bルートで県内纏まって運動して来たことも理解するところだが、何となく、我がふるさとを除いて他地域では関心も薄く運動も進んでいないように感じていたところ、一昨年12月、事業主体であるJR東海から、Cルート(赤石をトンネルで抜けて、山梨から飯田下伊那へ直線で結ぶルート)が技術的にも採算面も最も現実的と発表されるや否や、何やら、県や他地域の動きが俄に“もぞもぞ”して来た様に思う。
 情報を共有して、今一度A、B、C3ルートの何れが望ましいか議論をしたいということの様であり、説明会に参加した関係者からは、「正に、これからだ・・・」との声もあった(新聞報道)とのこと。
 Bルート(諏訪回り、上伊那経由)を主張する地域の願いも解らなくもないが、そろそろ現実的な判断に立って、このビックプロジェクトを大きく前進させて貰いたいと願うところだ。
 右の画像は、この説明会の様子を伝える5月31日付けの「南信州新聞」に掲載された“リニア中央新幹線想定ルート”。

(槙原 英勝)