「満蒙開拓平和祈念館」の建設計画と「満蒙開拓史展」
 1932年の日本政府による満州国の建国に伴い、政府は、国家政策として全国から満州移民を集い、敗戦までに27万人近くの国民を満州国へ「満蒙開拓団」として送り出した。その結果、最終的に中日双方に多くの犠牲者を出した。この悲惨な記録を残すために社団法人「満蒙開拓平和記念館事業準備会」を発足させ、「満蒙開拓平和祈念館」を建設する計画が進んでいる。しかし、建設基金がなかなか集まらず準備会では苦慮している。
 この事業を推し進め資金募集の一助とするために、この準備会が主催し(共催阿智村、飯田日中友好協会、日中友好手をつなぐ会)8月21日から29日の間、満蒙開拓史展が阿智村中央公民館で開かれた。その内容は、展示と“語り部”の皆さんの体験談の話し、満蒙開拓の歴史から見える国、地方の関係に関するリレー講義であった。
 写真上左は「満蒙開拓平和記念館建設主旨」のチラシ、上中央は歴史展のパンフレット、上右は語り部のプログラム、写真下左は、満蒙開拓歴史展の開かれた中央公民館と右は展示会場の情況。
 長野県の、特に飯伊地方は、全国的に見ても満蒙開拓団に参加した人々が多い。その理由として、貧しい農家がおおく、その次男以下の子供たちなどが満州に渡ったといわれてきた。しかし、今回のリレー講義の中で、東北地方の、もっと、あるいは同じように貧しかった地方でも、長野県のようには、多くの開拓団員を送り出していなかったところもあると指摘された。その理由は、長野県の町村長や、教育関係者(校長・教師など)が、国家に協力し、若者たちなどを積極的に満蒙へ送り出すこと勤めていたためであると説明された。戦後、そのことを悔やみ、命を縮めた村長さんもいたとの話もあった。
 いずれにせよ、情報の全てを完全に政府が管理していた当時は、個人の正常な判断はほとんど無理であったであろう。現在は私たちはいろいろな形で、国内はもちろん国際的な情報を集めることができる。が、国家の指示であっても、自らの理性で考え、判断し、更に個々の行動を決定する勇気を持てるかどうか???いろいろと考えさせられる夏であった。

 

(原 健彦)

南信州の山城

 南信州には中世に築かれた170を超える城や館跡があるという。この南信州の山城は、主に(1)段丘縁辺部に立地するもの、(2)残丘状の微高地や尾根・丘陵の末端に立地するもの、(3)独立した山塊に立地するもの、(4)山の頂部や尾根の平坦部に位置するもの、に区分されるのだそうだ。そして、中でもこの地方の特徴は、天竜川沿いに展開する急峻な段丘とこれを深く開析する支流群の地形を巧みに利用した(1)の平山城である、とのこと。
 これは、つい最近、飯田市美術博物館・飯田市上郷考古博物館により刊行された「南信州山城マップ–南信州の山城–」に解説されているところである。
 このマップ、170もの城や館跡の中から代表的なものを35選定し、それぞれ写真入りで説明がつけられ、その場所が案内図で表わされている。四国の香川県に匹敵するという広大な飯田・下伊那全域に亘って紹介されるこの35城の全てを訪ねるには、多分相当な時間が必要かと思われるが、恥ずかしいことにその存在さえ聞いたことのない城も幾つもあるところで、是非、機会を得て訪ね歩いて見たいものと思う。
因みに、35城は次のとおり。
・大草城址(中川村大草)・大河原城址(大鹿村上蔵)・船山城址(中川村南田島)・名子城址(松川町堤原城山)
・大島城址(松川町古町南部)・山吹城址(高森町山吹丸山)・城山城址(高森町吉田)・松岡城址(高森町下市田新井)
・上野北本城城址(座光寺城)・上野南本城城址(座光寺城)・飯沼城址(上郷飯沼)・原の城址(上郷黒田)
・虚空蔵山砦跡(上飯田)・今宮城址(上飯田城山)・飯田城址(追手町)・松尾城址(松尾代田)
・鈴岡城址(駄科)・伊豆木城址(伊豆木城山)・久米ヶ城址(山本久米城山)・駒場城址(阿智村駒場)
・蛇峠山狼煙台跡(阿智村治部坂)・滝之沢城址(平谷村靭)・男城址(根羽村城山)・女城址(根羽村西山)
・吉岡城址(下條村陽皐吉岡)・大沢城址(阿南町富草古城)・権現城址(阿南町大下条南波条城)・本城山城址(豊丘村河野下耕地)
・松下城址((喬木村小川上平城)・知久平城址(下久堅知久平)・神之峰城址(上久堅下平)・大峯山城址(泰阜村田本)
・和田城址(南信濃和田寺中)・長山城址(南信濃古山)・満島城址(天龍村平岡田村)

 

(槙原 英勝)

親善スポーツ大会
 タイトルが長いので省略しましたが、正式名称を飯田市中央道沿線都市親善スポーツ大会と言います。飯田市と(財)飯田市体育協会が主催し、今年で30回目を迎えました。
 7月25日(日)の小学生バレーボールに始まり、10月17日(日)のマレットゴルフ、アーチェリーで幕を閉じるこの大会、競技種目は全部で10種目です。 私は、8月29日に行われた早起き野球の部に参加しました。参加チームは全部で12チームで、4つのブロックに分かれて総当りでそのブロックの優勝チームを決めます。優勝チーム同士でさらに優勝チームを決める事はしません。
 飯田市、阿智村、天龍村を始め、愛知県豊明市や飯山市、長野市、須坂市からもチームが集りました。午前8時から開会式を行い、午前9時から試合が始まりました。
 試合は県営飯田球場、県営多目的グラウンド、押洞グラウンドに分かれて行われ、私たち「竜丘クラブ」は多目的グラウンドBが試合会場となりました。
 第1試合は9時から始まり、交代で塁審を務めましたが、この時点でかなり暑くなっていました。第2試合は10時40分からで、天龍村のTBCと対戦です。打ち合いになりましたが、7対9で負けました。
 引き続き、12時20分から第3試合。相手は飯山市のゴールデンヤンキースです。私たちのチーム「竜丘クラブ」は、全員が50歳以上のチームなので、猛暑の中での2試合目ともなると、もうヨレヨレです。結局0対16でボロ負けでした。
 試合を終えて自宅に帰りついた途端両足がつった人もいましたが、試合には顔を出さない人も含め、慰労会だけは盛大に行われました。
 それにしても、この猛暑はいつまで続くんでしょう。9月4日(土)の飯田の最高気温は36度でした。それでも、夜になると虫の声が聞こえるようになりました。
 (写真は、飯田市松尾明地区の水田の稲穂)

 

(高橋 秀治)

  

  

  

いよいよ 桜丸御門「赤門」がお披露目と元飯田城御門文化財に
 今年5月から、改修工事を行っていた、飯田城唯一の遺構である「赤門」が完成し、9月4日竣工式が行われた。110年前に最初の大規模な改修工事があり、ここ25年前にも、改修工事があったが、その間にも雨漏りなどで、修理はされて来た、今回は、瓦の葺き替えを中心に、傷み具合を確認しながらの改修 、赤門の象徴である赤い塗料「ベンガラ」も塗り、今の技術で、忠実に復元出来たと、期待している。
 詳しくは、下伊那地方事務所公式HPへhttp://www.pref.nagano.lg.jp/xtihou/simoina/
 明治4年飯田藩が廃藩になり、城門や堀などが払い下げになった。当時の豪主が、門2基を譲り受け、御殿山下のお寺に寄進された。経蔵寺と雲彩寺である。この二つの寺は、住所が別府と飯沼であるが、直線で100m足らず、歩いて見学が出来る距離である。
 *法輪山経蔵寺山門は昭和24年5月国の重要美術品に認定され、平成6年2月飯田市教育委員会より飯田市指定文化財に認定されている。門の形式は、薬医門で、4本の本柱と、頭貫は太くがっちりしていて、装飾や、創りは、見事なものである。
 *雲彩寺山門は、昭和61年12月上郷町教育委員会より文化財として認定され、今回飯田市教育委員会より、飯田市指定文化財として認定されたもの、造りは、一間の同じく薬医門である。この寺、この他に、飯沼天神塚としても有名で、昭和40年4月に長野県史跡古墳として、県・飯田市教育委員会より指定されている、全長78m、飯田下伊那最大の前方後円墳で築造年代は、6世紀のものとみられ、当地方代表的首長墓の一つで横穴式石室は、全国的に注目されている。
 *平成10年11月飯田市指定文化財に認定された飯田市松尾久井木下家の八間門、二の丸入り口の御門で現在の安富桜の近くから移築した、やぐら門である(左右に4間ずつの長屋があるので、八間門と呼ばれた)今に残る飯田城門の最大級のものである。
 これで、飯田城門に係る、飯田市指定文化財は4件になる。見学は 飯田市追手町から、飯田高校経由で、御殿山下、松尾久井まで、1時間コースです。
 (写真は、新赤門・経蔵寺山門・雲彩寺山門・八間門と、竣工式の様子。)

(斎藤 純)