日本は一つ、皆で頑張れば、大きな力に!!
  3月11日、今まであまり経験した事のない大きな揺れが、飯田にあった。震度4であった。飯田市内の信号も、ビルも大きく揺れた。
 阪神淡路大震災の時は、震度3で、あれだけの災害になったから、今回は、それ以上である事は、すぐ分かった、報道が、だんだんと進むにより、その大きさに心が痛む、それに追い打ちを掛けるように、原発災害、その後、テレビ、新聞、訳の分からない原発内部炉の展開図、もっと知りたい事が沢山あるのに、政府も危険はないとの事、しかし原発も恐ろしい方向に向かっている。それと、まだ手付かずの町があるという、もっとやる事、報道の仕方があるのではないか。
 飯田市広域連合は、南相馬市市長が5年前から、会合等で来飯されていた事から、被災者107名の受け入れを決め、16日迎えの派遣隊を南相馬市に送った。下伊那地区の市町村・沢山の企業が、被災地に向け物資等の輸送車を送る。喜久水酒造㈱浜島社長(高16回生)は、酒を詰め込む充填機を使って、猿庫の泉伏流水を詰め、激励のラベルを貼って、3000本を送り届けた、・・・等々。「私の力は、一粒の涙かもしれない、しかし沢山よれば、川にも、海にもなる」
(名言集より。)
 被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げると共に、早い復旧を切に祈る(南信州3月18日付け)。

(斎藤 純)

初午はだかまつり
 伊那谷の春の風物詩「初午はだか祭り」が3月13日の午後、時又で行われました。
 白馬や樽、米俵などをかたどった大人みこし9基を120人の男衆が、6基のこどもみこしを保育園の子供たちがかつぎました。長石寺を午後1時に出発し、地区内を練り歩きました。
 はだか祭りというと、雪が場合がけっこうあるのですが、この日の飯田地方は最高気温が16度と、4月上旬並の暖かさでした。
 地区内を練り歩いたみこしは、午後2時半頃天竜川の時又港に到着しました。地元駄科の鈴岡太鼓が祭りを盛り上げ、約3千人の見物客が見守る中、さらし一枚の男衆が「オンスイ、オンスイ」とかけ声をかけながらかつぐみこしは水温4度の川の中へ次々と入りました。
 東日本大震災の直後という事もあり、全てのみこしに「震災お見舞い」と書かれた張り紙を掲げ、被災地支援の協力を呼びかけ、会場では義援金の協力も募っていました。

 

(高橋 秀治)


  

  

東日本大震災
  3月11日午後2時46分に始まった東日本大震災。丁度その時間、私は、アップルロード沿いのエイデン(中央道飯田IC近く)の駐車場にいて、大きな横揺れを感じた。埋めたて地の駐車場はギシギシと音を立てていた。すぐに阿智村に帰宅し、テレビを見はじめた。
そして、その後も毎日、東北、北関東の地震跡の状況を見続けている。
 我が家の家族は、水戸で四十数年間生活していたことから、知人、友人の状況を知りたくてあちこちに電話などで安否を確認していた。が、気仙沼や釜石などのすざまじい状況をテレビで繰り返し見ていたためか、いつの間にか地震前後の恐ろしい状況に変化に、麻痺してしまったようである。
 しかし、最近、茨城県に住んでいた間に何度も訪れた五浦海岸の茨城大学五浦美術文化研究所にある“六角堂”が消えうせたと聞き、その状況を知った時に、突然、その恐ろしさを本当に実感した(写真上左は在りし日の六角堂、写真上右は津波で流失した後の六角堂の跡の状況)。人間の知恵・技術の範囲をはるかに超えた自然の力を、十分すぎるほど知らしてくれた。
 春はやってきた。阿智村寺尾の座禅草の群生地でも昨年のように春は来た(写真下左は座禅草)。例年地元では座禅草の保全のために寄付を要望していたのであるが、今年は東日本大震災の被災者への義援金のお願いに変わった(写真下右は義援金お願いの立札)。

 

(原 健彦)