菱田春草没後百年
飯田市では、春草没後百年に合わせ、いくつかのイベントが、計画されている。

飯田市美術博物館では、「没後百年記念特別展」を9月3日~10月2日まで春草晩年の探求‐日本美術院と装飾美‐と題し春草の最期の画風になった装飾美傾向に焦点を合わせ、横山大観・下村観山等の大作も展示、明治40年代を探求。9月4日には飯田能実行委員会主催の 飯田初「能楽」が文化会館で開演される。題材は、春草画の「菊慈童」中国の山麓よりいでし水 菊の葉と共に、不老不死の霊水と成って流れ出る、慈童は長寿を文帝に捧げるストーリー。

春草生誕地、飯田橋北地区では、橋北まちつくり委員会が中心となり、現地に、顕彰碑を建て、春草の作品美をイメージした庭園を整備することも検討している。秋には、募金活動が始まる。確かに、小さな木の看板だけでは、飯田の偉人に、申し訳ない。

飯田市では、没後百年を期に8件を市有形文化財に指定した。すでに、多くが国重要文化財、県宝、市文化財に指定されている。

ある本に、菱田春草の生涯を紹介している、東京美術学校(岡倉天心校長)に入学、大観・観山と行動を共に、日本美術院創設に参加し、大観と共に、インドから、アメリカ・ヨーロッパでも制作に勤しんだ。しかし その生活は貧苦であった。それに腎臓病から来る眼病で苦しみ37歳で失明している。その年9月16日死亡した。その直後、明治天皇が、春草の絵に魅せられ「苦行の図」を千円で買い上げられたことから春草の絵が暴騰し始める。
死後、春草の墓は飯田市箕瀬の拍心寺に生誕地と共に故郷に永く留めらた。菱田家の墓は東京中野、大信寺に分骨と共に移された。
あの世界的画家オランダの「ゴッホ」も同じような生涯を送っている。最後の10年で描いた様であるが、貧困の中、生前には1枚だけが売れた。同じく37歳没。
(写真と新聞‐柏心寺春草墓・飯田市仲ノ町春草生誕地の看板・南信州新聞7/27付け)。


(原 健彦)