春草Ⅱ
どの資料を見ても春草の青春時のことは、あまり書いてない。7人兄弟である事を知り、春草の本3冊を読んでしまった。そのきっかけは、たまたま開いた、飯田高校同窓会名簿で、兄為吉が飯田市伝馬町1の永昌院(下伊那郡立飯田中学校)第1期生である事(大江(小平)磯吉も同期)、弟 唯蔵も中学第1期生である事だった。同窓会事務局長に、その年代の詳しい資料はないかと尋ねてみた。春草の本 色々物色したが、生誕100年記念に発行された、下伊那教育会刊「春草総合年譜」、昭和41年発行の「菱田春草」春草研究委員会・下伊那教育会刊、さすが詳しくハッキリしてきた。兄弟はNETで調べた。
春草は、士族の父 鉛治、同じく士族の母 くらの7人兄弟の4人目3男として、明治7年9月21日飯田市仲ノ町に生まれその名を三男治と言った、その2年後長男 瀬平が11歳の若さで他界する。父は、藩から禄をもらっていましたが藩士でなく職業を探さないといけなく明治11年に開業の百十七銀行(今の八十二銀行)に勤められ、仲ノ町の家(400坪弱平屋建て)もそのままで、まあまあの暮らしと推測される。
兄 為吉は、群立飯田中学から東京物理学校(現東京理科大)を卒業し教授として活躍し、後に皇太子(後の大正天皇)の教育係りを拝命する。春草37才の時、出品した六曲屏風一双「雀に鴉」が宮内庁お買い上げになり、明治天皇はこの屏風を御居間に長い間置かれ、殊の外愛されたとのこと、春草死後にも絵を1000円で買われたのも有名である。兄弟揃って、天皇家に関わりがあるとは、これも凄いことである。
16歳の時4日間を掛け、上京した春草は、兄の下宿に同居して、美術学校に通う、費用は兄が全て面倒を見た。
その後結婚し4人の子供に恵まれるが、長女は生まれるとすぐに亡くなって、家系図にも載っていない、後男3人である。(長男 後に美術院事務局長)、兄の生涯献身的援助が、大天才春草をつくり上げたと言っても過言でないと言う。
兄為吉も、絵が好きで、自分も絵の道に進みたかったが、家庭の事情等で、その気持ちを春草に託した、しかし東京理科大学近代科学資料館には、大きな功績が残されている。多面体木工法 開いてみてください。
http://ww6.enjoy.ne.jp/~hiro-4/tamekiti.html
弟 唯蔵は、明治14年6月に飯田市仲ノ町に6人目4男として生まれ、飯田中学の第1期生から東京帝大(現東京大学)を卒業43年には文部省留学生としてドイツ、イギリス、アメリカへ派遣され帰国後は九州大、東京帝国大教授をし、明治、大正の航空工学者として知られている、45才没。兄弟揃って、優秀である。
こんな訳で、ひょっとしたら飯田高校同窓会名簿に兄弟揃って載っているのかと、同窓会を訪ねた訳です。幕末後動乱期 明治15年創立で下伊那郡立飯田中学は県立飯田支校になり、明治19年一府県一中学制度の制定により廃校となってしまった、改めて明治26年長野県尋常中学校飯田支校から松本中学飯田支校とされ明治33年長野県飯田中学校(島地校長)になった。春草7才明治13年第20番中学区第1番小学飯田高校(現追手町小学校)初等科に入学し中等科・高等科を15才の時卒業している、丁度その狭間であった。(この時兄為吉は東京物理大卒業第1期生総代謝辞を読む)。
こんな訳で私の春草を追ったのは2ヶ月に渡りましたが、春草の凄さと、支えた兄と奥様の苦労は計り知れないものを感じました。春草生涯や作品の説明は是非「菱田春草」を読んでください。画家生活を第1第2第3期と区別していますが、私としては、死の前の作品が、春草の本来の画質と思われます。残念なのは、生涯自分の絵を追求した春草には、「まだ勉強中だから弟子は取らない」と、弟子がいないのと、春草流派がいないことである。
没後100年2つの展覧会 長野県信濃美術館(長野市)9月10日~16日 飯田市美術博物館 9月3日~10月2日
(写真 春草家族と兄為吉 Netから)
(斎藤 純)
小さな部落の小さな行事・“風送り、虫送り”の今と昔
南信州・昼神部落でも、「五穀豊穣」を祈願した“風送り”、田畑の「病害虫駆除」を願った“虫送り”の行事が、毎年8月25日に行われている。
以前、 “風送り”は、高い木のてっぺんに、「五穀豊穣祈願之旗」を立てて祈願したそうであるが、昼神では、一度、けが人が出たことがあって、木の上に旗を立てるのはやめたとか。また、“虫送り”の方も、子供たちが“麦わらの松明”を作って火を点け、「病害虫駆除之旗」を先頭に、部落中の田畑を廻って、害虫駆除を願ったそうであるが、神社から部落境までの間の国道沿いの“虫送り”に変わったようである。以前の行事のことは、今の四十歳台末から五十歳代ぐらいの人々が覚えているところを見ると、四十年位前まで、昼神に温泉ができる少し前までは、昔からの形が続いていたらしい。
現在は、子供の数が減少し、松明などの殆どの準備は大人がしている。子供たちが学校から帰り顔を出し、顔ぶれが揃うと、阿智神社の拝殿前で、鳥居と拝殿の間を行き来して、お参りを十回繰り返す(写真上段の左)。その後皆でそろって神社から出発する(写真上段の右)。昔の田畑は、今は、温泉街の一部となってしまったので、国道256号に沿って部落境まで、松明を掲げて“虫を送り”ながら移動する(写真下段の左)。そして部落境ですべての松明を燃やして、“虫:病害虫”を隣の部落に“送って”終了する(写真下段の右)。病害虫を、お隣に送り込んで安心というのは、多少気が引けるのであるが、どこでも同じようである。
四十数軒の小部落では、子供の減少は目に見える形で極端に現れる。この行事も一昨年よりも昨年、また今年と子供の数が少なくなって大人の占める割合が多くなっている。しかし、それでも古い行事を何とか守ってゆく意思だけは消えないでいる。
(原 健彦)