「虎之図」春草画と判定される
 はじめに、前月、春草Ⅱでの誤り 第20番中学区第1番小学飯田高校→飯田学校です。
 下伊那郡阿智村在住の画家 吉川優さん所有の屏風絵「虎之図」が、春草17歳(美術学校学生)頃、親戚の屏風に描いた作品と9月28日に判明する。11月4~6日阿智コミニティーセンターで、吉川優個展で公開される。23.9.29付 信濃毎日新聞で報道される。続いて、飯田美博のプラネタリウムで「春草永遠のときを越えて」と題し35点の作品が12mのドームで公開されている。30日付同じく信濃毎日新聞に載る。
 私は、春草画家生活第3期の絵がすきと書きましたが、2期明治34・35年に描いた作品、「蘇季訣別」・「王昭君」(168×371の大作)等、すごく綺麗に描けているのに、どことなく寂しい感じがしていた。生活苦から来る寂しさかとまで思った無知な私です。
 当時、山形県の、漁業会社のお金持ちが、この美しさに、龍宮のお姫様と思い、縁起物として購入した、2000年前の中国の悲しい物語を描いたものと知り、鶴岡市の山の中の檀家善宝寺に寄贈したとか。
 この物語、漢の王様が 宿敵北方の匈奴の国の王様に和解のしるしにと自分の宮女を差し出そうとした、大勢すぎて選択が出来ず、綺麗な順に最後の女を差し出そうと、絵描きに全ての宮女の絵を描くよう命じた、宮女は皆嫌がり自分を綺麗に書いて欲しく、絵描きに貢物をした、貢物をしなかった王昭君が選ばれた、お別れのとき、王は、王昭君の美しさにびっくりし悔やんだが、約束通り、寒い北国の匈奴国に送り出した。その後 絵描きは処刑された。
 悲しがる王昭君は大切にされていたが、この国王も亡くなり、故郷恋しいと琵琶弾く日々が続いた、最後痩せ細って自害してしまう。
 「蘇季訣別」然り再度この絵を見た。絵の人物(宮女)が複雑な憂いに満ちた気持で動きはじめた。春草の凄さを、改めて認識しました。
 春草24歳 士族野上家の長女千代19歳と明治31年日本美術院創立の年結婚。描く絵が幾つも共進会等で受賞している、しかし受賞したからと言っても、売れなければ、生活できず、日本各地のお寺で模写の仕事に歩き、明治35年長男春男誕生の頃から(兄為吉飯田中学教員になる)、海外各地に、大観など同士と漫遊、その地方で展覧会を開く、我々の昭和20年代に1ドル370円位でしたから、行くには、兄や父などの世話になったが、アメリカ・イギリスあたりで絵が売れれば、すごい事であったろう。それを資金に、絵文化と接する為各国を発病の明治41年頃まで歩き回る。その間に、日露戦争当時は、船中で迫害を受けたり、生活苦から、兄貴宛に「アメリカの人は珍しい物が好きだから 天竜川沿いにある、岩芝を沢山送ってくれ 売れると思う」とのエピソードもある。これには、兄も呆れて、対応しなかったそうです。 千代にとっては13年の夫婦生活の中で、春草発病でしたが、自分の側にいてくれるこの数年が一番幸せだったろう。子供達も、お父さんの絵を描く姿や、描いた絵が、受賞する事のすごさを感じたと書かれている。眼も悪くなってからの何年かの間に、代表作「落葉」、宮内庁買い上げの「雀と鴉」「黒き猫」などが作成されている。
 新居建設完成を目の前に、明治44年9月16日38歳で亡くなる。

 今月も「虎之図」春草画判定のニュースで、又書いてしまった。
 飯田市の規約は分かりませんが、現在の飯田市名誉市民は、日夏耿之助・河村繁俊(歌舞伎)・松井卓治(元市長)3人である。春草が外れている事は、残念である。飯田市橋北地区で、顕彰碑建立の活動があるので、橋北の先輩にこの事をお願いした。

(斎藤 純)

  

  

  

秋の南アルプスエコーラインと日本初の自然科学遺産“御池山いん石クレータ”
 いつまでも、夏の暑さが続いていると感じていたのに、突然に“秋の涼風”を超えて、時には、“寒さ”まで感じるようになってしまった。布団をかぶって寝なくてはならない夜がある。秋の訪れである。そういえば、もう稲刈りも終わったところが多い。
 南信州で、最初に“秋”を早く感じさせてくれるところは、“富士見台”、“しらびそ高原”“大平の宿”などの高地であろう。さっそく“しらびそ高原”から“下栗の里”への道、“南アルプスエコーライン”と呼ばれるようになっている南信濃の代表的なコースを走ってみた。
 数年前に走った時は、道路も狭く、気が付かなかったのであるが、しらびそ高原から数キロ南に走った位置に“御池山いん石クレータ”と呼ばれる“日本初の自然科学遺産”の立派な看板ができていた(写真上左、右)。
 この説明によれば、「御池山いん石クレータは、直径約900m、2万~3万年前に直径約45mの小惑星が衝突してできたものと推測されています。もともと地形が急な斜面にクレーターができたために、侵食して崩れた部分が多く、残っている部分は役40%ですが、御池山山頂の尾根沿いに半円形の地形が残っている、日本初の自然科学遺産です。いん石クレーターは、宇宙から流れ星となって落下する小惑星、彗星などが燃えつきずに、地上に衝突した際にできたいん石孔です。・・・」とある。
 看板から数百メートル上ると、クレータを望む展望台があり、そこから眺めると前方の山の縁がクレータの外縁の形をしているのが想像できる(写真中左、右)。
 今まで、日本のチロルとして有名な写真の多い下栗の里(写真下左、右)にのみ気を取られていたコースであるが、南信州に宇宙を見上げさせる素晴らしい自然の遺跡があったとは新しい驚きであった。
 

(原 健彦)