JR飯田線に切石駅があります。カーブの所に在るため、電車とホームの間が広く開いた駅です。

駅名の多くはその地名から来ていますね。この駅も飯田市鼎切石と言う所に有ります。松川に沿って妙琴原まで伸びた細長い地域です。

では切石と言う地名の由来は?
石を切ったりする石屋さんや石材店が多くあるから・・・ではなく、切石と言う石があるのです。その石は、駅から1Kmほどの郊外にあります。私がこの石を知ったのは、小学校低学年の時。妙琴原への遠足の通り道にあって、先生は「弁慶が薙刀で切った石・・・と言われている」と教えてくれたのです。

今は石のそばに説明板があります。それに寄ると・・・
弁慶が薙刀で切ろうとしたが斬れず。代わって義経が太刀で真っ二つに斬った、と書かれています。先生の話と少々違っている^^;それに邪魔だから斬ったとありますが、これではやはり邪魔のままでしょう^^;

昔教わったのはこの石だけですが、説明板には「切石の七妙石」とあります。他にも伝説付きの石があるのです。

この石のすぐ近くに、「蛙石(蟇石)」と言うのがあります。蟇は読めますか?^^;これ一文字でガマガエルと読む様です。変換では出て来ません。当用漢字でもないようで、漢和辞典にも出ていません。何と読むのかも分からず苦労しましたよ^^;

でもこの石、どの方向からどう見ればガマガエルに見えるのか?^^;それにしても何かでコーティングしたような表面ですね。

この近くにもう一つ「駒石」があります。石の表面に馬の蹄跡の様な形が付いています。

説明板には、義経が乗っていた馬の蹄跡と言った事が書かれています。でもそれにしては大き過ぎますね^^;

他の四っは?中央道の高架下でもう一つ見つけました。個人の土地の様で、保存と言うよりは利用されている感じ。でも邪魔なんでしょうね^^;

説明板には「蔦石」とあります。松川に住む大山椒魚に引き込まれた男の変わり果てた姿がこの石で、絡みついている蔦は、蔦と言う娘なのだとか。物悲しい伝説ですね。

他の三つは見つからず。近くにそれらしい物はなく、点在している様です。昔と違って今は民家も増え、道路も変わっています。探すのも大変です^^;他に「太鼓石」「鬼石」と言うのがある様です。もう一つは名前も分からず^^;

切石は他にもあって、高森と駒ヶ根に在りました。高森の切石は、小学校の遠足で瑠璃寺への通り道にあったのですが、今は見当たりません。幹線道路ではなく脇の間道でした。中央道が出来たり、バイパスや運動公園、児童公園が出来たりで、この辺りは様子が変わってしまいました。伝説の石は撤去されてしまったのかも。

駒ヶ根の切石は、今もあります。(写真はGoogleMap より)こちらは斬られたとされる石の間隔がかなり広いですね。

各伝説の真偽はマユツバですが、義経の一行がこの辺りを通ったと言うのはどうなのでしょう?調べてみると、京都から平泉までどういうルートを辿ったのかは定説がありません。北陸路と言う説が有力の様ですが、逃避行でそんな定番のルートを行きますか?各藩へは頼朝より義経成敗の命令が出ている筈です。

そう考えると手薄の木曽、伊那路は適切と思えます。今なら木曽路を真っすぐ抜けますが、当時は難所だったようです。県歌「信濃の国」にも歌われている⇒木曽のかけ橋は未だ無かったかもしれません。出来ていたとしても危ない橋。これを避けて、中津川辺りから神坂峠を越え、伊那路を通過して行ったとも考えられます。阿智の園原には「義経駒つなぎの桜」があります。

 

また、下条村には木曽義仲の愛妾「山吹姫」が匿われていて、この地で亡くなった姫の墓と言われる墳墓があります。所有者小木曽さんの祖先は、山吹姫と言われています。事実なら木曽義仲の末裔と言う事になりますね。でも調べてみると、山吹姫の墓と言うのは他にも沢山ありました^^;

余談になりますが、高森の瑠璃寺には頼朝公寄進の桜があります。源頼朝が幕府の祈願寺に選定した折寄進したとの事ですが、選ばれた理由は良く分かりません^^;

源氏と伊那谷、伝説ではありますが色々繋がりがあった様です。義経が逃避行で通ったと言うのも、有りそうな気がしてきました^^;

(高18回 高田)