春近し
 この数日、また真冬に少し逆戻りしたような冷え込みの厳しい朝が続いたが、それでもやはり3月、春は着実に身近となって来た。
 先日、久しぶりに天龍村を訪ねる機会があった。
 天龍村は長野県最南端で県内では最も春の早い地方。既に、梅の花は満開を過ぎて、そろそろ桜が蕾を大きくしそうだとのこと。そう云えば、平岡ダム湖に湛えられた水面も穏やかな表情を見せているし、何となく谷全体の景色や雰囲気が、飯田近辺のそれとは全く違って見えた。思わず、「温といなー」と、口を衝いて出た。正に、春近しである。
 写真は、2月半ば、散策の土手に出合った蕗の薹と福寿草。

(槙原 英勝)

伊那谷に国際交流の花
  2月26日に開幕した知的障害者のスポーツの祭典「スペシャルオリンピックス冬季大会」のホストタウンプログラムで、選手たちが伊那谷各地にも滞在し、国際交流の花を咲かせた。
 飯田下伊那では、飯田市がレバノン、松川町がキューバ、豊丘村がメキシコ、下條村がジブラルタル、高森町がカザフスタンの選手団を迎えた。
 キューバ選手団は24日、午前中に松川中学校で交流会を兼ねた練習に汗を流し、午後は同町大島の斉藤農園でイチゴ狩り。ミルクをたっぷり付けた大粒なイチゴをほお張り、初めての楽しみを満喫した。斉藤さんは「貴重な体験でうれしい」とほほを緩ませながら、「日本の子どもたちより人懐っこいかな」と話していた。
 (南信州新聞から転載)

私のホームページ「日刊ふるさと情報便」もどうぞ。
(原 博司)

水温む?
  先月のこのページで、2月2日の朝の時点では、中央道の一部区間が雪のため上下線とも通行止めになっていた旨ご紹介しましたが、この日は飯田と名古屋を結ぶ高速バスは始発からすべて運休となり、たまたま受験で名古屋に行っていた長男は、JR線を利用する以外に帰る方法が無くなりました。
 幸いにも試験は午前中で終わっていたので、取り敢えず名古屋駅から快速電車に乗って豊橋に向かうよう指示し、名古屋を出たのが12時57分、豊橋には13時44分に着いたのですが、1分前に岡谷行きが発車しており、59分待つハメに。14時43分発の電車が駄科に着いたのは18時53分。飯田線だけで4時間10分もかかっており、名古屋からだと乗り換え時間を入れて約6時間になりました。「もう飯田線はこりごりだ。」と言っていました。
 2月27日(日)、たまには天竜川の岸に降りて写真を撮ってみようと待ち構えていると、10時35分頃、船が下って来ました。写真を1枚撮ったところで、ナンと電池切れ。電池を交換しようとしているところへ2艘目の船が・・・。仕方なく手を振っているとオジサンが窓を開けて、「何してんの?」
 写真は3艘目を撮ったものです。電池交換が間に合わなければ、1時間後に再びトライするところでした。なお、写真の“暖房船”は2月末までの運航との事。
 3月13日(日)には、ここより下流にある時又港のあたりで、初午はだか祭りが行われます。
 

(高橋 秀治)

県歌と五平餅
 2月木曽の山口村が中津川市と越県合併し、資料変更関連の各関係機関は忙しいことと思います。教育関連では、例えば地図などの修正は次年度には間に合わないんでしょうね。合併の是々非々はともかく、この問題の中で面白いことを2つ知りました。
  1つは、他県では県歌を歌うことがまずないようです。県歌があることさえ知らないようです。長野県では小学校で教わり、何かにつけ歌うことが多く殆どの方が歌えますよね。この違いはどうしてなのかな。岐阜県になる前の日、山口村の学校で「信濃の国」が歌われていましたが、この子達はもう県歌というものを歌うことは無いかもしれません。
 もう1つは五平餅のことです。馬篭の名産の中に団子形(玉五平)の五平餅が出てきました。食べたこともありますが、今まであれは亜流と思っていました。しかし木曽と中津川近辺が元祖的に取られそうな言い回しに「エ~」と思いちょっと調べてみました。本家は信州下伊那で、形は飯田以南の1個串刺しのわらじ形(板五平)が基本、飯田で一般的な丸く平べったい2個串刺しは改良版、岐阜東部や奥三河のそれは観光目的のものと思っていましたので。
 結果から申しますと名前の由来も形も元祖も特定できないようです。
 江戸中期頃のようですが、
 ・伊那地方の樵(きこり)の五平衛さんが焚き火にかざして食べることを考えて作った。
 ・伊那地方の大工の五平さんが考案した。
 ・木曽か恵那地域にいた樵の五平さんが考えた。
 ・山の神さまに五穀豊穣を祈り供えたわらじ形が御幣(幣束)に似ていたから御幣餅、転じて五平餅。
  (根羽から奥三河での一般的言われ)
 などなど、未だ他にも諸説あるようです。
 主たる観光名所がなかった中津川市としては、藤村と馬篭という全国的に知られたものを手にし、大々的に売り出そうとしているのは当然でしょうが、玉五平を「元祖」とするのには少々抵抗を感じています。

(西尾 秀文)

美しいひと、竹田扇之助さん
 2月下旬、原稿執筆に行き詰まって上郷にある行きつけの喫茶店に行った。
 カウンターで食事をしていると、チリンと扉の鈴を鳴らして一人の紳士が店に入って来られた。仕立ての良いツイードのヘリンボーンのコートを着て、さり気なく襟巻きをしたまさしくそれは竹田扇之助さんであった。
 本当は、「さん」などと気安く呼んでは失礼にあたるだろう、「氏」もしくは「先生」と呼ぶ方が多いであろう。竹田扇之助さんは、言うまでもなく飯田市座光寺にある竹田扇之助記念国際糸繰り人形館の館長で、今世紀最高の人形劇人7人にも選ばれた世界を代表する人形劇人である。
 美しいひとだった。もう75歳になってしまいました…とほほえんでおられたが、本当にお若く凛とした澄んだ瞳を持つ方であった。自ら志願して来日する外国人の愛弟子が、もうじき来飯すると話してくださった。
 日本人さえ忘れてしまった「間」の美学を、外国人の若い彼が何も教えなくとも持っていた、と。私が生きてきた学んできたすべてを彼に伝えたい、それが私の最後の仕事だと思っている、とも。
 竹田さんが愛する人形たちを、異国の青年がどう操るのか私はどうしても見たい。魂が、次代に受け継がれる瞬間をどうしても感じてみたい。3月、人形館を訪れることを約束した。
 竹田さんがもう20歳ほど若かったら、私は間違いなく本気で惚れてしまうだろう。人生を貫いたひとだけが持つ、美しさ。竹田さんは原稿が書けない、仕事と家庭との両立が…などという世俗的な(書くのもおぞましい)話に真摯につき合ってくださり、席を立った私にこういってくださった。
 「大丈夫、必ずできます。必ず書けます、大丈夫。」大きな手で、背中を押してもらった気がした。
 竹田人形HP:              http://www.city.iida.nagano.jp/puppet/takeda/index.html
 竹田扇之助記念国際糸繰り人形館: http://www.city.iida.nagano.jp/puppet/sisetsu/takeda.html

(佐々木 公美子)