桜情報 ① 川路の春めき桜 と 丘の上の紅梅
- At 3月 23, 2019
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早咲の春めき桜はご存知でしょうか?
春めき桜は、エドヒガン+シナミザクラの交配種と思われます。早咲の桜で、2000年に登録された新しい品種です。初耳と言う方も多いかな?
神奈川県南足柄市に沢山あり、桜の名所となっています。
こちらでは、飯田線の川路駅から天竜峡に掛けて道路脇等に並んでいます。
川路地区と南足柄市は地域づくり提携を結んでいて、2014年に苗木を譲り受け植えられたものです。まだ木が若く、背も低いですね。
桜並木として見られる様になるのは、10年程先でしょうか^^;
植えられた時期は川路の方と同じと思われますが、此方の方が少し大きくなっている様です。桜の向こうには対岸の天竜峡駅。
陽気に誘われて、花見客も訪れています。
市街地の丘の上はと言うと、桜は未だですが紅梅が見頃になっています。飯田城主 堀公が家臣に贈ったと伝わる由緒ある物です。
江戸町の加納家は、先祖が御殿医だった事で贈られたとの事です。
堀公の紅梅はもう一本、動物園入り口にあります。こちらの樹齢は加納家の物より若く300年程と思われます。
江戸町の旧飯田藩士 原 家に贈られた物を、此処に移植したと伝わっています。
これは桜?
いえいえ、枝垂れ梅ですね。動物園のコンドルの檻の横にあります。丘の上の桜は月末でしょうかね。桜の季節も、もう間もなくです。
(高18回 高田)
温故知新 ⑧ 日夏耿之介
- At 3月 21, 2019
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日夏 耿之介(中7回)は、明治23年2月22日に知久町3丁目で生まれました。本名は樋口國登(くにと)です。同窓会名簿には名前が載っていますが、中退している様です。上京して京北中学へ編入したのですが、神経衰弱のため2年間休学の後退学しています。その後早稲田大学高等予科に入学し、大正3年に早稲田の文学部英文科を卒業しています。ペンネーム、日夏耿之介は早稲田大学の頃から使い始めた様です。
飯田市民がその名を知るきっかけとなるのは、リンゴ並木にある碑ではないでしょうか。この碑は昭和37年に建立され、岸田國士の碑の奥に立っています。書は当時の市長・松井卓治が書いたそうです。 写真はクリックすると多少大きくなりますが、さあ読めますか?その意味が分かりますか?私はサッパリ^^;この碑によって、日夏耿之介=難解な文学となってしまい、結果 何も読んでいません^^;
とは言え多少なりとも説明しなければ^^;調べてみると、詩集『咒文』(じゅもん)の「咒文乃周囲」末尾の一節と分かりました。
あはれ夢まぐわしき密咒(みつじゅ)を誦(ず)すてふ
邪神(かみ)のやうな黄老(おきな)は逝(さ)った
「秋(さわきり)」のことく 「幸福(さいわい)」のことく 「来し方(こしかた)」のことく
う~~ん、読めてもどういう事なのか、意味まではよく分かりません。皆さんは如何ですか?やはり全部を読まないと・・・とは思いますが、その気力が^^;
文学界での評価は高く、読売文学賞、毎日出版文化賞、日本芸術院賞 等を受賞しています。昭和14年には、早稲田大学より文学博士号を受け、早稲田大学教授に就任。昭和27年には青山学院大学の教授に就任しました。
昭和28年に 第1回飯田市名誉市民に選ばれています。
平成元年には 飯田市美術博物館内に日夏耿之介記念館が開館しました。これは愛宕の住いを再現した物で、本宅の方はそのまま今も愛宕にあります。無人となっている様ですが。
記念館は通常施錠されていますが、平日は美博の受付に申し込めば開けてくれます。と言う事で中に入ってみましょう。
館内には氏が寄贈した蔵書、書簡、書画、原稿、文具類などの一部が展示されています。
端の方に、若かりし頃の写真が!中学時代ですね。
日夏耿之介全集、全8巻です。読んだ事ありますか?
第一詩集「転身の頌(しょう)」出版記念の晩餐会。そうそうたる顔ぶれをご覧ください。
写真じゃ誰かもさっぱり分からない? でしょうね~~^^;こちらと合わせてご覧ください。
如何ですか?知っている名前は何人ありますか? 文学界の重鎮であったと分かりますね。
歌碑の写真と拓本です。写真の方は風越山の山頂近くの崖っぷちに刻まれた物。拓本の方は此処の裏庭の物と思われます。
同じ句の碑が記念館の玄関前にもあります。
秋風や 狗賓(ぐひん)の山に 骨を埋む
裏庭には
水鶏(くいな)ゆくや この日宋研の塵をあらふ
解釈は皆さんにお任せします^^;
日夏耿之介の歌碑は、この他にも市内十数か所にあるとの事です。探してみては如何でしょう!
歌碑ではありませんが、出身の追手町小学校には「仲よく」の碑があります。
作品の中に意外な物がありました(私的にですが^^;)英文学者でもあるので翻訳は当り前かと思いますが、「サロメ」の翻訳は私的に意外と思えました。でも、人物の名前は全て漢字で表しているあたりはいかにも日夏耿之介らしいですね。タイトルも『院曲撒羅米』で、サロメは「撒羅米」と書いています。
下伊那農業高校の校歌を書いている(作詞)のも意外でした。
昭和31年(1956年)に脳溢血の発作で倒れ、飯田市に帰郷し愛宕神社境内に居を構えました。昭和46年(1971年)6月13日、自宅にて亡くなっています。81歳でした。お墓は春草と同じ拍心寺にあります。
樋口家のお墓は通路から少し入った所なので、少し分かり難いかも。昭和63年に亡くなった奥さんと一緒です。
温故知新シリーズですが、今回で一旦終了とします。次回からは地元飯田の様子を中心に!当面は桜の紹介になりそうですが^^;
(高18回 高田)
温故知新 ⑦ 菱田為吉 Ⅱ 追加情報と訂正
- At 3月 15, 2019
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先日、東京理科大の近代科学資料館へ行ってきました。わざわざこの為に?いえいえ、たまたま東京に用事が出来たので、そのついでです^^;飯田橋駅から徒歩5~6分でしょうか?電車からも見えるし、それ程遠くはありません。この駅、初めて降りましたよ^^;
見学は無料ですが、受付があります。館内は一応撮影禁止でしたが、申し込み書に記入すればOKとの事。撮影許可証のプレートを渡され、ブログへのアップも許可して頂けました。目的は菱田為吉の多面体模型です。2Fには箱に入った寄贈品が展示されていました。
部屋に入ると、壁の一面が為吉のコーナーになっていました。多面体模型はガラスケースに入っています。横に説明のパネルがあります。
これだけではその凄さが分かりませんね^^;数点アップで撮って来たので、ご覧ください。
最下段には製作過程が分かる様に、段階的な物が並んでいます。これを使って、「まずこういう形に削って、次にこうする」等と講義していたんでしょうね。
多面体の説明パネルに、為吉の経歴が少し書かれていました。ここから前回の時は分からなかったことも明らかになりました。
東京物理学校の講師となったのは、飯田中学退職後だったんですね~。多面体の製作も長期に渡ってのライフワークでした。本人はこれらの正多面体を、整正多面体と名付けています。昭和11年の退職時に東京物理学校へ寄贈されました。
高齢になってからの写真と、多面体制作時の写真もありました。椅子に座って机の上で・・・と想像していたのですが、床に座っての作業とは!ちょっと意外でした。
卒業証書もありました。為吉の名前の前に、長野縣士族とあります。
何故か中学の卒業証書も^^;長野縣中学校となっています。普通は個人に渡される物が、なぜ学校に?それだけ特別の人だった、と言う事ですね!
(これらの証書ですが、後日 近代科学資料館が所蔵している物はコピーとの説明を頂きました。説明文で〔本館蔵〕とありますが、本館とは理科大近代科学資料館ではなく飯田美術博物館の事と分かりました。
同窓会名簿では、為吉は明治17年下伊那中学校卒業となっていますが、こちらは明治19年長野縣中学校の卒業証書です。そこで『ものがたり菱田春草』を見直してみると「三男治は中等科を明治19年9月に卒業、続いて高等科に進む。翌年3月兄為吉は東京物理学校へ入学」とありました。
どうやら為吉は、下伊那中学終了後 校名の変わった長野県中学校飯田支校へ進み 明治19年に卒業。翌明治20年に東京物理学校へ入学したと思われます。と言う事は、東京物理学校は1年半で卒業した訳ですね。 また、この頃の小中学校は一級終了ごとに卒業証書を出していた様です。それで為吉の卒業証書が18枚あるのだと思います。)
更に、宮内省からの任命書も!明治28年に皇太子(後の大正天皇)の教育係となった訳ですね。更に、この時は学習院の助教授だったと分かりました。
弟たちの紹介もあり、弟家族の写真もありました。唯蔵の顔が分かります!イケメンの秀才と顔に書いてある様な^^中央は千代夫人なのかな?左端は唯蔵の奥さん?春草、唯蔵以外の説明はないので、皆さんも推測してみてください^^;
此処には為吉の他菱田兄弟の貴重な資料もあり、思い掛けない収穫でした。
(その後分かった事ですが、これ等の為吉の卒業証書や兄弟家族の写真が載っていた本は、飯田美術博物館発行の⇒日本の近代化に臨んだ人びと―田中芳男と南信州の偉人たちーでした。と言う事で、改めて飯田美術博物館より掲載の許可を頂きました。)
他にはどんな物がるのかも紹介しておきましょう。
計算機の歴史も分かります。ハンドルを回す物とか、使った事ありますか?^^
オーディオの歴史も!こんなの実物見た事ありますか?^^
世界最初の乾電池。これを作った屋井先蔵は此処の卒業生ではなく、付属職工との事。学者の皆さんと相談したりして作り上げたと言うから、産学共同開発の先駆けですね。でも特許は取りそこなった様で、乾電池の発明者は暫くの間 別の人の名になっていました。
ノーベル賞の大村先生は此処の卒業生でした。そのパネルも!
夏目漱石は帝大英文科卒ですが、小説の坊ちゃんは此処の卒業生と言う設定だったんですね~。
と言う事で、見所満載の科学資料館でした^^ う~ん、高校時代に此処を知っていたら・・・と思ってしまいました。お前じゃ無理~と突っ込みが入りそうですが^^;
(高18回 高田)
温故知新 ⑥ 菱田春草
- At 3月 11, 2019
- By dousoukaiadmin
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飯田に春草の⇒「白き猫」と言う作品があります。これは明治34年春草が飯田へ帰省した際、飯田学校同窓会を訪れ作品の制作を約束して、帰京後に描いて同窓会へ寄贈した作品です。・・・これを読んで、えっ何で我が校の同窓会へ来たのかな?春草は高等科卒業後、中学に進まず上京しています。兄為吉が飯田中学に赴任したのは明治35年だし。よくよく考えてみれば、飯田学校は現追手町小学校の事ですね^^;
春草は1874年(明治7年)9月21日、飯田市仲之町で菱田鉛治の三男として生まれました。本名は三男治、三男だからこの名前?イージーな感じがしないでもありませんが、親の一字を貰ったのは三男治だけです。前にも紹介していますが、生家跡は春草公園(正式には「菱田春草生誕地公園」)となっています。ここに誕生地の碑があります。碑はもう一ヶ所、美術博物館の庭にもあります。書体が同じと気付かれると思いますが、どちらも横山大観の書から起こされた物です。
幼い頃の春草に付いてはあまり語られていませんが「ものがたり菱田春草」には少しだけ書かれています。一部を紹介すると・・・
為吉と三男治、従兄の錬逸(れんいつ)は、3人で大きな凧を作りました。凧の絵をかくのは三男治の役目です。錬逸がふところから取り出した武者すごろくを見ると、三男治は馬にまたがって太刀を振り上げている荒武者の絵を描きました。それは、為吉も「ほうっ!」っとため息を漏らすほど見事な出来栄えでした。
明治13年、三男治は7歳で小学飯田学校(現追手町小学校)へ入学。勉強はどの科目も良く出来たそうです。中でも絵や工作の才能は学校でも認められていました。こんなエピソードも・・・
錬逸は「三男さん、今日はヤマガラを捕りに行こう」と誘いに来ました。「錬さん、おれ新しい鳥かごを作って待ってたんだよ」その鳥かごを見た錬逸は目を丸くして「うまいもんだな~」と感心しました。。小鳥屋で売っている物と変わらないほど上手に出来ていたのです。三男治11歳の秋でした。絵だけではなく工作も得意だったんですね~!
しばしば登場する従兄の錬逸ですが、調べてみるとなかなか大変な方でした!母くらの兄 小木曽岬治の次男として明治8年に生まれました。春草とは歳も近く、大の仲良しでした。飯田中学は出ていませんが(多分空白の7年間のせい)、高等商業学校(現・一橋大)を卒業し三菱に入社。東京の高橋家の養嗣子(ようしし・後継ぎの養子)となります。上京してからも春草とは付き合っていた様です。
大正13年には信陽舎の初代理事長となっています。余談ですが、⇒信陽舎のHPを見ると理事の欄に牧野憲治君(高18回)の名があります^^
昭和10年の第4回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝したガヴァナーの馬主は、高橋錬逸でした。
戦後は三菱商事を離れて日本女子大の理事なども勤めた人です。
三男治が高等科の頃、若き日の⇒中村不折が図画と算数を教えていました。後に春草の事を「もとから質はよかったが、理屈っぽい人間で吾々を困らせることばかり言っていた。絵がうまいので絵をやれと僕は言った事があったが、法律を勉強すると言っていた。」と語っています。
そんな三男治に絵かきの道を勧めてその気にさせたのは兄の為吉でした。三男治は、高等科を卒業すると上京するのでした。その頃の飯田はバスも電車もありません。三日間歩いて高崎へ出て、其処からやっと汽車で東京へ。東京へ着くと三男治は神田にいる兄為吉の下宿に同居するのでした。
春草はしばしば外遊していますが、言葉の方はどうだったのでしょう?英語サッパリの私としては気になる処です^^;春草は飯田で英語塾に通っていました。その頃飯田に英語塾があったのは驚きですが、三男治が小学生から英語を勉強していたと言うのも驚きです。上京してからも英語の勉強は続けていた様です。故に、大観も天心も外遊の際には春草を誘ったのでは?
美術学校からの春草の事は既に数多く語られているので、此処では省略します。それを書いていくと終わらなくなってしまいます^^;
代わりに地元ならではの情報を・・・
江戸町にある正永寺の庭に、魚籃観音像があります。石碑を読むと・・・この像は春草作「魚籃観音の図」をもとに彫刻した、と記されています。
はて、春草の「魚籃観音の図」とは?その様な作品は検索しても出て来ません。画集とかの中なのでしょうか?観音様のお顔を見ると、どことなく春草描くところの女性の顔に似ている様な・・・気のせいかな?^^;
春草最後の作品となったのは「早春」です。厳密に言うと掛け軸「梅に雀」の図が小品としての絶筆であり、知人に贈った菊の扇が明治44年8月の作で、これこそが絶筆という説もありますが、いずれにせよ「早春」は最後の大作と言えます。そう「早春」は、絹地の金屏風六曲一双に描かれた大作なのです。個人蔵との事なので、ネットでもあまり見る事がありません。でも見つけましたよ^^横浜国立大学准教授 平倉圭 氏が、国立近代美術館での春草展に書いた論文
⇒屏風の折れ構造と「距離」菱田春草 《落葉》・《早春》を見る
をご覧ください。冒頭は現代の目とあるのでアレッ?ですが、16ページの論文集なので10pへスクロールしてご覧ください。10pに「落ち葉」、11pに「早春」と解説があります。
「早春」完成後、春草の目は益々悪化が進み新聞も読めなくなりました。無理がたたった様です。体の方も腎臓病で弱って寝たきり状態の生活でした。昼間はまだ子供達の声や外の騒音などで気を紛らわす事も出来たのですが、夜は何も聞こえません。この頃の住まいは代々木村。今と違って雑木林や小高い丘もある静かな所でした。「落ち葉」も「早春」も、この辺りの風景を描いたものだそうです。(私は風越山の麓かと思っていましたが^^;)夜は、ポツンと一軒家の如く静かだったのです。
音もしない闇の中では気を紛らわす事が出来ません。色々考えてしまい眠れません。眠れない夜が続くと、春草は奥さんに新聞を何度も読んでもらったそうです。
雨の夜は軒のしずくがぽつりぽつりと聞こえ、心を慰めてくれました。春草は、ふと人造雨だれを思いつきました。筆を洗う缶に小さな穴を開け水を入れて天井から吊るし、下に金だらいを置くのです。当然自分では出来ないので、奥さんにやってもらいました。缶の小穴に綿を詰める等の調整をすると、良い感じの雨だれになりました。そこまでして心の辛さを我慢している春草を思うと、夫人の目には涙がにじむのでした。
それでもまだ治る事を信じていた春草は家を建て、6月に借家から新居に移りました。しかし病状は悪くなるばかり。誕生日目前の9月16日、とうとう帰らぬ人となってしまいました。
春草は若くして亡くなりました。当然ですがプロフの写真はお若い。明治時代の文化人の写真を見ると爺さんが多いですね^^;
若くてイケメンの春草、春草さま萌え~💛と言う女性も少なくない様です。こう言った方達は聖地巡礼で飯田を訪れ、ブログにアップしたりします。⇒こんな方や⇒あんな方も・・・居るんですね~^^
更に春草人気はこんな形でも⇒明治東亰恋伽! ゲーム~アニメ、ミュージカル、更にドラマ化、映画化とまぁ数年前から大変な事になっています^^ ストーリーですが、女子高生 綾月芽衣(あやづきめい)は明治時代の東京へタイムスリップ。そこで歴史上の著名人たちと出会い恋に落ちる。春草も⇒イケメン画学生として登場しています^^信州長野から上京とありますが、信州飯田から・・・として欲しかったですね~^^;
ところで春草終焉の地は今どうなっているのでしょうか? GoogleMap で検索してみると・・・ちゃんと碑が立っていました。
金網の向こうは?
代々木山谷小学校のグランドとなっています。
ではお墓は? 飯田市拍心寺の墓地にあります。墓石には「春草菱田三男治墓」と刻まれています。近くに訪れる事がありましたら、お墓参りをどうぞ!案内板に寄れば、東京中野の大信寺にも分骨してあるとの事。後年 菱田家の墓は東京に移されましたが、この墓だけは此処に留めたとの事です。
その大信寺ですが、今は別の所に移り墓地だけになっているそうです。
菱田為吉から始まった春草シリーズですが、今回で終了です^^これを書くにあたって参考にした「ものがたり菱田春草」ですが、下伊那教育会の先生方数名が共同で作られた物です。その中に私の恩師、小島恵蔵先生(故)の名がありました。もしかしたら皆さんの恩師も参加されているかもしれませんね。参考までにその名を記しておきましょう。
藤松千年男、塩沢正敏、宮下和夫、松島功、吉川喜三郎、中沢美治、林明、笹岡真次、村松睦三、長田清吉、松沢忠人、小島恵蔵、林和緒、
再版に参加、松沢平八、井浦汪、尾賀隆雄、玉木陽一郎、田中秀夫、吉川誠、伊波文三、飯田泰之・・・(敬称略)
そうそうこの本ですが、先日美術博物館へ行ってみたらそこでも販売していました・・・1,200円です^^;
さて次ですが・・・日夏耿之介に取り組んでみます。今のところ知っているのは、飯田市名誉市民第1号 と言う事だけですが^^;
(高18回 高田)
温故知新 ⑤菱田家の人々 Ⅱ 次世代
- At 3月 07, 2019
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==親の代から子・孫の代へ==
為吉の長男 菱田氏孝(中9回)
あの手この手で検索してみたのですが、為吉の長男と言う以外の情報は見つかりません。
為吉の次男(?)菱田武夫 (中19回)
飯中卒業後は、東京美術学校(現東京芸大)洋画科へ進み卒業しました。美術の先生となった様ですが、母校の職員名簿にはその名がありません。でも同窓会室には氏から寄贈された絵(紅葉の山道)が飾られています。
更に調べてみると、泰阜村の学校美術館に数点寄贈している事が分かりました。その美術館は小学校の中にある全国的にも珍しい美術館です。
入場は無料ですが、校内にあるので職員室の受付へ。お聞きしてみると写真撮影もOKとの事^^ 美術館で撮影OKは珍しいですね。その方が情報が拡散してPRにもなるのですから、禁止している方が意味不明です。
武夫氏の作品、この日は2点展示されていました。「少年像」と「富士」です。奥様(菱田通恵)も画家でした。「バイオリンを弾く女」を出していて「少年像」と並んで展示されていました。
また作品に添えられたプレートから、武夫氏は上田染谷丘高校で先生をしていた事も分かりました。
検索してみると確かに^^
しかも校章 のデザインもされていた事が分かりました。⇒「校章」について!
退職後は町田市の方へ移住された様で、名簿では>故人・町田市・画家 となっています。
為吉の娘 菱田きく
泰阜小学校のHPから⇒泰阜村立 学校美術館 の「一般参観者へのご案内」を見ると、「5美術品購入の努力」 の所に >・・・第一号に菱田春草の姪に当たる菱田きくの「紫陽花」を購入しました。とあります。春草の姪、親は誰?調べてみると、飯田市出身 菱田武夫の妹とありました。
同窓会名簿には載っていないので、本校ではなく飯田高等女学校 卒と思われます。名前で検索しても出て来るのは春草「菊慈童」ばかり^^;それ以上詳しい事は分かりません。作品の方もこの日は展示されていなかったので、見られず。でも、学校美術館のパンフレットに小さな写真がありました。
為吉の孫 菱田眞
前回、菱田為吉のところでも触れましたが、HPを開設している方です。⇒MAKOTO’S HOMEPAGE
祖父為吉と書いているのですが、両親に付いては書かれていません。誰の子なのかな?自己紹介を見ていくと「目黒生まれ」とあります。武夫氏は上田で先生をしているので、目黒で家庭を持ったのは氏孝氏と推測します^^;
>1951年生まれ、小学校の教員をしていました・・・とあります。この辺も血筋でしょうか?バイク好き、スキー、ギター、と来て最後に女性好き^^・・・正直な方です。殆どの男性はそうでしょう^^;
唯蔵の孫 菱田厚
春草が唯蔵の結婚祝いに贈った「富嶽」を、飯田美術博物館に寄贈されました。足立区にお住いの様です。
春草の長男 菱田春夫 (1902/1 ~1987/1 )
明治35(1902)年1月17日東京府下谷区に、日本画家菱田春草の長男として生まれました。
前回「雨中美人」は途中で止めてしまった、と書きましたが次に春草が取り組んだのは⇒黒き猫でした。「雨中美人」は第4回文部省展覧会に出品する予定の絵で六曲屏風の大作でした。締切日は迫っています。大作を仕上げる時間は有りません。そこで縦1.5m、横51cmの絹本としたのでした。この猫は近所の焼き芋屋の飼い猫でした。
前に紹介した「ものがたり菱田春草」に、こんなエピソードが出ていました。猫を借りに行くのは春夫の役目。春夫は近所の焼き芋屋へ行って黒くて大きな猫を借りて来ました。猫は暫くすると嫌がってにげ帰ってしまいます。その度に猫を借りに行くのは春夫の仕事でした。
春草はこの絵を5日間程で仕上げました。背景に1日、猫の描写に4日間かけたそうです。
春草が亡くなってからですが、春夫は大正8年横山大観に師事して日本画を学び、日本美術院研究会員となります。大正14年日本美術院の事務を委嘱され、昭和17年財団法人岡倉天心偉績顕彰会の設立に伴いその事務も兼任(27年まで)。
以後日本美術院の運営の任にあたり、33年日本美術院が財団法人となる際 主事に(54年3月まで)。また、36年日本美術院評議員、54年同理事となる等、日本美術院運営の大任にあたっています。
春草の画集『菱田春草』(大日本絵画巧芸美術、昭和51年)の編集などの他、「父春草の思い出」(『ゆうびん』3-10、昭和26年10月)や、数々の春草の図書、展覧会図録の序文などを書いている。春草の作品の鑑定家としても知られていました。
昭和62年(1987)1月14日、心不全のため東京都目黒区の東京国立第2病院で無くなりました。享年84。
春草の次男 菱田秋成
明治37年(1904)春草の次男として生まれました。検索すると宇都宮市に同姓同名の方がいました。ご本人か他人か?確率的には既に故人と思います。それ以上の情報は見つからず。
春草の三男 菱田駿
明治39年(1906)春草の三男として生まれました。
1989年、春草が残した下絵、スケッチ帳等をまとめ「菱田春草素描集」を出している。兄同様に春草作品の鑑定もしていました。
東京世田谷区で兄春夫と同居していたと思われます。(住所、電話番号が同じでした)
さて次回は? おっと、未だ春草ご本人について書いていませんね^^;超有名人ですから、今更私が書く事もないとも思いますが^^ 当初はOBではないので採り上げる気もなかったのですが、此処まで書いたらご本人に付いても書かなければですね^^;
(高18回 高田)
温故知新 ④菱田家の人々 Ⅰ
- At 3月 02, 2019
- By dousoukaiadmin
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菱田家の子は7人兄弟と言われていますが、春草・為吉・唯蔵 以外はあまり出て来ません。長男の瀬平は11歳で亡くなっているので仕方ないとして他の方は?答えは「東京の飯田を歩こう会」会長の牧内雪彦さん(高1回)が書いた
⇒イベント案内にありました。
2014年に東京国立近代美術館で行われた「春草展」に向けての解説です。
父・鉛治、母・くら、長兄・瀬平、次兄・為吉、姉・きわ、三男治(春草)、妹・よし、弟・唯蔵、妹・準 の9人家族。とありました。7人兄弟は、7人兄弟姉妹だったのですね^^;
仲之町の生家跡は、「菱田春草生誕地公園」となっています。2015年3月29日(日)に開園しました。
工事中の写真もご覧ください。
ご先祖のルーツ
父の鉛治は飯田藩士でした。ではその前のご先祖様は?美博の学芸員 鈴川博さん(高19回)が書いた⇒『菱田春草先祖の才能と堀飯田藩仕官の歴史的背景』と言うレポートがありました。38ページ(59~96p)に渡って詳し~く書いてあります^^;
これによると菱田家の先祖は蒔絵師であり、代々徳川に仕える幕臣蒔絵師でした。時を経て菱田氏が堀飯田藩と関わりを持ったのは、藩主堀親賢の代から。93pに、菱田三代目善右衛門氏房は飯田城御慶間給人並六十石を命じられ、江戸から飯田城下仲ノ町侍屋敷へ移住させられた。・・・とあります。
ご先祖は蒔絵師・・・春草はその資質を受け継いだようですね!
95pに家系図があります。これによると、同窓会名簿に載っていた氏孝氏は為吉の長男でした。
菱田唯蔵(春草の弟 4男)
前回紹介した「ものがたり 菱田春草」にも、ほんの少し登場しています。父親への手紙に
>お父さん、近いうちに上京されるそうですね。そのとき、福島の家の天井のはりにこびりついているススを、弟の唯蔵にでもとらせて、ぜひ持って来てください・・・(本の原文のまま)
福島の家と言うのは伯母の嫁ぎ先で、殿町に今もあります。江戸時代からの武家屋敷として飯田市有形文化財に指定されています。春草はこの家に子供の頃からよく遊びに行っていました。囲炉裏やかまどからの煙がススとなって天井に付いていたんですね。そのススを前から絵を描く時に使っていた様です。
以前(2014)撮った時は「春草伯母の家」等の表示があったのですが、今(下の写真)は外されています。無人となった様で、老朽化も進んでいます。
赤垣源蔵の塩山家と言うのは、ご近所ですが此処ではありません。赤垣も赤埴(あかばね)が正しい様です。
市のプレスリリースに⇒菱田春草筆《富嶽 ふ が く 》のご寄贈 と言うお知らせがあります。
富嶽は春草の弟・唯蔵の遺族からの寄贈で、春草が唯蔵の結婚祝いとして贈った作品と伝わっています。唯蔵は飯田中学を卒業後に東京大学に進学とありますが、同窓会名簿にはその名がありません。何故でしょうね?また、別の資料では『唯蔵は一高、東大を経て母校工学部の教授となっている』と紹介してありました。飯田中学から一高に転校したのでしょうか?
東大の資料で⇒内田祥三(よしかず)談話速記録 があります。
37ページ(41~77)もあるので読むのも大変ですが^^;その51pに、造船科の菱田君は人間業ではとても出来ない事をやってのけるので、モンスターというあだ名だった。娘さんがいて内田氏の教え子の奥さんになっていた事などが語られています。更に53pには、菱田君が1年からズ~っと首席だったが、自分(内田氏)が1度度だけ1番になった事がある。でも卒業時にはやっぱり菱田君が首席で僕が2番だった・・・と言うエピソードが語られています。
明治40年、東京帝大工科大学卒業後は第七高等学校造士館教授となり、43年には文部省留学生として応用力学研究のためドイツ・英国・米国へ3年間派遣されています。この間の明治44年、九州帝大工科大学助教授に任命され、大正2年帰国し同大教授となり、4年には工学博士となりました。大正7年、東京帝大工科大学教授となり付属航空研究所兼務、のち米国へ出張。8年に帰国し、同年官制改正と共に東京帝大工学部教授となり航空学を担当しました。
では零戦の堀越二郎は教え子だったのか?ですが・・・堀越二郎は、大正13年 東京帝国大学工学部航空学科 入学。昭和2年 首席で卒業・・・とあるのでその可能性は大きいと言えますね。でも唯蔵は大正14年43歳の若さで亡くなっているので、子弟関係があったとしても1年程だけです。
天才春草の弟 唯蔵も、とんでもない秀才でした。菱田兄弟恐るべしです^^ご本人の写真は残念ながら見つかりませんでした。
菱田千代(春草の奥さん)
ネットで写真は1枚だけ見付かりました。それも家族で撮った物からトリミングして拡大してあるものでした。春草も今風に言えばなかなかのイケメンですが、奥さんも美人で可愛い人ですね。美男美女のカップルと言えます^^
二人が式を挙げたのは明治37年7月でした。千代は旧萩藩士 野上家の長女として明治12年2月20日に生まれました。父が早くに亡くなったため母は実家(旧飯田藩士 石田家の江戸屋敷)に戻る様に移住。そこで育っています。なんと母親も飯田藩士の娘だったのですね。二人が結ばれたのはそんな縁あっての事でしょうか?
結婚後の住まいは谷中初音町に新築された美術院公舎でした。明治33年9月、長女を授かりますが幼くして病没。次いで明治35年1月、長男 春夫が産まれます。36年長男が一歳を迎える頃、春草は大観と共にインドへ行ってしまいます。数か月後帰ってきたものの、腰を落ち着けるまもなく翌37年には大観・天心に同行して米国へ行くのですからたまりません。千代は、3人目の子を身ごもっていた時でした。さらに米国で年越しした春草と大観は38年4月にはヨーロッパへ渡り、各地を回って帰国したのはその年の8月でした。新生児を抱え、夫の留守を甲斐甲斐しく守るしかすべの無い千代でした。
春草は欧米で稼いだ金を元手に、日暮里に家を建てました。しかしその後、天心らと共に茨城県の五浦(いずら)に移る事になるです。その時も千代は妊娠中。三男が生まれたのは8月の暑い頃でした。この頃の春草は、未だ売れっ子ではありません。千代夫人は家計のやりくりに四苦八苦していたと思われます。五浦で春草は眼病に侵され、治療のため家族で東京代々木に移住するのでした。
治療効果で目は一時回復に向かいます。春草は千代をモデルに「雨中美人」の制作に取り掛かります。春草の妹(青山準)さんの述懐によれば、「これをかく時に姉は神田の髪結に行き日本髪をきちんと結い、着物をちゃんと着ていました。 その美しい姉の姿を忘れません。 」と。一方ご本人は、座敷の中で傘をさして足駄(アシダ-高下駄)をはき、あっちを向けこっちを向け、そのまま止まれ動くな等と指示され、とうとう脳貧血を起こし倒れてしまうのでした。そこまでして取り組んだ作品でしたが、春草は着物の色が思う様に出ないと言って中断し未完となってしまいました。日の目を見なかった作品でしたが、それが見付かったという報告がありました。
⇒未完成画《雨中美人》の発見 です。
また、夫人が書き残した未完の原稿「思ひ出づるまゝに」も見付かっています。美博学芸員の小島敦さん(高40回)が詳しく解説して紹介しています。⇒ ─資料紹介─ 菱田千代「思ひ出づるまゝに」 晩年の春草を知る貴重な資料です。是非ご覧ください!
春草亡き後は、生け花の先生として生計を立て3人の息子たちを育て、昭和24年10月3日に70歳で亡くなりました。
さて、次はどうしましょう?菱田家の人々に付いては未だ紹介しておきたい方もいるので・・・つづく としておきます^^;
(高18回 高田)
温故知新 ③菱田為吉
- At 2月 26, 2019
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ジブリ映画「風立ちぬ」が上映されていた頃、こんな話を聞きました。
>春草の兄 為吉は、東大工学部の前身校を出ていてそこの教授となった凄い人。東大で堀越二郎の先生だったかも。大正天皇の教育係もしていた。
この話を此処で詳しく書こうと思ったのですが、調べてみたら違っていました^^;出身校は東京物理学校、後の東京理科大でした。話してくれた人は、東京物理学校を東大工学部の前身と勘違いしたのかな?しかししかし、やはり凄い人と分かりました。卒業証書が見付かったのです。ご覧ください。
⇒第一号卒業証書 菱田為吉
菱田為吉は飯田藩士菱田家の次男として、明治元年に生まれました。長男の瀬平が早くに亡くなったので、事実上為吉が菱田家の惣領でした。下伊那中学校最初の卒業生であり、東京物理学校でも最初の卒業生になっていました。卒業後はそこの教員となっていて、授業に役立てるため手彫りで正多面体模型を製作した・・・とあります。現品は神楽坂にある理科大の近代科学資料館に展示されています。(写真はGoogle Map より)
資料館2階に展示されているとの事なので、東京にお住まいの方は是非行ってみてください。入場無料だし^^
⇒菱田為吉の木彫多面体模型
想像してみてください。当時は電動工具なんてありませんから、全て手彫りです。どれ程の時間をかけたのでしょうか?それも一個や二個でなく、47個が常時展示されているとの事ですから驚きです。これはもう神業とも言える芸術作品ですね。
手元に「ものがたり 菱田春草」と言う本がります。これは下伊那教育会が小中学生向けに出版し、学校を通して私の子供が購入した(買わされた?)物です^^;皆さんの家にもありませんか?
これには兄為吉もしばしば登場しています。何と言っても春草一番の支援者ですから。
>為吉はもともと絵がすきでしたので、絵描きになろうと思いましたが、自分は家をつがねばならないので、学校の先生になりました。しかし、どうしても絵かきになりたい気持ちをすてることができません。そこで、自分の夢を弟にかなえてもらおうと考えました。(原文のまま)
春草が絵かきになろうと決心したのは、兄為吉の影響と言えます。東京の住まいも為吉の下宿でした。
春草が東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業する頃、為吉は九州で先生をしていた様です。明治27年、九州の兄に卒業制作のための旅行費用を送ってくださいとお願いしていました。
更に本書では、春草が帰省した際兄為吉が務めている長姫城跡にある飯田中学を訪ね、実験中の試験管に藍色を見付け分けて貰うシーンが描かれていました。
飯田中学では科学(化学?)の先生をしていた様ですね。手持ちの名簿で探してみると・・・743ページ 旧職員の欄に出ていました^^ 明治35年12月から大正7年4月まで居た事が分かります。担当科目までは記されていません。
では、他の期間は? 物理学校の教壇に立ったのは、卒業の翌年 明治22年から。明治27年には春草が九州の兄に仕送りを依頼しているので、その前後は九州に居たと思われます。春草が為吉宛てに送った最後の手紙の記録がありました。 宛名と差出人は
明治44年8月29日 長野県下伊那郡飯田長久寺前 菱田為吉様親展
東京府下代々木143 菱田春草
実家は仲之町ですから、為吉は親とは別の住まいを構えていたんですね。春草はその翌月9月16日に亡くなっています。その頃はまだ飯田中学に居ました。飯田中学退職後はどうされたのか?ネットで検索してみたのですが、良く分かりません。亡くなったのは昭和18年、兄弟で一番の長寿です!
検索で、為吉のお孫さんが書いているブログが見付かりました。
⇒MAKOTO’S HOMEPAGE
春草に付いては書いてありますが、残念ながら祖父為吉に付いての情報は有りません。ご自宅は練馬区でした。
先輩の斎藤純さん(高16回)も此処ふるさと情報便に書いていました^^;
⇒斎藤さんのふるさと情報便 春草Ⅱ
為吉の写真はこちらから拝借する事にしました^^大正天皇の教育係と言うのは皇太子時代ですから、物理学校卒業直後と思われます。
弟唯蔵に付いても書いてあります。東京帝国大を卒業後に教授となり、明治、大正の航空工学者として知られている・・・なんと堀越二郎の先生だった可能性があるのは、弟の方でした。(後で調べてみます)
同窓会名簿を見ると菱田姓は3名載っていました。菱田氏孝(中09)故人、菱田武夫(中19)故人・町田市・画家。
菱田宗志・在校時は天文班班長!阿智村出身。今は???春草と関係あるのかな???
菱田家の人々に付いては、もう少し調べてみたくなりました。次回は・・・④菱田家の人々 と言う事にしておきましょう。
日夏耿之介に付いても、いずれ書かなければ^^;
(高18回 高田)
温故知新(番外編)疎開されて来た方のブログ
- At 2月 22, 2019
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次は菱田為吉と書きましたが、興味深いブログを見付けたので急遽予定変更です。ご了承ください。
戦時中飯田下伊那へは大勢の方が疎開していましたね。中には後の有名人も!歌手のアイ・ジョージが飯田西中に。女優の岸田今日子は家族で来ていて飯田高等女学校(現飯田風越高校)を卒業!父親の岸田國士氏は飯田を去る際寄稿文を残しています。それは碑となって、リンゴ並木にあります。
では母校には?映画監督の恩地日出夫氏が一時在籍していました。(卒業時は東京へ戻っていたので、名簿には載っていません)
そんな中で、神戸から喬木に疎開して通学していた方のブログが見付かりました。羽生眞彦さん(高2回)です。ご本人の承諾も頂いたので、ここに紹介させていただきます。なかなか興味深いですよ。中でもウラサ(市瀬岩男先生)の思い出話は面白い^^我々の時にもクラス担任をしていたので、戦時中からズ~~と飯高一筋だったのですね。でも私は先生の授業を受けた事がありません^^;
温故知新 ② 大江磯吉
- At 2月 18, 2019
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下伊那中学校の卒業生を見てみましょう。記念碑には「生徒は65名であった」とありますが、同窓会名簿を見ると下伊那中学校修了者は50名となっています。15人の方はどうされたのか?留年?退学?当時から進級や卒業が難しかった様ですね。また「明治17年8月終了」とあります。高校の沿革を見ると、「8月に群立中学校廃止、県立中学となる」とあるので、8月に卒業となった様ですね。前回「卒業時は二の丸跡の新校舎」と書いてしまいましたが、11月に二の丸跡に新校舎竣工とあるので、卒業時はまだ専照寺と思われます。
50名の中に気になる名前が!大江磯吉と菱田為吉の名があります。
大江磯吉は皆さんご存知でしょうか?かく言う私が知ったのは数年前です^^;偶然いただいた在京飯田高校同窓会誌「稲穂」11号に、吉澤香代子さん(高14回)が書いた随想「大江磯吉の胸像建立」が載っていたのです。それまでは名前を聞いた事がある程度でした。「破戒」のモデルと言われていますが、不勉強の私は未だ読んでいません^^;
今回これを書くにあたって色々調べたのですが、「稲穂」11号は大江磯吉関連資料として飯田図書館にも所蔵されています。
こちら⇒大江磯吉の胸像建立 吉澤香代子
からその全文を見る事が出来ます。是非ともご覧になってください。
名簿に「下伊那中学校終了者」が載っているのは、吉澤さんの尽力と分かります。
胸像は、伊賀良の円通寺に設置されたとの事です。円通寺の境内にはかつて磯吉が通った「知止小学校」が在ったとの事です。では行ってみなければ!
目指す胸像は境内の庭に設置されていました。お顔が若い!それもその筈、35歳の若さで亡くなっています。当時は兵庫県柏原(かいばら)中学校長でした。そこで郷里から母危篤の知らせを受け帰郷。自身も大病を患いどうにか回復した身。そこに長旅の疲れも加わって、腸チフスに感染。帰郷はしたものの、母を看取る前にご自身が亡くなってしまったのです。
胸像の製作は南島和也さん(高43回)との事です。此処の他、下伊那教育会館、伊賀良小学校にも設置されています。
ではお墓は?下殿岡の中部労働技能教習センター脇の通路を入った所にある、共同墓地に眠っています。以前この通りを通った際、偶然 案内板を見ていました。その時は通り過ぎてしまったので、今回改めて行ってみました。
広場の脇に「従七位大江磯吉先生の一生」と記された案内板がありました。34歳の時に従七位!特別に優秀な方だった事が分かりますね。享年35歳。法名は「謙譲院秀法智才居士」法名そのままのような生涯ではあった・・・と書かれています。
被差別階層の家に生まれた事で幾多のいわれなき迫害を受けた磯吉。いわゆる「部落差別」「同和問題」ですが、私は子供の頃そういう言葉を聞いた事がありません。しかも小学校では町内会の集まりを「部落会」と言っていました。それが今では部落=被差別部落 と言う意味合いになっていますね。そんな風潮には違和感を覚えます。地元にこの様な差別があったと言うのも意外でした。
お墓の脇には、遠目でもそれと分かる案内があります。墓石には「従七位 大江磯吉之墓」と刻まれています。機会がありましたら大先輩の墓参りも如何でしょう!
大江磯吉は、島崎藤村の小説「破戒」のモデルとも言われています。それを最初に言い出したのは、どうも高野辰之の様です。氏は、唱歌「ふるさと」や「おぼろ月夜」等の作詞者と知られる文学者。出身地の中野市には「高野辰之記念館」が在ります。辰之はかつて飯山市の真宗寺に下宿していて、その寺の娘さんと結婚しています。
「破戒」の主な舞台は飯山市。主人公瀬川丑松が下宿していた「蓮華寺」の描写は真宗寺。住職は生臭さ坊主。丑松がエタと知ると直ぐに追い出し畳替えをして塩をまいた、となっています。「破戒」を読んだ辰之は、義父はそんな人物ではないと憤慨し「唖峰生」という名前で抗議文を雑誌に投稿。それには・・・しかし丑松が差別されていたのと同じようなことがあったのは本当だ。あの大江磯吉が飯山に講師として招かれた時最初に泊まった寺でも、大江が「エタ」だと知るやいなや彼を追い出し、すぐさま畳替えをして塩をまいた、そういうことが本当にあったのだから・・・とも書かれていたそうです。
藤村もこれに対し別の雑誌に反論を書いています。あれは小説として書いた。それを事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である、と。
藤村は「破戒」を書く前に飯山を取材で訪れています。真宗寺へは下宿を営んでいる寺を描く参考のため、偽名で訪れた。でも連れの女学生に問いただすと、島崎藤村という小諸義塾の先生と分かった。住職は「手厚くもてなしたのに恩をあだで返された」と言い、辰之に「破戒」を読ませたのでした。
そんなこんなで藤村と真宗寺の関係がギクシャクした時期があった様ですが、昭和40年真宗寺境内に「破戒」の文学碑が建立されています。除幕式には藤村の長男 楠雄氏も出席した との事です。
部落差別は、南信地方ではあまり耳にしませんね。でも同じ県内でも北信地方 特に千曲川流域では、被差別部落が多く差別意識も強かった様です。明治5年の「小学校令」の際にも、被差別部落の子供たちは学校に行けなかったと聞きます。
磯吉は知止小学校から飯田尋常高等小学校(現追手町小)へ進み、卒業時には成績優秀で下等科の助教に採用されています。更に下伊那中学が開校すると直ぐに入学。卒業後は長野師範学校(現信州大学教育学部)へ進んだのですから、勉学に関して差別される事は無かった様ですね。しかも地域の人々の支援も少なからずあったそうです。磯吉にとって、この地に生まれた事は不幸中の幸い とも言えそうな気がします。
次回はもう一人の大先輩、菱田為吉に付いて調べる予定です。
(高18回 高田)
温故知新 ① ルーツ
- At 2月 13, 2019
- By dousoukaiadmin
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この度HP委員会に参加する事になりました高18回 高田です。主にこの「ふるさと情報便」を担当していきます。
では何から?最初ですから、ルーツを訪ねてみたいと思います。過去先輩方も載せていてダブル事も有ろうかと思いますが、その辺はご了承ください。
本校は、明治15年にここ永昌院で下伊那中学校として開校しました。最初は寺子屋スタイルだったようですね。
永昌院は飯田城主が京極氏の時代に現在地に建てられたと言われています。脇坂氏の時他所へ移されましたが、堀氏の時代に現在地に戻されました。
伝馬町からの参道入り口に、下伊那中学校が此処で開校したと書かれた案内板があります。
境内には、独立100周年を記念して建立された記念碑があります。
細かい文字は読めますかね?
【下伊那中学校は明治15年6月27日ここ永昌院に開校 生徒65名であった。
16年 専照寺に移る。】
1年そこそこで移転したわけです。
専照寺は松川町に建てられた後、飯田城主が小笠原氏だった時代に現在地に移されたと言われます。入り口の薬医門は、伊豆木の小笠原屋敷の鼓楼門を移築したもので、その際太鼓を外し鐘と取り換え鐘楼門となっています。
本堂前のシダレザクラは、推定樹齢400年。脇坂氏の弥陀四十八願桜の1本と言われています。
【17年8月 長野県中学校飯田支校となり 11月長姫城二の丸跡の新校舎に移転したが・・・】1年そこそこでまた移転です。新校舎に移転、とあるのでお寺は仮住まいだったのかな?
二の丸跡、今は市の美術博物館ですね。この長姫の江戸彼岸は、藩主堀家の家老 安富氏の屋敷跡近くにあった事から「安富桜」とも呼ばれています。推定樹齢450年以上と言われ、県の天然記念物に指定されています。市内に数ある桜の中でも特に人気が高く、多くの観光客が訪れています。
応援歌「長姫城頭」はこう言った歴史背景から来ているのですね。
碑文の続きです【・・・19年4月閉校となった しかし中学校設置の郡民の要望が強く7年後の26年4月長野県尋常中学校飯田支校として復活し 32年4月長野県松本中学校飯田支校となった さらに郡民の熱望が実り33年(1900)4月15日独立中学校として長野県飯田中学校が誕生した】
この碑は、独立100周年記念事業実行委員会(委員長 長坂好忠 中41)の皆さんが、平成12年(2000)4月に建立しました。2,000年が100周年。覚えやすいですね。
では下伊那中学校 最初の卒業生は、どのような方が居るのでしょうか?入学時は永昌院、卒業時は二の丸跡の新校舎。これだけでも波乱に満ちていますね。名簿を見ると、その中に大江磯吉の名があります。次回はその辺を紹介したいと思います。 (高18回 高田光浩)