松尾~桐林地区の古墳
- At 8月 20, 2020
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主な古墳は国指定になっていますが、その他にも大小色々あります。今回は指定外の古墳を紹介していきます。
①上溝4号墳
おかん塚の前というか、道路を挟んで向かい側にある小さな古墳です。ちなみにおかん塚が上溝1号墳です。
石室のふた石と思われる石の上に祠が祀られています。
②羽場獅子塚古墳 5世紀後半
円墳かと思ったのですが、此処も前方後円墳でした。後円墳だけが残っています。
墳頂には祠と石灯籠が祀られています。
春になると桜に覆われる古墳です。
今度は駄科地区です。
③塚越1号古墳 6世紀後半
鈴岡公園の近くにあります。前方後円墳ですね。石室もある様なのですが、見つからず。雑草などは刈り取られ手入れが行き届いていると思いました。
墳頂には五輪塔やそれを再建したと記された石碑などがありました。
④権現堂1号古墳 5世紀後半
なかなか大きな前方後円墳です。墳丘長は60m位あるとの事。田園地帯で存在感がありますね。
上に登ってみました。すぐ横に民家があります。こちらのお宅が所有しています。
後円部の墳頂には祠が祀られていました。
桐林地区になります。
⑤丸山古墳 5世紀後半
151号線沿いの沖田石材店の裏側にあります。
ここも前方後円墳との事ですが、残っているのは後円墳だけです。お墓になっていますね。
⑥兼清塚古墳 5世紀後半
個人所有の古墳です。もう少し離れないと形も分かりませんね。
前方後円墳です。後円部には竪穴式の石室があったといわれています。
ほぼ畑ですね。
⑦蒜田(びるだ)古墳 5世紀前半
なだらかな墳丘で、説明板が無ければ古墳と気付かないですね。
5世紀前半の方墳との事です。
今度は二子塚古墳群で国指定以外の古墳です。
⑧内山塚古墳 5世紀前半
直径30m超えの円墳との事ですが、山が低くなっていて分かり難いですね。
この説明板が無いと古墳と気付きません。通りを挟んで二子塚古墳の隣にあります。
⑨黄金塚古墳
名前で期待したのですが、保存状態もイマイチで分かり難い。
近くからだと雑木林の中に墳丘が分かります。上の石は竪穴式石室の蓋でしょうか。
古墳シリーズはもう少し続けます。 つづく
(高18回 高田)
座光寺古墳群
- At 8月 17, 2020
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座光寺地区には、国指定の高岡古墳以外にも沢山の古墳が点在しています。
①石塚1号古墳 6世紀後半
これもなかなかの古墳なのですが、この上に咲く枝垂れ桜の方が有名ですね。この時期は桜メインの写真になってしまいます^^;
では改めて古墳メインで。円墳です。石室の入り口は分かりますかね?
入り口の高さは1m少々。少しかがめば入れます。
入り口からは下り坂になっていて、玄室の高さは2m少々。立てますね。墳頂には石が置かれていました。(今は上に登れません)
②石塚2号古墳
1号があれば2号も。意外と近くにありました。1枚目を撮る時に背を向けていた竹藪が2号古墳でした。
ここも墳丘は墓地になっています。
反対側に回り込むと石室の入り口が!とても狭いので入るのはあきらめ、カメラだけ中へ。意外と大きい石室でした。
③北本城古墳 6世紀初め頃
元々は全長24mの前方後円墳で別の所にあったのですが、昭和56年に座光寺小学校移転新築にともない移動。石室部分は座光寺小学校敷地内に移転保存されています。
石室の高さは1m少々。朝鮮渡来人との繋がりがある古墳と言われています。
④畦地1号古墳 6世紀前半
高岡古墳辺りから座光寺美女交差点へ抜ける道筋の、チョッと高台にある円墳です。階段を上って行きます。
墳頂の少し下に石室があります。銀の耳飾りが出土した事で、朝鮮との繋がりがあると言われています。
⑤平地2号古墳
円墳ですね。かつてはこの辺りに12基の古墳があったと言われていますが、残っているのはこれだけ。1号も3号もありません。
石室がありました。中を撮影してみたのですが、ゴミが入っちゃってますね。
⑥石行2号古墳
飯田産業センター(旧飯田工業高)近くの畑の中にある円墳です。
チョッと分かり難い古墳ですね。近くからだとそれなりな感じ。
案内板です。石室は無かったとあります。
⑦最後(サイミ)塚古墳
ここも桜の方が有名ですね。エドヒガンの夫婦桜です。
桜の根元には宝篋印塔が祀られています。
説明板によると、武田氏と知久氏との戦いで亡くなった方達を埋葬した塚とも言われているようです。でも埴輪片が出土しているともあるので、其れなりに古い物かもしれません。
他にも未だありそうですが、以上座光寺古墳群でした。(撮影は2~3年前です) つづく
(高18回 高田)
史跡飯田古墳群 ②
- At 8月 14, 2020
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今度は竜丘です。
⑧ 大塚古墳 5世紀後半
こちらも前方後円墳です。
墳丘はお墓となっているようです。竪穴式石室があったと推定されています。
⑨ 塚原二子塚古墳 5世紀末
バイパスが通ったことで分かり易くなった前方後円墳。2014年に竜丘古墳の会の皆さんが石碑を立てました。この辺りには大小16基の古墳があったされる事から、塚原古墳群と呼ばれています。
竪穴式石室があったと推定されています。もしかしたらこの石の下が石室かもしれませんね。
⑩ 鏡塚古墳 5世紀後半
帆立貝型古墳です。果樹園になっていて形も分かり難いですね。鏡が出土したとの事です。
⑪ 鎧塚古墳 5世紀後半
帆立貝型古墳ですね。鎧が出土した事からこの名になっています。
春には色の濃い桜に覆われます。
⑫ 馬背塚古墳 6世紀末
前方後円墳です。国道151号線沿いにあるのですが、一段高い所なので通りからは見えません。
裏側に廻ると墳丘の上に続く階段があります。氏神様が祀られています。
前方と後方に横穴式の石室があります。入り口は狭く入りにくいですね。
後円部の石室は、落石の危険ありで閉鎖されていました。
⑬ 御猿堂古墳 6世紀中頃
前方後円墳ですが、全体的にお墓になっています。
石室もあります。ただ見るからに入り口が狭い。入るのは断念してしまいました^^;
以上が国指定遺跡となった13基の飯田古墳群です。この他にも古墳は沢山あります。古墳シリーズはもう少し続ける予定です。
撮影したのは2~3年前なので、今は多少変わっている所もあるかと思います。ご了承ください。
(高18回 高田)
史跡飯田古墳群 ①
- At 8月 12, 2020
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飯田には古墳が沢山あります。古墳の宝庫と言っても過言ではないでしょう。皆さんはご存じでしたか?私は最近まで知らずにいました^^;かつては500基以上あったそうです。
前方後円墳はヤマト王権の影響下で造られたと言われていて、県内の凡そ半数が飯田にあります。その数の多さから飯田はヤマト王権と密接な関係にあったと思われます。
今も残る18基の前方後円墳と、4基の帆立貝型古墳を飯田古墳群と呼んでいます。この内11基の前方後円墳と2基の帆立型古墳が、平成28年10月に国の史跡に指定され史跡飯田古墳群となりました。
ではどんな古墳なのか御紹介していきましょう。
①高岡第1号古墳 座光寺 6世紀後半
これだけは小学校で習いました。立ち木に覆われていて、近くからでないと前方後円墳の形が分かり難いですね。円墳の上には高岡神社が祀られています。以前は県の指定遺跡でした。
今は国の指定史跡です。
横穴式の石室があり中に入れます。規模の割には小さな石室。写真右上の石に赤い色が残っています。多分全体が赤く塗られていたと思われます。
②飯沼天神塚古墳 上郷雲彩寺裏 6世紀前半
以前は竹やぶに覆われていて分かり難かったのですが、竹を切ったおかげで前方後円墳の形が分かり易くなりました。
石室もあります。雲彩寺で申し込めば中に入る事もできます。本来の出入り口は奥の細い穴で、今の入り口は後からの物だそうです。あの細さでは這って入るしかなかったですね。今そちらは塞がれています。
松尾には沢山の古墳があります。
③御射山獅子塚古墳 5世紀末~6世紀
ここも前方後円墳です。
飯田バイパスから見えますね。上郷方向へ向かって左側に見えます。石室があったと伝えられていますが、まだ見つかっていません。
④おかん塚古墳 6世紀後半
前方後円墳なのですが、後円部しか残っていません。
横から道路の反対側に回り込むと、石室の入り口があります。入口に置いた白い棒は1mです。ちょっとかがまないと入れません。
通路に当たる羨道と遺体を納める玄室からなるこの石室は最大級です。天井までの高さは3m以上ありそうです。
また天井石の大きなこと!古代の人たちはいったいどうやって組み上げたのでしょうね?
⑤上溝天神塚古墳 6世紀中頃
見た目はちょっと分かり辛いですね。前方部が無くなっていますが、此処も前方後円墳です。墳丘に天神社が祀られていることから、天神塚古墳と呼ばれています。
社の裏側に回ると石室の入り口があります。あまりかがまなくても入れます。
石室は細長く羨道と玄室の区別は無さそうです。床には玉石が敷き詰められています。
ここも天井までの高さは3m程ありますね。
⑥姫塚古墳 6世紀前半
ここも前方後円墳です。
階段は後からの物ですね。この石橋の下に石室への入り口があります。墳丘の上には氏神様が祀られています。
入り口は狭く低いので、腰を落とさないと入れません。
石室はおかん塚などと比べると小さいですね。立つ事は出来ません。赤く塗られた赤彩が良く残っています。魔除けの意味があるとの事です。
⑦水佐代獅子塚古墳 5世紀後半
やはり前方後円墳です。後円部におたちふの桜として親しまれているエドヒガンがあります。石室もあったと言われていますが今は入り口も分かりません。
横からは両サイドに民家が在ったりして、全体像の撮影は難しい^^;
全部を紹介していると長くなってしまうので、前半はこれまでとします。
つづく (高18回 高田)
高田万由子は田中平八の末裔!
- At 7月 24, 2020
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エッ?と思われる方が殆どでしょうね。私もビックリでした^^:
以前、田中貴金属は田中平八の系統と聞き、真偽のほどを調べた事がありました。結果、田中貴金属の創業者・田中梅吉(1853年)と田中平八(1834年)とは、生まれ年からみても無関係でした。その際、代わりに繋りが分かったのが高田万由子でした。
田中平八は、1834年(天保5年) 駒ケ根に生まれました。
藤島家の3男で幼名は釜吉でした。飯田へは魚屋の丁稚奉公として来ています。
その後1853年(嘉永6年)飯田城下の染物屋の娘 田中はると結婚し、田中家の婿養子となりました。でも家業の染め物に携わった様子はありません。名古屋や江戸へ出て色々したようですが成功せず。
しかし1865年(慶応元年)横浜に開業した「糸屋平八商店」が大当たり。主に飯田地方の生糸を輸出して財を成したと伝わっています。更に、為替・洋銀・米相場で巨利を得て、通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれる様になりました。
1876年(明治9年)に東京で田中組(後の田中銀行)を創立。1878年(明治11年)には東京株式取引所を設立し、同時に大株主となっています。
1883年(明治16年)に東京米商会所(現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取に就任。この米商会所の株式を上場。これも仕手戦にして、大儲けしたそうです。
病気となり熱海で療養中には、私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設。私財でやってしまうとは、凄いですね。1884年(明治17年)に50歳の若さで亡くなりました。
平八の会社「糸屋」はその後、日本橋茅場町で⇒糸平興産株式会社として今に続いています。そういえば⇒田中貴金属も平成18年まで本社所在地が日本橋茅場町であったため、混同されたものと思われます。
飯田高校はラグビーが盛んですが、日本ラグビーの父と言われる田中銀之助は、平八の長女の子(長男)です。
ケンブリッジ大学に留学。ラグビーとの出会いは、そこでエドワード・B・クラークと出会ったのがきっかけ。
帰国後、クラークと共に慶應義塾の塾生にラグビーのルールについて伝え指導したと言われています。
飯田警察署の横に「天下の糸平」の碑があります。
この辺り一帯は田中染物店の跡地でした。広大な土地ですね。1901年、下伊那郡立下伊那高等女学校設立時に、敷地は田中家から寄付されたそうです。後の県立風越高校ですね。(高校1年の時、新聞班の交流会での記念写真。知った顔がありますかな?)
その後、飯田警察署と創造館が置かれた訳です。
平八の碑は、伊藤博文の書に寄る物が東京向島にもあります。そこへは在京支部の皆さんが、歩こう会で訪れています。⇒第12回「飯田ゆかりの地を歩こう会」
一方、高田家は・・・
祖先の高田慎蔵は佐渡の出身。4歳の時、父の同僚高田六郎の養子となり高田姓になっています。二人とも養子に出て姓が変わっていますね。
明治3年(1870年)上京、ドイツ商館アーレンス商会の丁稚となり商業の道へ。明治11年(1878年)ドイツ人武器商人のマルチン・ミカエル・ベアのベア商会に通弁兼事務官として勤務。明治13年(1880年)ベアの廃業の後を継ぐかたちで、アーレンスとスコット(ベアの番頭)と共同経営で高田商会を設立。
欧米より輸入した機械・船舶・武器・軍需品などを中心に取り扱っていた高田商会にとって、富国強兵を掲げ近代化を推し進めていた当時の状勢は追い風となり、1894年(明治27年)の日清戦争で巨額の利益を上げた。更に事業を拡大し、ニューヨーク・ロンドン・上海等に支店を設ける。ベアから欧州各国の大製造所の代理店も譲り受けており、日本海軍を大口顧客としたアームストロング社も取引先のひとつでした。
明治29年(1896年)関連会社として高田鉱業、旭紡績、永楽銀行を創設。明治32年(1899年)にはアメリカの電気機械メーカー、ウエスチングハウス社の代理店になる。東京の街灯が一夜にして電灯に変わったのは、高田商会の成せる技だそうです。
もう大手の輸入商社ですね。更に日露戦争では海軍省御用となり、軍艦等の軍需品を納め豪商となりました。有力機械輸入商社に成長し、明治41年(1908年)合資会社に改組。傘下の事業を株式会社にし、一代で高田財閥を築き上げたのです。
文京区湯島一帯は高田家の土地でした。自宅は超豪邸で、設計者は鹿鳴館を手掛けた建築家のジョサイア・コンドル。高田邸の設計図が京都大学に残っているそうです。高田商会本店(麹町)・別邸(赤坂表町)もコンドルの設計。
慎蔵の妻のたみ子は東京の商家の娘(旧姓池田)。慎蔵には七男五女の子があったが、男の子が相次いで亡くなり5男の倉蔵は養子に行くことが決まっていた。そこで、次女・雪子の婿に田中釜吉を迎え、慎蔵の事業を継がせた・・・という事で田中平八と繋がったのです。
田中釜吉⇒高田釜吉は、田中平八の3男として明治9年(1876年)に生まれました。父の幼名釜吉の名が付けられました。(写真は何歳の頃か分かりませんが、なかなかのイケメンですね)
優秀だった釜吉は、ドイツへ留学。ベルリン工科大学で最新の機械工学を学び、明治34年に帰国。そして芝浦製作所に入社。更に東京電灯(現・東京電力)に技術部副部長として招かれ、技師として活躍。
跡継ぎに悩んでいた慎蔵は、釜吉に白羽の矢を!こうして高田家の娘婿となった釜吉は、明治42年に高田商会の副社長に就任。更なる事業拡大を進めました。大正元年に慎蔵は釜吉に采配を譲り、自らは56歳で顧問に。大正8年(1919年)には完全に引退し、全ての経営を釜吉に任せました。
釜吉は父親譲りと思われる豪遊ぶりで、花柳界では「釡大尽」と言われていました。社員たちも取引先の接待という名目で料亭に繰り出し、奢りの気風が社に蔓延。大正7年頃までは景気も良かったのですが、大正10年に慎蔵が病没すると雲行きも怪しくなってきました。
大正12年は悲劇の年。4月に高田鉱業深田銅山が全焼。更に9月に関東大震災で自社ビル消失。大量の輸入在庫も焼失。更に思惑で輸入した大量の物資が、円相場の急騰で暴落。復興には大量の木材が必要になると踏んで買い占めた千葉の山林も、アメリカ等から安い木材が大量に流入して大赤字。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会ですが、大正14年2月に破綻してしまいました。高田財閥の名も人々の記憶から消えていくことに。釜吉は責任を取って退陣。昭和32(1957)年、81歳で亡く なりました。会社はその後も元社員の手で続き、今も神田鍛冶町に在ります。⇒株式会社高田商会
家族は・・・
妻・雪子との間には、一人娘の愛子を授かりました。成人した愛子は北岡正見と結婚。北岡家に嫁いだのです。となると、跡取りは?
北岡正見は東大医学部卒の医学博士。国立予防衛生研究所でウイルスの研究をしていました。今居ればコロナウイルスの研究に携わっていたでしょうね。
北岡家の長男・祐一は、高田家に養子として入り高田祐一となりました。この頃の高田家は湯島一帯の土地や豪邸は失ったものの、虎ノ門に豪邸を構えていました。母 愛子の両親(釜吉と雪子)の所ですね。養子として入ったのは何歳の頃か、ちょっと分かりません。この祐一が高田万由子の父親です。
では母親は?名は智子(さとこ)、旧姓は分かりません。武蔵野女子大在学中に祐一と出会い、卒業後23歳で結婚。年の差は11歳とか。モデル経験もあるという美人。二人の一人娘が、1971年(昭和46年)に生まれた高田万由子です。
こちらに高田家3世代女性の写真がありました⇒BVLGARI 歳の差があまり分かりません^^;
万由子の美貌は母親ゆずりですね。頭脳は・・・祖父の北岡正見からでしょうか?
父親の高田祐一は何をしていたか? UNION・高田商会の経営者。曾祖父の高田商会とは別物で、外車の輸入販売会社でした。それも、ベンツやロールスロイスといった高級車がメイン。注文を受けると直ぐにヨーロッパに飛び、一週間で納車・・・セレブ相手のセレブな商法だったようです。
万由子は小学校から高校まで白百合学園。父の祐一がロールスロイスで送り迎えをしていたそうです。
更に一年間スイスの ル・ロゼ学院に留学。此処も超セレブな学校で、休みになると校庭に迎えのプライベートジェットが何機も着陸したとか。
東大文学部西洋史学科に入学すると、父からの入学祝はガルウィングの車!とにかくセレブです。しかし、大学時代のお小遣いは3,000円/月だったとか^^;
趣味は乗馬。更に狩猟の免許も持っている。家族は皆狩猟免許を持っていて、釜吉の代から高田家の伝統なんだとか。強制的に取らされたそうです。
👈芸能界へのきっかけは、篠山紀信の女子大生シリーズで週刊朝日の表紙モデルに起用された事(1991年7月26日号)。その後ミノルタのCMへ。このコースは宮崎美子と同じですね。
紀信は、1994年に虎ノ門の万由子の実家で撮った写真集「T邸の怪(ケ)」を出しています。万由子が週刊朝日の表紙モデルになった縁からでしょうか。でも既に廃墟となってからの撮影のようです。巻末に、高田祐一氏の多大なご協力をいただきました・・・とありました。
家は凄いスケールです。ホテルオークラに隣接で、敷地は500坪。その半分は庭。家は大正時代に建てられ洋風と和風が半々という大豪邸。部屋の数はよく分からなくて、万由子が入った事がない部屋もあったとか。洋間には暖炉。父が庭の木を切って薪を作っていたそうです。田舎ではなく、東京のど真ん中でこんな暮らしとは!
建物は2002年に解体され、今は⇒「虎ノ門タワーズオフィス」という41階建てのビルが建っています。一体いくらで売れたのでしょう?もしかしてオーナとか?もう想像もつきません^^;
母が住んでいる実家の方は、西麻布のマンションだそうです。詳細は分かりませんが想像すると、1フロア全部、もしかしたら1棟丸ごとなのかも?
万由子は1999年ヴァイオリニストの葉加瀬太郎と結婚。葉加瀬太郎は結婚の申し込みに何度も実家を訪問。父は、「許さない」と言って門前払いの繰り返しだったそうです。最終的には熱意に負けて折れたんでしょうね。美女と野獣といったイメージも無きにしも非ずですが、アプローチは万由子の方からだったそうです。さもありなん!容姿端麗・頭脳明晰・セレブなお嬢様。しかもモデル・タレント・女優・・・そんな女性は、男にしてみればとてもハードルが高い。憧れるけれど近付けない。かえって引いてしまう。なので待っていても誰も来ない。そう思うのは私だけ?^^;でも、有名女優でそんな感じで独身の人、結構居ますよね。
1999年7月、長女 向日葵(ひまり)誕生。あら、出来婚ですか?^^;バイオリンをやっていて、イタリアのジュニアコンクールで金賞。父親の指導かと思ったら、教えているのは母の万由子なのだそうです。弾けないのに指導が出来るとは!父が直接指導すると厳しくやってしまうので、母親経由の指導なのだそうです。
2004年10月、父祐一 68歳で病死。早すぎますね。会社の方は・・・今はもうありません。
2006年8月、長男 万太郎 誕生。父の生まれ変わりかと思うほど似ているそうです。容姿だけでなく趣味とかも。料理が好きでその腕もなかなか。これも父に似ているとの話です。
万由子ファミリーはロンドン在住。世界を飛び回る葉加瀬太郎の活動拠点にもなっている。ここもまた豪邸。ミュージシャン仲間が集まってリハーサルする事もある・・・どんだけ広いんだ?二人の子供はロンドン育ちですね。
でも長男は、「日本人なんだから、日本の学校も経験したい」といって日本の学校へ編入。万由子は相変わらず、日本とイギリスを行ったり来たりの生活。コロナ禍の今は、不自由しているでしょね。
葉加瀬太郎も葉加瀬家の長男なのですが、高田家に婿養子として入りました。それも多分結婚条件でしょうね。なので今の本名は、高田太郎です。二人の子も当然高田姓で、高田向日葵と高田万太郎。
必要以上に長く書いてしまった感もありますが、最後にまとめを^^;横書きですが家系図っぽく書いてみます。
高田万由子⇒父 祐一⇒その母 愛子⇒その父 釜吉⇒その両親 田中平八&はる。
平八は駒ケ根生まれ。はるは飯田生まれ。高田万由子には信州人の血が流れていると、いっても過言ではないですね^^;
当のご本人は、此処まで知っているのかな?
高田の読みは、タカダではなくタカタ。ジャパネットと同じですね。
書いている私も高田なのですが、読みはタカダです。当然ですが、何の関係もありません^^;
*文中の敬称は略。ご本人の各写真はネットから借用。T邸の怪 は私の所有本。
(高18回 高田 記)
令和2年7月豪雨による飯田下伊那地方の被害
- At 7月 16, 2020
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例年になく日本列島にベッタリ貼りついた梅雨前線。線状降水帯が続いた九州、四国、中国地方、は大変な被害となりましたね。皆さんの所は如何でしたか?
飯田地方も激しい雨が続きました。
被害の状況ですが、座光寺で73歳の男性が一人亡くなりました。
大王路の牧内正継(ただつぐ)さんが、自分の畑を見に行って土砂崩れに巻き込まれたとの事⇒信濃毎日新聞の記事
元善光寺では、本堂内のお戒壇巡りの通路が深さ50㎝程浸水したとの事。
飯田線は、中井侍~小和田間で土砂崩落のため不通に。飯田高校も10日まで3日間休校しました⇒信濃毎日新聞の記事
復旧には3カ月掛かる見込み、との事⇒信濃毎日新聞の記事
喬木村の県道大島阿島線で土砂崩落。通行不能となり大島地区が孤立状態。また大鹿でも、土砂崩落の恐れなどから釜沢地区に通じる県道が通行止めとなり孤立状態に。⇒信濃毎日新聞の記事
豊丘村神稲でも、村道脇の斜面が崩れ男性が一人巻き込まれて怪我⇒信濃毎日新聞の記事
以上が主な被害です。
天竜川が心配という方も居られるかと思いますが、氾濫する様な事もなく三六災害の様な大事には至らず。
治水工事の成果ですね。
(高18回 高田)
今年の花火は15分?
- At 7月 08, 2020
- By dousoukaiadmin
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コロナ禍のおかげで、地元のイベントはことごとく中止になっています。
感染者は最初の4人だけなんですがね~。
皆さん必要以上に過敏になっている様な気がします。
昨夜(7/7)は冨士山(フジヤマ)稲荷例大祭(麦わら祭り)の奉納煙火。
例年ですと2時間近く花火が上がります。
でも今年は15分だけ。
此処の花火は雨の確率が高いのです。梅雨時ですからね~。
小雨だったので、一応行ってみました。
向かっている時は小雨でしたが、花火が始まると雨はやんでいました。
花火の方は、単発ありスターマインありでなかなかでした。
でも写真がね~~・・・ヘボで、失敗作多発でした。。。スターマインの重ねすぎとか
これも時間のかけすぎですね。
これは逆に短すぎ。もう少し露光を長くした方が良かったかな。
短時間の花火撮影は難しい^^;
雨の方は、後片付け中からまたパラリ。花火の間だけ止んでいたなんて・・・こんな事もあるんですね~^^
今年は色々な祭りが中止になりまして、今年の花火はこれだけかもしれません。残念。
今年は中止と決まっているイベントは・・・
7月18日 りんご並木歩行者天国イベント(橋南夏まつり) 中止
7月25日 水神橋納涼花火大会 中止
8月6日~10日 いいだ人形劇フェスタ2020 中止
8月13日 平谷村納涼煙火大会 中止
8月14日 大鹿村夏祭り2020花火大会 中止
8月15日 たかぎふるさと祭り 中止
8月8日 飯田まつり・飯田りんごん 中止
8月16日 飯田時又灯ろう流し 中止
*** 売木高原盆踊り協賛煙火大会 中止
8月18日 市田灯ろう流し煙火大会 中止
8月22日 大宮諏訪神社秋季祭典 中止
*** 矢高諏訪神社秋季祭典 中止
9月12日 鳩ヶ嶺八幡宮秋季例大祭 中止
9月12日 今宮郊戸八幡宮秋季祭典 中止
現段階で分かっているのは以上です。もう殆ど中止ですね。
(7/7 撮 高18回 高田)
飯田市立動物園
- At 5月 07, 2020
- By dousoukaiadmin
- In ふるさとブログ, ふるさと情報便
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緊急事態宣言、又延長になってしまいましたね。長野県は少し緩和され、県立校は16日から分散登校で自習、23日より授業再開となるようです。
今日は私もステイホーム。蔵出し映像で動物園。アニマル写真でなごんで頂ければ幸いです^^
飯田市立動物園は入園無料なんですよ。でも5月末までコロナ休園です。
でもめったに外に出ていないのですよ。ある意味これは貴重映像^^
右へ行くとアンデスコンドル。コンドルは・・・飛んでいません^^;
コンドルの前はペンギンです。池は外からも見える水槽になっています。
水槽の中と外、両方を見る事が出来るのはいいですね^^
隣はフラミンゴです。結構いますね~!何羽いるのかな?
この裏側はチビッ子ランド。弁慶号などの遊具と、おとなしい動物がいます。ポニーとかね。
大きなリクガメもいます。
この山羊は、高い所が好きなようですね。
チビッ子ランドから戻って、バードホールへ!この孔雀が羽を広げたところは未だ見たことがありません。白鷺もこうしてみると奇麗ですね^^
バードホールなのに、ここにはリスもいます。尻尾が大きいですね^^
アネハヅルとカルガモですね。カルガモと言えば・・・
以前甲府の公園で野生のカルガモを撮っていたので、ちょっと紹介。子育て中ですね^^
ライチョウは丸くなって卵みたい^^ こちらは三者会談?おどけた目をしているのはガチョウですね。
立っているのは見張り役ですね。他の子はくつろいでいる^^見張り役は交代のようです。アップで見るとなかなか頼もしい目つきに見えます。
お隣は猿山です。
サルもお花見をするのかな?カップルはノミ取りしているのかな?
対面にはアルビノの白いタヌキがいます。県内ではここだけです。人気物なんですが昼間は寝ていることが多いんですよ^^;
こんな風に外に出ていたらラッキー^^ 最近目の下にできものが出来たのかな?
今度はイノシシです。これも外に出ていたらラッキーです^^
ニホンシカが居ます。
シカと言えば厳島神社に行った時、面白いシカを撮りました。顎が痒かったのかな?^^;
番外編をもう一つ。遠山郷の旧木澤小学校に住み着いている、猫校長です!猫は気まぐれだから会えればラッキー^^v それにこのポーズ、貫禄も漂ってますね^^
如何でしたか?動物たちに癒されましたか?多少なりともほっこりしていただければ幸いです^^
最後に長野県の新型コロナ感染状況。
5/6 にまた一人上田で確認され、感染者の累計は73名となりました。ジワジワ増えています。幸い飯田保健所管内では、4月初めに確認されて以後は感染者が出ていません。とはいえGW中は、県外車も結構来ていたようです。感染者でなければ良いのですが・・・
(2013~2020 撮 5/7 高18回 高田)
桜情報 最終回
- At 4月 29, 2020
- By dousoukaiadmin
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自粛でステイホームのGWとなりましたが、皆さん如何お過ごしでしょうか?私もステイホームのまま過去の写真で、今頃咲いてるであろう桜を紹介します。平谷、売木、阿南町ですね。
平谷村の浅間様の枝垂れ桜です。樹齢は100年余りです。撮影は 2014/4/27 です。今年はどうなっているでしょう?
こちらは薬師堂の枝垂れ桜。樹齢は80年余との事。根元の物置の様な建物が薬師堂。
今度は売木村で、神重の桜です。平谷峠を越え売木に入る道沿いにあるので、目立つ枝垂れ桜です。
観音堂の枝垂れ桜です。右奥の建物が観音堂。
すぐ隣にある宝蔵寺の枝垂れ桜。
なかなか立派で見応えがあります^^
宝蔵寺はその名前から縁起がいいとされ、宝くじの当選祈願に訪れる方も多いとか。金生山宝蔵寺ですからね~^^
売木には他にも良い桜が結構あります。暫く行っていないので今年は・・・と思っていたんですけどね^^;
今度は阿南町です。新野に在る瑞光院の枝垂れ桜をご覧ください。こちらの撮影日は2017/4/28 です。
観音像とのコラボも良いですよ!今年の桜は早いので、もう散っているかもしれません。
最後に阿智村園原の花桃をご覧ください。
撮影日は2013/5/4・・・うっかりGWの最中に行ってしまったんですよ。人もいっぱい車もいっぱいで駐車場もなし。
おまけに帰り道は大渋滞。国道に出るまで1時間ほど掛かりました^^;今年はどうなんでしょうね?
こんな時は、園原インターから入って中津川で折り返した方が早いかもしれません。まぁ余計な高速代が掛かってしまいますが^^;
今年はコロナ自粛で帰省予定が狂ってしまった方も多いかと思いますが、お花見はここで我慢してくださいね。また、次の機会の参考として頂ければ幸いです。
(高18回 高田)
自粛して自粛して・・・阿智村の桜
- At 4月 26, 2020
- By dousoukaiadmin
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GWだというのに今年は自粛自粛で落ち込んでしまいますね。いつもなら今頃は帰省して・・・という方も多勢かと思いますが、今年はそうもいきませんね。長野県内の感染者もジワジワ増えて、4/24時点で65人となっています。知事からも自粛要請が出ています。私も自粛でステイホームです^^;
という事で桜情報もリアルタイムはあきらめて、過去に撮影したデーターで^^;今年は桜の足も速いので、もう散っているかもしれませんが^^;
阿智村から清内路の黒船桜です。村の天然記念物に指定されている桜です。
ペリー来航時に植えられたとされるシダレザクラで、黒船桜と呼ばれています。例年だと観光バスで団体さんも来ているのですが、今年は静かだったのでは。ここは多分もう散っていますね。
3本の桜が並んでいますが、夫婦は両側。真ん中は他人様の桜だそうです^^;
左端が婦桜。最初からのは枯れちゃってね、今のは後妻なんだよ、とは住職さんの話。夫桜の方は樹齢200年以上との事ですが、見た目は300年以上。後妻が来たら元気になったそうです^^;
園原の駒つなぎの桜です。以前は手前の田に水が貼られていなかったのですが、この年に再開。
一見のどかに見えるかもしれませんが、実は大変な所です。柵の前では三脚で場所取りをしている大勢のアマカメラマン。昼間から夜のライトアップまで居座っているんですよ。今年はどうだったのかな?
浪合地区です。浪合小学校の葵の桜です。明治16年の学校創建時に植えられたとの事です。
首検分碑の桜。桜の下にそのいわれを刻んだ碑があります。
碑文は読めますかね?『天正十年春三月十四日 織田信長 光秀を従え此の地に出陣 武田勝頼・信勝父子の首を検分する』とあります。織田軍は、天目山で自害した父子の首をとりこの地で信長に渡したとの事。
御所桜です。御大層な名前ですね^^;南北朝時代、後醍醐天皇の孫 尹良(ゆきよし)親王がこの地に陣を置いたという事で、この辺りは御所平の名が残されています。
尹良親王は北朝方の兵に襲われ、民家に逃げ込んで自害したと伝えられています。浪合神社にはその親王の墳墓があります。県内唯一の皇族の墓とされ、宮内庁の管轄となっています。
浪合は歴史的な場所ですね。
(2017~18、4月 撮 高18回 高田)