中川村の銀杏並木と紅葉アチコチ
- At 11月 15, 2021
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南信州の中川村渡場地区にあります。南方(みなかた)発電所の放水路用地に、地元住民の方達が30本の銀杏を植えました。それが良い銀杏並木になって、見頃を迎えています。バックに見えている白い建物が南方発電所。
この日(11/13)は天気も良く、土曜日という事もあって多くの人が訪れていました。
こちらの乳母車、乗っているのはワンちゃんでした^^
地表は黄色の絨毯ですね。
山を見ると、中央アルプスが冠雪していました。
では、銀杏の窓から中央アルプスを!
中川の銀杏並木は、とても良いですね^^
こちらはもみじ湖です。場所が下伊那ではないのでアップを迷ったのですが、この際ついでに^^;もみじ湖は箕輪ダムのダム湖です。でも水面近くに紅葉はあまりありません。
周辺道路の両側や広場に沢山あります。この日(11/4)は好天に恵まれたという事もあって、大勢の人が来ていました。
何処で撮っても絵になる感じです。もう真っ赤ですから。
真っ青な空にウロコ雲も良い感じ。
ススキも丁度いい所に^^
11/4 の撮影なので、見頃は既に過ぎているかもしれません。
こちらは地元です。松尾の龍門寺も紅葉が見頃です。こちらは11/10 の撮影。
近くの八幡神社(鳩ヶ嶺八幡宮)では、ライトアップもしています。
池の水鏡も綺麗ですが、足元が暗いので注意が必要です。ライトアップは11/20まで。
(高18回 高田)
天龍峡の四季桜と阿島の曙月庵
- At 10月 26, 2021
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天龍峡で桜が咲いています。この時季に?今咲いているのは四季桜です。天竜峡大橋の空さんぽを渡って、千代側に沢山あります。
春と違って、まばらです。四季桜は花も小さい。
空さんぽを渡った一段上の広場には花壇があります。コキアもあります。
花の種類は多いですね。名前が良く分からない^^;これはピンクのホタルブクロで良いのかな?
こちらは野菊かと思ったのですが、葉が細いのでヤナギバヒマワリでしょうかね?
蛇の目菊では?との声を頂きました。いかがでしょうかね?
此方も綺麗と思って撮ったのですが、名前が全く分かりません。ご存じの方は居ませんか?
空さんぽを戻ると、天竜ライン下りの舟が通過。
ところ変わってこちらは阿島の曙月庵(しょげつあん)江戸時代から残る茶室です。しかも珍しい2階建て。
こちらで阿島傘の展示がありました。和のコラボですね。詳細は>曙月庵と阿島傘.pdf(2MB)
室内にも!
二階への階段と二階の部屋。階段はとても急で狭かった^^;
二階から庭を見ると・・・ベランダ部分は立ち入り禁止。腕を伸ばして撮影^^;
夜は竹を加工した竹灯篭で照明するという事で、時間をおいて再度訪問。入口への通路もこの照明。
また雰囲気が変わりますね。
赤い傘は昼間よりも鮮やか!
部屋から庭を見ると・・・外がちょっと暗すぎて、写真的には辛いですね。
こちらはストロボを使ってみました。雰囲気が損なわれるね~^^;
阿島傘、昔は私も使っていましたが、今はもうジャンプ傘が主流ですね。昔は作り手も大勢居たのですが、今は僅か。商売と言うよりは、伝統工芸の継承の為ですね。別の場所には阿島傘伝承館が在ります。
上から見ると傘の形になっています。昔の事ですが、雨の日に阿島傘を持って、ほうばの下駄で山手線に乗っていた事を思い出しました^^;
曙月庵での展示は来週(10/29~31)にも行われます。機会があれば訪ねてみてはいかがでしょう。曙月庵の見学は普段も出来ます。入場無料です。
(10/23・24 撮 高18回 高田)
南アルプス初冠雪
- At 10月 21, 2021
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昨日は秋晴れのいい天気。南アルプスが白くなっていると気付きました。多分初冠雪ですね。
仙丈は薄っすらですね。
此方は農鳥岳になるのかな。
夜になるとこの日は満月。雲も少なく綺麗に見えました。中秋の名月?は先月でしたね。今回はハンターズムーン。狩りの月。ネイティブアメリカンの呼称で、狩りのシーズンから来ている様です。
全くもって個人的な事で恐縮ですが、我が家では炬燵を出しました^^;
(10/20 撮 高18回 高田)
豊丘村/ダリア園・てっぺん公園 他
- At 10月 08, 2021
- By dousoukaiadmin
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豊丘村にはダリア園があります。実は知ったのは今年ですが^^;
場所などは此方を参考に>豊丘ダリア園
維持協力金として200円/1人 必要です。それほど広くはないのですが、種類は沢山。
赤・ピンク・黄色 など、一口にダリアと言ってもこんなに種類があるとは知らなかった^^;
個々の名前などは分かりませんが、アップも撮ったのでご覧ください。
同じピンクでも形は色々。
これは開花時期によるものでしょうか?それとも種類の差?
此方も赤系。
白系も!
バックは青空が良いね。
今度は黄色!
ダリア園なのにケイトウも^^
花に誘われ蝶々も。
この蝶は何でしょう?
シジミ系なのか、ヒョウモン系なのか?私的にはツマグロヒョウモンの♂ ではないかと思いますが、言い切るだけの自信はありません^^;
天気が良かったので、福島(ふくじま)てっぺん公園へも。見晴らしの良い所です。
ここでは赤トンボを見つけました。久し振りに見たような気がします。
更に珍しい蝶が!アサギマダラです。たまたま詳しい方が居て教えてもらいました。
カップルでしょうか?もう1羽。(余談ですが、学術的には1羽ではなく1頭と言うのだそうです)
新聞記事(10/8)によると、海を渡って超距離移動する様です。フジバカマの花が好きなので、蝶の為に植えたとか。それによって去年から来るようになったとの事。花が終わって蝶も移動したらしいので、この日(10/2)が今年最後だったのかも。
てっぺん公園には竹ホウキが置いてあります。掃除の為ではありません。これで魔女のように空を飛ぼうと言う物。地域おこし協力隊の方が考案したそうです。実際に飛べる訳ではなく、飛んだように見える写真を撮って遊ぼうという事。この日もそれを楽しんでいる親子が!先ずはお母さんが飛んでみる。
実際に撮ってみると、タイミングがなかなか難しい^^;でもこの遊び、ここでは結構定着している様ですね。皆さんも試されてみてはいかが^^
豊丘村と言えば、この時期は松茸ですね。今年は豊作の様です。道の駅「豊丘マルシェ」に寄ってみました。時間的には少々遅かったのですが、結構並んでいました。
お値段は?このサイズでは読めませんね。ではもう少しアップで!
豊作とは言え、結構なお値段ですね。午前中ならもう少しお手軽なパックがあるかもしれません。
道の駅の横には観光バス用の駐車場も。この日は3台入っていました。隣にはレンタサイクル(電動自転車)もあります。裏の河川敷にはマレットゴルフ場も。なかなか良いコースです^^豊丘村、訪れてみてはいかが^^v
(10/2 撮 高18回 高田)
殿様の墓所 長久寺 大宮神社
- At 9月 28, 2021
- By dousoukaiadmin
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江戸時代飯田藩を12代に渡って治めた堀家の墓所が、長久寺に在ります。大宮神社の裏ですね。薬医門と漆喰塗りの白壁に囲まれていて、特別の墓所と分かります。
説明板もあります。見てみましょう。此処には6代 親蔵(ちかただ)、9代 親民(ちかたみ)、11代 親義(ちかのり)の墓碑があります。
左から、6代 親蔵(ちかただ)、11代 親義(ちかのり)、9代 親民(ちかたみ)の墓碑になります。
その奥方や夭逝した若君らのお墓もあります。
また、こちらには埋葬されなかったが此処で荼毘に付したと言う碑があります。
左から、初代 親昌(ちかひさ)、2代 親貞(ちかさだ)、4代 親賢(ちかかた)の荼毘の碑です。
堀家の隣には脇坂侯のお墓も。
説明板を見てみましょう。安元侯は、城下町としての飯田の形を作った人と言われています。
2代 安政侯の時播州龍野へ移動。家臣の塩山家より赤穂の赤埴家に養子に入ったのが、赤垣源蔵 と言われています。これで一休みは如何 >元禄花の兄弟 赤垣源蔵(島津亜矢)
脇坂侯の後に飯田藩を治めたのは、小笠原秀政。飯田から松本城に移ったので、飯田にお墓はありません。ただ奥方の福姫(登久姫)は32歳の若さで飯田で亡くなり、峯高寺にお墓があります。
福姫は家康の孫であり信長の孫でもあると言う血筋。墓石には小笠原の三階菱ではなく徳川の三つ葉葵の紋が刻まれています。
少々脱線しましたが、話を長久寺の墓地に戻しましょう。豊臣時代、秀吉は毛利秀頼を飯田に置きました。その墓とされる宝篋印塔があります。また堀家の家老島地家など飯田藩士の墓もあります。
左から秀頼の宝篋印塔、島地家の墓、黒須家の墓、その後ろに安東家の墓も見えますね。
以前、中央通りに「ヤマトヤ」と言うスポーツ用品店がありました。そのオーナーの島地家は、元家老家の血筋です。更に、島地五六 飯田中学初代校長も同じ家系です。「作詞 福澤 悦三郎・作曲 井出 茂太」の【南信健児の歌】を校歌と制定したのも島地校長です。
仲ノ町の教育会館の門は、武家屋敷黒須邸の門。近くには安東家の建物もあります。
飯田藩とは関係ありませんが、こんな人の墓も。力士男山の墓。飯田巡業に参加した新人の男山。2m程の大男。入ったトイレの床が重さで抜けてしまい、落下。腰を痛めて、そのまま土俵に上がる事なく亡くなってしまったそうです。台座に「飯田角力協會」とあります。
長久寺の山門横には墓所の案内があります。
正面からの山門。臨済宗妙心寺派のお寺ですね。この門は、明治6年に取り壊された普門院から移築した物です。奥に見える門は羅漢門。釈迦三尊像と16羅漢像が安置されているとの事です。
長久寺は大宮神社の隣に在ります。では大宮神社にも少し触れておきましょう。神社によくある仁王門ではなく、ここは随身門です。左右には守護神が祀られています。此処では右大臣、左大臣。
正面から見ると、この並びになっています。ここで問題、どちらが左大臣でしょう?
左右は本殿側からの並びで言います。従って、向かって右側が左大臣。また、左大臣の方が格が上なので年寄り。右大臣は若くなっています。
門と同じ段に、夫婦杉があります。説明板によると、羊満水を逃れたお礼の記念に植えられた様ですね。
2本の根元は繋がっています。
その隣には御神紋の梶の木があります。
それにしては若い木と思って根本をよく見ると、これは蘖(ひこばえ)ですね。
大宮神社の御神紋はこの葉をデザイン化したものですね。
門を抜け石段を登ると、正面に社殿があります。正式名は、外県(ソトアガタ)大宮諏訪神社。
その名の通り諏訪大社の建御名方富大神(タケミナカタトミノオオカミ)と八坂刀売大神(ヤサカトメノオオカミ)が、御祭神として祀られています。
本殿の横に見えているのは、楠神社です。11代の堀親義が、長州征伐で兵庫県へ出陣した際、楠木正成を祀る湊川墓地に参拝。その分霊を迎え社殿を作り祀ったものです。「精忠」と書かれた扁額(へんがく)にも湊川神社の表記があります。
正面の赤い賽銭箱にあるマークは、正成公の馬印「菊水」 飯田の清酒「喜久水」はこれにちなんだ名だそうです。
境内の木々は一部に紅葉が。9月ももう終わり。秋ですね~!
コロナ禍で大変な年でしたが、ここへ来てかなり治まって来ましたね。このまま終息してくれれば良いのですが、第6波は来るのでしょうか?もう暫くは気を緩める事なく、色々我慢していた方が良さそうですね。
(高18回 高田)
そば畑とぶどう園&曼珠沙華
- At 9月 22, 2021
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蕎麦の花が咲いています。此処は中川村、飯田線の駅は伊那田島です。
以前は赤蕎麦を栽培していた畑です。それを変えたという事は、見栄えよりも実を取ったと言う事かな。同じ面積でもそば粉になる量から言うと、赤蕎麦の方が不利という事らしい。
飯田線がすぐソバを通ります^^ 赤蕎麦の頃は写真マニアが大勢詰めかけていましたが、この日は私だけ^^;
蕎麦畑のお隣はぶどう園。西原ぶどう園では産直の販売があり、ぶどう狩りも出来ます。
この日売店に出ていたのは「藤稔り」一房500円程度(重さで前後します)種なしで美味しいぶどうでした^^
所も日も変わって、今度は曼珠沙華。龍江の今田平に在る紅雲寺の境内に沢山咲いています。
紅雲寺は無人のお寺ですが、地元の皆さんが大切に手入れされています。
隣の畑にも咲いています。
少し離れた天竜川の河川敷にも!マレットゴルフ場の隣が公園になっています。
土手上は八重桜街道です。
昨日は中秋の名月でした。でも、雲が多くてね^^;
秋ですね~~!
(9/15、9/20,9/21 撮 高18回 高田)
【龍峡小唄ものがたり】と天龍峡
- At 9月 14, 2021
- By dousoukaiadmin
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私のもとに一冊の本が届きました。送ってくれたのは同期の山田治和さん。本のタイトルは『龍峡小唄ものがたり』 以前在京同窓会HP担当、三ツ橋史緒子さん(高22)より紹介された本ですね。
>在京同窓生 近著のご案内
著者は(中47回)の大先輩、牧内 雪彦さん。
内容はタイトル通り「龍峡小唄」の誕生秘話。この本によって初めて知った事の多い事。作曲者はどなたかご存知ですか?
誰あろう、あの有名な中山晋平氏とは驚きました。
作詞は白鳥省吾氏。日本詩人連盟会長、日本歌謡芸術協会会長などを歴任された方。
のちに天龍下ればの歌手を努めた市丸姐さんは松本出身の信州人。という事で、この本を少し詳しく紹介しようと思います。
「龍峡小唄」は、農村生まれの大正青年が育んできた夢「郷土に新民謡天龍峡小唄を!」から始まりました。その青年は牧内武司氏、著者の父親でした。その構想を初めて語ったのは下川路村七区公会堂。「郷土に新しい民謡を!素晴らしい提案だ」村長はじめ一同大賛成。
川路・龍江 両村の村長に趣意書を届け、賛同協力は約束された。後は実行あるのみ。曲作りは誰に依頼するか?念頭に浮かんだのが自然主義詩人の白鳥省吾氏だった。氏は幾度か伊那谷に来て文学青年たちに講演もした詩人。伊那谷の風土もご存じだ。若さと言う無軌道に乗って、白鳥省吾氏宛てに天龍峡小唄の構想を述べ、作詞の依頼状を書いたのだった。
白鳥氏は、無礼千万な田舎青年の書簡を鷹揚に受け止め、快諾との返事をくださった。そこで二通目の書簡。その概略「早速のお返事深くお礼申し上げます。ご承諾下さいまして感激です。作曲の方は中山晋平先生にお願いして頂くよう切望致します。踊りの振り付けにつきましては藤間流が最高と望んでいます」
(これはもうプロジューサーですね。しかもそれが実現するのですから、唯々感心するばかり)
事が順調に運び始めると、次は費用の捻出である。龍江村村長、川路村助役他数名で、伊那電の重役等に会うため飯田蕉梧堂へ行く。(蕉梧堂・・・詳しい事までは分かりませんが、当時は格式の有るホテルだったようですね)
此処で寄付のお願いをした訳だが、思いがけない収穫も。川路村の出で伊那電の重役 代田芳太郎氏からのアドバイス「私の個人的な意見ですが、天龍峡小唄と言う題名がどうも野暮ったい。天を外して龍峡小唄としたらどうだろう」目から鱗とは正にこの事。「代田先生、ありがとう御座います。龍峡小唄で決まりです」
龍峡小唄も順調に仕上がりつつあった。そうなると、披露発表会の算段だ。相談の結果、天竜峡ホテル前の広場で行う事となった。発表会準備会議の席上で、武司氏はこれまでの経過と新民謡の意義などを説明。更に白鳥省吾先生から届いていた龍峡小唄の歌詞を朗読した。
1 天龍流れて稲穂はこがね
繭はしろがね お国自慢の天龍峡
2 伊那の黒土踏みふみござれ
川は天龍 山は赤石みてござれ
・・・と、十番まである歌詞を披露、読み終わると一斉に拍手が沸き起こった。雰囲気にわかに好転。両村協調して事業達成を期する心が全員に芽生えた様子。龍峡小唄披露発表会は、昭和3年11月6日に決まった。
10月29日天竜峡ホテルに於いて第2回実行委員会が開催され、発表会当日の段取りが決まった。
11月1日、この日の地元新聞各紙は龍峡小唄の記事を大きく載せている。これは南信新聞の記事。
『龍峡小唄の一行、四日に来峡 華々しく披露発表会は六日』の見出しに続いて「・・・作詞の白鳥省吾氏、作曲の中山晋平氏、振り付けの藤間蔦枝、藤間芳枝 両女史ら一行は四日午後1時に天龍峡駅に到着し、天竜峡ホテルに滞在する。披露会のステージは目下ホテル前に設営中。・・・午後7時から葵の間を練習場として歌の教授、舞踏の振り付けを受ける。短期間の講習で成果を上げるため相当経験のある者を選出。川路・龍江両村から十名、飯田花柳界から十一名を出す事となった」
舞台の設置場所は天竜峡ホテル前、姑射橋西畔の広場。山側の斜面に頑丈安全な舞台を構築する。丸太を縦横に組み、左右が6間(10.8m)奥行2間(3.6m)の大舞台。材料の木材や竹は、山持の村民数名が提供を快諾してくれた。更にありがたい申し入れも。飯田の料亭「舞鶴」の老女将から電話『藤間流の名手が信州の山ん中の天龍峡で踊りなさると言うのに、踊り台無しでは済まされませんよ。うちの踊り台をお使いなさいな』と。これを聞いた演出係担当の田中氏が「こうなりゃあ、舞台の飾りに俺らほうの大屏風を出そうじゃないか」田中家自慢の大屏風は、三十六歌仙を描いた六曲一双の見事な物。野舞台は一気に格式を上げる事となった。(その舞台の場所は、今土産物店などが並ぶこの辺りではなかろうか)
11月4日(日曜)中山先生ご一行到着。中山先生が乗り換えを間違えたため大幅に遅れ、天龍峡到着は午後6時20分だった。それでも駅前には黒山の人だかり。夕食後葵の間に集合、顔合わせ。中山先生の要望で、舞踊会のメンバー揃って伊那節を2種類踊る。では明朝は午前9時から練習を開始しましょう、となって一同解散。
翌日、一同顔を揃えると中山先生から、囃し言葉を「ヨイトヨイト、ヨイトサノ、ヤレコノセ」に変更したとの説明。「この方が力強くて良いでしょ。自画自賛かな?」一同大きく頷いて同感した。「まず歌の練習をしましょう」と中山先生が美声で歌い始めた。一同揃って練習すること一時間余り。
三味線組は歌の練習半ばで2階へ移動、藤間蔦枝女史より曲調の教授を受ける。この地では三味線の巧者名手と言われる三氏である。
踊り組の練習は階下で開始。基本を藤間芳枝女史が踊って見せると、中山先生は早くも要領を身に付けた様子で歌いながら踊り始めた。それに倣って次々と踊りの輪に入り、大勢になって熱心な練習となる。
昼食はどんぶり飯で腹を満たすと、午後1時に練習再開。飯田の芸姑衆も到着。葵の間で揃って猛練習を開始すると、中庭に見物人が集まり一杯になった。夕食後も練習続行。本番は明日なのだ。
11月6日(火曜)発表披露の日。葵の間では総仕上げの練習が始まる。祝砲が晴れた大空に轟き渡り、峡谷を揺るがせて山彦になる。昼近くには観衆が集まり始め、天龍峡の賑わいは有史以来と言うべしか。作詞の白鳥省吾先生が弟子二名を連れて到着。飯田芸姑衆も揃って姿を現した。定刻となり、龍峡小唄発表披露の幕は切って落とされた。
昼の部は、招待された関係者の皆さんに披露。
南信新聞の記事「伊那谷に生まれた最初の新民謡 龍峡小唄 の披露会は6日午後1時より天龍峡ホテル前の広場で盛大に開かれた。当日は特に作詞者白鳥省吾氏、作曲者中山晋平氏、振付の藤間蔦枝、芳枝の4氏が来峡し、付近の若い人々に教え込んだので当日の人気は盛り上がり、定刻前から詰めかける者三千余名。プログラムの進むにつれて非常な人気を集め午後6時散会した」
夜の部は6時半から開始。一般開放とあって続々と集まる人々。幕が上がると、昼の部とはまた違った美しさと賑わいで別天地の情趣が醸し出された。舞踏、歌と踊り、そして合唱など盛り沢山の余興を終えて、小唄披露になると割れんばかりの拍手だった。
歌詞十節を3回繰り返して歌い踊る。そしてまた委員役員も踊りの輪に加わって、舞台いっぱいの大輪になって踊る。幕を引くも未だ踊りは止まず、幕の内にてドンドンと板を踏み鳴らし踊り続け、やむなく又幕を開く。すると中山、白鳥両先生も舞台に飛び出し踊りの輪に入った。ようやくにして幕を閉じ、万歳三唱を繰り返した。仰げば満天の星座きらめく中に、龍峡小唄 が轟き響いた天龍峡の夜だった
龍峡小唄 の評判は上々だった。11月20日には中山先生より「ラジオ放送の為上京せよ」との通知。30日に三味線、歌い手の5人で上京。12月1日、中山先生と愛宕山の東京中央放送局 JOAK の放送室に入る。先生のアドバイスもあって、無事大役をやり遂げた。更に翌日は、丸の内の「日本ビクター蓄音機会社」へ赴きレコードの吹込みまで行った。中山先生は「ご苦労さま。地元青年衆の味が出た龍峡小唄 になったよ。良かった良かった」この日吹き込んだレコードは、翌年1月6日に郵便小包で武司氏の家に届いた。
下伊那各地からは、龍峡小唄 の指導要請が次々舞い込む。それに応えて各地へ出張指導。更に松本浅間温泉からも指導要請があり、13人で指導に出掛た。特別に熱が入ったのは昭和6年3月の名古屋行。中部旅行協会ジャパンツーリストビュロー主催、名古屋鉄道局後援「春の行楽の会」とやら。期日は3月27日。会場は名古屋松坂屋6階大ホール。此処での出演が要請されたのだ。いつも応援してくれる天龍峡ホテルの伊原恒子女史も、特別な力の入れ様。3/15 から練習開始、深夜12時近くまでの猛練習。26日、天龍峡発4時50分の電車、今回のメンバーは16人。辰野に出て中央線で名古屋入り。夜遅く、旅館に伊原恒子女史が激励に訪れた。27日、松阪屋6階の大ホールへ。この日は3回のステージ披露。満席の観衆からは熱い拍手が沸き起こった。伊原女史も喜び満面で我々に握手して回った。合間には天竜下りの映像上映、龍峡小唄の レコードを聴かせるなど、実に丁寧な観光案内。それはもう涙が出たほど感激の松坂屋ホールだった。
昭和7年夏、松竹映画「天竜下れば」が封切られた。映画自体は、龍峡小唄の評判に便乗しようという即席凡作だったが、主題歌は大ヒット。うぐいす芸者と呼ばれビクター専属歌手となったばかりの市丸の巧みな節回しと美声が、歌謡曲ファンを熱狂させ大衆を虜にした。作曲はあの中山晋平先生だ。市丸は 天龍下れば こそ自分の持ち歌と確信。放送やステージでは必ず歌ってビクター看板歌手の地位を確立した。天龍下れば の人気は高まるばかり。
昭和9年7月、作詞の長田幹彦氏と市丸姐さんが舟下りをするために揃って来峡。噂を聞いて集まった人々は、二人の美貌に驚いたという。(テレビもない時代、芸能人を生で見たのだからその驚きは想像できますね)
この頃から武司氏は、この姑射橋畔に二曲一双の屏風様式の歌碑を建て、後世まで伝えたい、と空想していた。
この思いは昭和32年4月に実現する事となる。武司氏は郷土の民俗芸能の掘り起こしに情熱を注ぎ、著書も出していた。昭和30年秋、それに対し文部省から助成金が下された。その使い道を考えた時、龍峡小唄碑 の建立を思いついた。おりしも龍峡小唄30周年も近い。それに合わせて歌碑を建てよう。この案は、観光協会や商工会に働きかけて実現の運びとなった。歌碑は、天龍峡ホテル前の築山東端に姑射橋に向けて建立された。
南信日報 昭和32年4月14日(日)の記事。
「白鳥、藤間氏ら迎えて 龍峡小唄30周年記念祭
信州の名勝 天龍峡で13日、春の恒例花まつりと併せて龍峡小唄30周年記念および小唄歌碑の除幕式が、作詞者白鳥省吾氏らを迎えて桜花満開の下、盛大に挙行された」
天龍下れば の歌碑は、観光協会の方で建立計画が進行していた。武司氏には、作詞者である長田幹彦氏の直筆を入手できないでしょうかとの相談が持ち掛けられた。長田氏は既に他界していたが、東京信濃町のご自宅に長女 美代子さんをお訪ねした。毛筆の原稿は無いのですが・・・と言いつつ、美代子さんは筆書きの署名とペン書きの文字を用意してくれていた。更に、除幕式には市丸さんと一緒にお邪魔しますよ、との約束。歌碑は龍峡小唄歌碑と道を挟んで向かい側、公園への遊歩道脇に建立された。除幕式は昭和50年8月23日に行われ、市丸さんと美代子さんも臨席した。
武司氏は平成元年1月12日、90歳で亡くなられました。この本は「亡父の自分史」を倅の私が書き残してやろう!と書かれたものです、と牧内雪彦氏。本の紹介としては少々書きすぎたかと思いますが、実際手にして頂ければ幸いです。本には当時の写真も沢山。大勢の関係者も実名で出ています。
この本は此方でも購入できます>Amazon「 龍峡小唄ものがたり」
こちらはネットならではですね。>YouTube 市丸の龍峡小唄 です。
本には10番までの歌詞が全て載っています。
市丸姐さんの > YouTube 天龍下れば 本人映像が見られます。
この歌詞も本に載っていますよ。
近年はこんな曲も>水森かおり 天龍峡
本人だけの物が見つからず。バックにおっさんの声が入っていますが、私ではありません^^;越後水原のB面かな。余りヒットはしなかった様な。
もう一つ> 福田こうへい 天竜流し
YouTube を探していたらこんな曲も出て来てビックリ> 飯田銀座音戸
歌っているのは 都はるみ、作曲は市川昭介 というビッグネーム 。
7年に一度のお練り祭りで「次郎長踊り」 に使われているとの事ですが、それだけでは勿体ないね。
私が小学生の頃は、学校で龍峡小唄を習い運動会で踊ったものです。今はどうなのでしょう?かつてのリンゴ並木での盆踊りもこの龍峡小唄がメインでした。「ヨイトヨイト、ヨイトサノ、ヤレコノセ」に続いて「素敵なベッピンサンにわしゃ惚れた、あら、お楽しみ」と合いの手を入れるのも楽しかった。それが今は「飯田りんごん」なる奇妙な踊りに変わってしまった。詞は無く囃し言葉だけ。それが「りんごんりんごん、ホイ、おいな、ソレ」これを初めて聞いた時、背筋がゾクッとする程の嫌悪感を覚えたのは私だけでしょうか?中山晋平氏は、囃し言葉に下伊那の方言も検討したが好都合なものが見つからなかった、と。私も、わざとらしい方言を入れると言うのは如何なものか思うのですが。
丘の上では無くなってしまった盆踊りですが、天龍峡では毎年行われています。メインはもちろんこの龍峡小唄。でもコロナ禍で2年連続の中止となってしまいました。残念。
残念と言えば、本書にしばしば出て来る天龍峡ホテルも今はもう在りません。創業者は伊原五郎兵衛氏、女将の伊原恒子女史は縁戚に当たる女性との事でした。五郎兵衛氏は、紀州徳川候の大磯別邸を購入、移築して「彩雲閣 天龍峡ホテル」と命名して開業。伊那電・天龍峡駅の開業に合わせての事業でした。その建物も今はもう無いのです。残っているのは歌碑が置かれた築山だけ。
もう一軒の老舗旅館 龍峡亭 も、コロナ禍の影響で営業危機。8/30 付で倒産処理の手続きが決定した様です。
残念な話が続いてしまいますが、先日天竜舟下りの船頭さんが舟から転落してしまいました。現場は鵞流峡辺りらしい。天竜川は最近の雨で増水していて捜索も困難な様子。9/14現在 未だ見つかっていません。
(高18回 高田)
阿智村 ② 浪合・駒場
- At 8月 19, 2021
- By dousoukaiadmin
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昼食後向かった先は浪合です。先ずは尹良(ゆきよし)親王の墓所。石碑はなく墳墓です。囲いには菊の紋章があります。此処は宮内庁の管轄です。この様な皇族のお墓は、県内にはここだけですね。
尹良親王は大鹿を拠点としていた宗良親王の子で、後醍醐天皇の孫と言われています。南北朝時代、80騎余りの兵を率いて三河足助へ向かった。しかし浪合の地で北朝方の兵200余騎の待ち伏せに会い、浪合の合戦となる。多勢に無勢で民家に立てこもり自害した、と伝わっています。その御首を埋葬した塚が此処という訳です。
此処は浪合神社の一角です。浪合神社は尹良親王を祀った神社ですね。
此処が皇族の墓所と認定されたのは、明治になってからでした。富岡鉄斎や松尾多勢子等の尽力によるものです。
次に向かったのは首検分の処。織田信長が此処で武田勝頼 父子の首を確認したとの石碑があります。文字はかなり読み難くなっていたので、以前撮った写真をあげておきます。読めますかね?
【首検分の処 天正十年春三月十四日 織田信長 光秀を従えこの地に出陣 武田勝頼・信勝父子の首を検分する】
この碑を置いた時は未だ浪合村だったのですね。
この場所には桜があります。咲いている時の写真をご覧ください。
この日は雨という事もあって行かなかったのですが、この先へ進むと御所桜があります。尹良親王にちなんだ桜です。
次は駒場(こまんば)へ向かいます。先ずは自治会館で林さんから駒場の説明。
かつては大変賑わった町並みで、飯田まで行かなくても全ての商店が揃っていたそうです。
実際に町並みを歩いてみました。今度のガイドは、あっちっち熱中人連合の案内人 中村さんです。
かつての商店街。白い建物は元郵便電話局。
今は空き家になっている古民家は、町歩きガイドの皆さんが管理していて中に入る事が出来ます。最初に入った所は元呉服屋「つぼや」。昭和5年の建築と言う古民家です。
一階は店の部分が住まいに改装されていましたが、二階はほぼ昔のまま。試着や商談をした部屋の様です。
思ったより奥が深く、中庭を挟んで蔵があり、更にその奥には従業員用の別棟もあったとの事。
改めて外観を。元呉服屋とは分かりませんね。
元銭湯の玉の湯。大正初期の建物で、昭和45年頃まで現役だったとの事。手前が女湯、奥が男湯。奥隣の建物には、熊谷元一氏が住んでいた事があるそうです。
此方は男湯。湯ぶねは意外と狭いですね。仕切りには商店街の宣伝が。確かに男性向けですね。
女湯はこちら。私の知る限りでは一番小さな銭湯ですね。
更に町歩き。こちらは元カフェと言う建物。何となくそれらしい雰囲気がありますね。今は普通に人が住んでいるとの事。
自治会館へ戻り、この石の説明。石橋として使われていた1枚との事。南信州の記事は、ガイドをしてくれた林さんが書いたものですね。
午前中は何とか降られずに済みましたが、午後からはポツリポツリ。それでも、土砂降りにはならなかったのは幸でした。だんだん寂しくなっている駒場宿。空家も増えている様です。飯田の丘の上も似たような傾向にあります。先行きが心配になってきました。
(8/12 撮 高18回 高田)
阿智村 ① 園原
- At 8月 16, 2021
- By dousoukaiadmin
- In ふるさとブログ, ふるさと情報便
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8/12に阿智村を見て回る企画があり、参加してきました。今回は、阿智村全村博物館構想を推進しているガイドの林さんが案内してくださるとの事でした。最初に立ち寄った所は園原の「ははき木館」。
入り口に立っているのは湯屋守様。昼神温泉の地元だけありますね。色付きは珍しい。
館内で林さんから古代東山道についての説明。
東山道は、中央と地方を結ぶために造られた古代の五畿七道の一つで、琵琶湖の南端瀬田から宮城県の多賀城迄。距離にして1,000 ㎞に及ぶ国道でした。
この道の最大難所は神坂峠超え。道には4里ごとに駅を置いていて、通常は一駅に10頭の馬を置いていた。でもここでは、峠の両側の坂本(岐阜県)と園原に30頭の馬を置いていました。
伝説も色々あって、この建物の名前にもなっている帚木(ははきぎ)もその一つ。今は倒れてしまい根元近くの幹が残っているのみ。館内にその断片が展示されています。
バスに戻り道路を暫く上ります。最初に目につくのは駒つなぎの桜ですね。折角なので咲いている時の写真を!義経が奥州平泉への逃避行の際、この桜に馬を繋いで休んだとの伝説があります。逃避ルートには諸説あり北陸道説が有力ですが、東山道で神坂峠を超えここへ下りて来たという説もあります。つまり決め手のある定説が無いのです。
江戸彼岸の一本桜として人気です。桜の時期ともなると大変な所で、大勢の写真マニアが訪れます。車も通行止めで、ははき木館周辺の駐車場から歩かなくてはなりません。夜にはライトアップされるので、もう昼間から場所取り合戦。彼等はほぼ一日中居座っています。
この道は中央道の恵那山トンネル工事用に作られた道との事です。途中で排ガス用の煙突が見えました。バスは神坂神社へ!
神坂神社から先は道が出来ていないとの事。車で神坂峠超えは出来ません。そもそも恵那山トンネルの工事用道路ですからね。
この先は全く行けないかと言うとそうでもありません。車では無理と言うだけです。昔の東山道は残っています。でも歩くとなると、それなりの装備と覚悟が必要ですね!気楽には行けません。
社殿の向こうに見えているのは樹齢 1,000年超えの日本杉。神社の御神木ですね。
神坂神社の説明板です。海の神様を祀っているのは何故でしょう?
境内には歌碑が幾つかあります。これは万葉集にある、神人部子忍男(みねひとべのこおしお)が防人に赴く際詠んだもの。全て漢字ですね。知波夜布留・・・ちはやふる
「ちはやふる 神の神坂に幣(ぬさ)まつり 斎(いわ)う命は 母父(おもちち)がため」
これも万葉集にあるとの事。解説は読めますか?(クリックすると大きくなります)
「信濃道は 今の墾(は)り道 刈りばねに 足ふましむな 沓(くつ)はけ わが背」
バスで来た道を歩いて下り、帚木の所へ。帚木はこの林の中の道を登った先にあります。私は脚の調子がイマイチで今回は断念。
此処を下ると、暮白の滝に出ます。その手前に帚木の歌碑があります。
*帚木の 心を知らで そのはらの 道にあやなく 惑ひぬるかな (光源氏)
*数ならぬ 伏屋に生ふる 名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木 (空蝉)
源氏物語の第2帖 「帚木」にあるとの事。となると、詠んだのは紫式部という事なのかな?
この手前に広場があるので、車は其処へ駐車出来ます。櫓から先は道が無く行き止まりです。徒歩でなら、昔の東山道を下って駒つなぎの桜迄行く事が出来ます。
暮白の滝は、夕暮れ時にほの白く見えると言われています。滝見台からこの滝に向かって願い事を書いた皿を投げると、願いが叶うそうです。ただこの距離では、とても滝まで届きませんね^^;(皿は、門前屋または、はゝき木館にて100円で販売しています)
せっかくなので、もう少しアップでご覧ください。
滝を右に見て東山道を下ると、朝日松があります。園原地籍で一番早く朝日が差す事からこの名になったそうです。元は二股の大きな樹でしたが、昭和39年の台風で折れてしまいました。今はその代わりの松が成長しています。
東山道を更に下ります。参考までに、こんな道なのですよ。先方に次の案内板が見えますね。
伝説の姿見の池です。京の都から吉次(喜藤治とも)に嫁いだ客女姫(きゃくじょひめ)が、鏡の代わりに使ったと言われる池です。神のお告げで公家の娘が炭焼きの嫁に!押しかけ女房の元祖でしょうか^^;
東山道を更に下ると、先ほどの駒つなぎの桜に出ます。そこからまたバスに乗って、次の信濃比叡廣拯院へ。
2月に行われる火渡りの護摩行で知られていますが、どういった処でしょうか?説明板です。天台宗の開祖伝教大使最澄(さいちょう)が、峠越えをする旅人の為に無料宿泊所を建てたのが始まり。最澄は比叡山に入り延暦寺を開いた人なので、ここは信濃比叡となりました。
建物は未だ新しいのですが、歴史は古いのです。本堂より前に、この最澄の像が建てられました。比叡山にある像と同じ鋳型で造られています。
本堂に祀られているのは薬師瑠璃光如来。また延暦寺から分灯された不滅の法灯が灯され続けています。最澄の時代から燃え続けているとの事です。
お参りをして、御札を頂きました。
さて、お昼です。ランチは門前屋さんで、五平餅とざるそばのセットを頂きました。
午後からは、浪合と駒場宿へ・・・つづく!
(8/12 撮 高18回 高田)
恒川官衙遺跡(ごんがかんがいせき)
- At 8月 03, 2021
- By dousoukaiadmin
- In ふるさとブログ, ふるさと情報便
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飯田下伊那から離れている方は、あまり聞いた事が無いかもしれせんね。場所は座光寺地区になります。この辺りは以前から土器などが見つかっていました。
昭和52年、国道153号バイパス建設に先立ち発掘調査が行われました。その結果、この場所は奈良~平安時代の役所(郡衙)の宿泊施設 舘(たち)跡と推定されました。
貴重な遺跡と分かったものの、バイパス工事は止められる事なく予定通り建設されました。この横断地下道の壁際に、上の説明板があります。
飯田市教育委員会は、この地区を重要な遺跡群として昭和58年から本格的な発掘調査を行いました。この遺跡が一般的に知られるようになった切っ掛けは、リニアですね。当初この辺りがリニア駅の予定地とされたのですが、遺跡を理由に変更されたのです。場所はこの案内板が分かり易いかな。高岡1号古墳の直ぐ近くです。
平成26年3月に、一部が国の史跡として登録されました。たまたまその頃、私は野次馬根性でここを見て回っていました。この時はアチコチに説明板が点在していましたが、そこは果樹園だったり民家が在ったり。例えばここは『正倉院跡』
『正倉院』というのは、税金として納められた稲や雑穀などの農産物を保管する倉庫ですね。沢山の倉庫が並んでいたと思われる所です。奥の奥の方に未だ新しそうな民家が在りました。
こちらは『厨(くりや)』跡。「厨」と書かれた土器が出土していることから、役所の給食施設があった所と思われます。
この場所はやはり果樹園で、未だ新しそうな民家もありました。
恒川清水(ごんがわしみず)は昔とあまり変わっていないと思いました。ただ水量は少なく、丸く囲まれた所に僅かな水があるだけ。
昭和50年代までは水量も豊かで、集落の大切な水源となっていた様です。
一通り見て回った当時の感想は、リニアのコースを変更させてまで残す価値ってあるのかな?でした。その後は行く事も無かったのですが、先月(7/15) 飯田市観光課の佐々木さん(高36)と文化財保護活用課の坂井さん(高43)の案内で見学の機会があり、行ってみました。
飯田市では、この場所を遺跡公園とする計画の様です。用地はかなりの部分が買収済で、発掘調査が進められています。以前は果樹園や民家が在った正倉院跡ですが、今は更地になっています。
観光課の佐々木さんより発掘調査時の貴重な写真を提供していただきました。上の写真とほぼ同じ場所です。
発掘で分かった柱の位置には、丸い石が置かれています。(発掘で出た石ではありません)
発掘は地層が分かり易かったそうです。それというのも約300年前に起きた未満水(ひつじまんすい)という大洪水により、遺跡の地層がすっぽり埋まった為だそうです。写真を見ると良く分かりますね。
調査の結果、正倉院の周りには側溝があった事が分かっています。その説明板。
実際の場所。溝部分はシートで示されています。
こちらは厨跡です。果樹園も民家も無くなって、発掘調査中でした。説明板の位置は以前と同じようです。
恒川清水の今の状態です。水が増えていますね。本来の水源とは別に引っ張って来たようです。
周りの石垣はそのままですが、新たにブロックの枠が作られていました。以前あった丸い石枠は無くなっていました。横に民家が在ったのですが、そこは芝生になっています。
改修した事によって、古い遺跡感は薄れてしまった様な^^;
此処は「恒川官衛遺跡」として、平成26年3月、国の史跡に指定されました。
倉が建ち並んだ「正倉院」はかなりな広さです。
役所の給食施設である「厨」も見つかって調査中。
役人の宿泊施設「舘」はバイパスの下。
ただ、役所の中心施設の「郡庁」は未だ見つかっていません。
遺跡公園として整備され公開されるのは当分先の様ですね。でも今は自由に見る事が出来るので、興味を持たれた方は訪れてみてください。
飯田市のHP に>「恒川官衛遺跡」のパンフレットがあります。ご覧ください。
(高18回 高田)