温故知新 ⑦ 菱田為吉 Ⅱ 追加情報と訂正
- At 3月 15, 2019
- By dousoukaiadmin
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先日、東京理科大の近代科学資料館へ行ってきました。わざわざこの為に?いえいえ、たまたま東京に用事が出来たので、そのついでです^^;飯田橋駅から徒歩5~6分でしょうか?電車からも見えるし、それ程遠くはありません。この駅、初めて降りましたよ^^;
見学は無料ですが、受付があります。館内は一応撮影禁止でしたが、申し込み書に記入すればOKとの事。撮影許可証のプレートを渡され、ブログへのアップも許可して頂けました。目的は菱田為吉の多面体模型です。2Fには箱に入った寄贈品が展示されていました。
部屋に入ると、壁の一面が為吉のコーナーになっていました。多面体模型はガラスケースに入っています。横に説明のパネルがあります。
これだけではその凄さが分かりませんね^^;数点アップで撮って来たので、ご覧ください。
最下段には製作過程が分かる様に、段階的な物が並んでいます。これを使って、「まずこういう形に削って、次にこうする」等と講義していたんでしょうね。
多面体の説明パネルに、為吉の経歴が少し書かれていました。ここから前回の時は分からなかったことも明らかになりました。
東京物理学校の講師となったのは、飯田中学退職後だったんですね~。多面体の製作も長期に渡ってのライフワークでした。本人はこれらの正多面体を、整正多面体と名付けています。昭和11年の退職時に東京物理学校へ寄贈されました。
高齢になってからの写真と、多面体制作時の写真もありました。椅子に座って机の上で・・・と想像していたのですが、床に座っての作業とは!ちょっと意外でした。
卒業証書もありました。為吉の名前の前に、長野縣士族とあります。
何故か中学の卒業証書も^^;長野縣中学校となっています。普通は個人に渡される物が、なぜ学校に?それだけ特別の人だった、と言う事ですね!
(これらの証書ですが、後日 近代科学資料館が所蔵している物はコピーとの説明を頂きました。説明文で〔本館蔵〕とありますが、本館とは理科大近代科学資料館ではなく飯田美術博物館の事と分かりました。
同窓会名簿では、為吉は明治17年下伊那中学校卒業となっていますが、こちらは明治19年長野縣中学校の卒業証書です。そこで『ものがたり菱田春草』を見直してみると「三男治は中等科を明治19年9月に卒業、続いて高等科に進む。翌年3月兄為吉は東京物理学校へ入学」とありました。
どうやら為吉は、下伊那中学終了後 校名の変わった長野県中学校飯田支校へ進み 明治19年に卒業。翌明治20年に東京物理学校へ入学したと思われます。と言う事は、東京物理学校は1年半で卒業した訳ですね。 また、この頃の小中学校は一級終了ごとに卒業証書を出していた様です。それで為吉の卒業証書が18枚あるのだと思います。)
更に、宮内省からの任命書も!明治28年に皇太子(後の大正天皇)の教育係となった訳ですね。更に、この時は学習院の助教授だったと分かりました。
弟たちの紹介もあり、弟家族の写真もありました。唯蔵の顔が分かります!イケメンの秀才と顔に書いてある様な^^中央は千代夫人なのかな?左端は唯蔵の奥さん?春草、唯蔵以外の説明はないので、皆さんも推測してみてください^^;
此処には為吉の他菱田兄弟の貴重な資料もあり、思い掛けない収穫でした。
(その後分かった事ですが、これ等の為吉の卒業証書や兄弟家族の写真が載っていた本は、飯田美術博物館発行の⇒日本の近代化に臨んだ人びと―田中芳男と南信州の偉人たちーでした。と言う事で、改めて飯田美術博物館より掲載の許可を頂きました。)
他にはどんな物がるのかも紹介しておきましょう。
計算機の歴史も分かります。ハンドルを回す物とか、使った事ありますか?^^
オーディオの歴史も!こんなの実物見た事ありますか?^^
世界最初の乾電池。これを作った屋井先蔵は此処の卒業生ではなく、付属職工との事。学者の皆さんと相談したりして作り上げたと言うから、産学共同開発の先駆けですね。でも特許は取りそこなった様で、乾電池の発明者は暫くの間 別の人の名になっていました。
ノーベル賞の大村先生は此処の卒業生でした。そのパネルも!
夏目漱石は帝大英文科卒ですが、小説の坊ちゃんは此処の卒業生と言う設定だったんですね~。
と言う事で、見所満載の科学資料館でした^^ う~ん、高校時代に此処を知っていたら・・・と思ってしまいました。お前じゃ無理~と突っ込みが入りそうですが^^;
(高18回 高田)
温故知新 ③菱田為吉
- At 2月 26, 2019
- By dousoukaiadmin
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ジブリ映画「風立ちぬ」が上映されていた頃、こんな話を聞きました。
>春草の兄 為吉は、東大工学部の前身校を出ていてそこの教授となった凄い人。東大で堀越二郎の先生だったかも。大正天皇の教育係もしていた。
この話を此処で詳しく書こうと思ったのですが、調べてみたら違っていました^^;出身校は東京物理学校、後の東京理科大でした。話してくれた人は、東京物理学校を東大工学部の前身と勘違いしたのかな?しかししかし、やはり凄い人と分かりました。卒業証書が見付かったのです。ご覧ください。
⇒第一号卒業証書 菱田為吉
菱田為吉は飯田藩士菱田家の次男として、明治元年に生まれました。長男の瀬平が早くに亡くなったので、事実上為吉が菱田家の惣領でした。下伊那中学校最初の卒業生であり、東京物理学校でも最初の卒業生になっていました。卒業後はそこの教員となっていて、授業に役立てるため手彫りで正多面体模型を製作した・・・とあります。現品は神楽坂にある理科大の近代科学資料館に展示されています。(写真はGoogle Map より)
資料館2階に展示されているとの事なので、東京にお住まいの方は是非行ってみてください。入場無料だし^^
⇒菱田為吉の木彫多面体模型
想像してみてください。当時は電動工具なんてありませんから、全て手彫りです。どれ程の時間をかけたのでしょうか?それも一個や二個でなく、47個が常時展示されているとの事ですから驚きです。これはもう神業とも言える芸術作品ですね。
手元に「ものがたり 菱田春草」と言う本がります。これは下伊那教育会が小中学生向けに出版し、学校を通して私の子供が購入した(買わされた?)物です^^;皆さんの家にもありませんか?
これには兄為吉もしばしば登場しています。何と言っても春草一番の支援者ですから。
>為吉はもともと絵がすきでしたので、絵描きになろうと思いましたが、自分は家をつがねばならないので、学校の先生になりました。しかし、どうしても絵かきになりたい気持ちをすてることができません。そこで、自分の夢を弟にかなえてもらおうと考えました。(原文のまま)
春草が絵かきになろうと決心したのは、兄為吉の影響と言えます。東京の住まいも為吉の下宿でした。
春草が東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業する頃、為吉は九州で先生をしていた様です。明治27年、九州の兄に卒業制作のための旅行費用を送ってくださいとお願いしていました。
更に本書では、春草が帰省した際兄為吉が務めている長姫城跡にある飯田中学を訪ね、実験中の試験管に藍色を見付け分けて貰うシーンが描かれていました。
飯田中学では科学(化学?)の先生をしていた様ですね。手持ちの名簿で探してみると・・・743ページ 旧職員の欄に出ていました^^ 明治35年12月から大正7年4月まで居た事が分かります。担当科目までは記されていません。
では、他の期間は? 物理学校の教壇に立ったのは、卒業の翌年 明治22年から。明治27年には春草が九州の兄に仕送りを依頼しているので、その前後は九州に居たと思われます。春草が為吉宛てに送った最後の手紙の記録がありました。 宛名と差出人は
明治44年8月29日 長野県下伊那郡飯田長久寺前 菱田為吉様親展
東京府下代々木143 菱田春草
実家は仲之町ですから、為吉は親とは別の住まいを構えていたんですね。春草はその翌月9月16日に亡くなっています。その頃はまだ飯田中学に居ました。飯田中学退職後はどうされたのか?ネットで検索してみたのですが、良く分かりません。亡くなったのは昭和18年、兄弟で一番の長寿です!
検索で、為吉のお孫さんが書いているブログが見付かりました。
⇒MAKOTO’S HOMEPAGE
春草に付いては書いてありますが、残念ながら祖父為吉に付いての情報は有りません。ご自宅は練馬区でした。
先輩の斎藤純さん(高16回)も此処ふるさと情報便に書いていました^^;
⇒斎藤さんのふるさと情報便 春草Ⅱ
為吉の写真はこちらから拝借する事にしました^^大正天皇の教育係と言うのは皇太子時代ですから、物理学校卒業直後と思われます。
弟唯蔵に付いても書いてあります。東京帝国大を卒業後に教授となり、明治、大正の航空工学者として知られている・・・なんと堀越二郎の先生だった可能性があるのは、弟の方でした。(後で調べてみます)
同窓会名簿を見ると菱田姓は3名載っていました。菱田氏孝(中09)故人、菱田武夫(中19)故人・町田市・画家。
菱田宗志・在校時は天文班班長!阿智村出身。今は???春草と関係あるのかな???
菱田家の人々に付いては、もう少し調べてみたくなりました。次回は・・・④菱田家の人々 と言う事にしておきましょう。
日夏耿之介に付いても、いずれ書かなければ^^;
(高18回 高田)