前回追加情報としてお知らせした以外にも、秘境駅と指定された駅がありました。

相月駅:住所は、静岡県浜松市天竜区佐久間町相月。佐久間ダムの建設に伴って作られた駅で、比較的新しい駅と言えます。この駅も前後がトンネルです。秘境駅ランキングは92位なのですが、なぜか秘境駅号は止まらない駅です。

柿平駅:住所は、愛知県新城市豊岡字葭ヶ滝(よしがたき)。1929年に旧鳳来寺鉄道の停留場として開業。14年後に廃止となりましたが、1950年に国鉄の駅として再開。秘境駅号の下りで最初に停車する駅です。上り(豊橋行き)は停車しません。流石にこの駅の写真までは撮っていなくて、GoogleMap からです。

上り(豊橋方面行)でこの駅を出ると間もなく、左側の車窓から板敷川が見えてきます。板敷川は、川底に板を敷き詰めたように見えることからこう呼ばれるようになりました。川遊びができる公園となっている所もあります。

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在京支部HP担当の三ツ橋史緒子さん経由で、地元関連本を教えてくれた方がいましたので紹介します。

西村京太郎の⇒「愛と悲しみの飯田線」(テレビドラマ)と「飯田線・愛と死の旋律」

梓林太郎の⇒「天竜川殺人事件」(今田人形が、取り上げられており、テレビドラマでは、茶屋次郎シリーズ8です。以前渋谷で今田人形を演じて見せてくれた飯田の方が、このドラマに出てきて、驚きました。)

梓林太郎の⇒「南信州殺人神楽」(遠山郷の霜月祭りが出てきます。)

秋月達郎の⇒「信州長姫殺人物語」

そして津村秀介の⇒「天竜峡殺人事件」です。

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推理小説ではないのですが、⇒飯田線ものがたり 川村カネトがつないだレールに乗って
著者は、太田朋子・神川靖子・・・『合唱劇カネト』水窪公演実行委員の方です。

皆さんは、川村カ子トをご存じでしたか?私は数年前にこの『合唱劇カネト』を観て知りました。この劇、公演が少なく見る機会も限られています。出演者は飯田線沿線の方達で、広範囲から集まっています。そのため、全員揃っての公演は大変です。公演会場によってメンバーも変わるようです。私は飯田文化会館でダイジェスト版を観ました。

天竜峡から南の区間は、切り立った断崖が続く大変な所。鉄道建設に当たっては先ず測量ですが、こんな難しい測量は引き受け手がいない。会社は噂を聞いたアイヌの川村カネトに依頼したのです。

測量を終え北海道へ帰るはずだったカネト達。その仕事ぶりに感心した会社から、今度は工事の現場監督もという依頼。これに反発した工夫等は、アイヌなんかの下で働けるかと暴挙に出る。
(この公演には同窓生の池田忠久さん(高12)↓も参加していました)

事件後もカネトは黙々と仕事を続け、それに感嘆した工夫等はカネトに従うようになっていくのでした。こうして国内最難関と言われた天竜峡~三河川合間、三信鉄道の工事は完成したのです。

天竜峡から南はトンネルが多く、工事の大変さがうかがえます。天竜川の絶景はトンネル・トンネルでゆっくり見られません。


事故もありましね。昭和30年1月20日午後9時、最終電車駒ケ根行きの2両編成の電車が、門島―田本駅間で落石に乗り上げ1両目が橋脚下に 2両目が30メートル下に落下。5人が亡くなり、20人近い人が重軽傷を負いました。この事故で亡くなった吉沢寿恵さんは、吉沢毅さん(高18回)のお母さんでした。

今年は豪雨で中井侍~小和田間で土砂崩落があり、まだ復旧できていません。

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飯田線を語る際には、忘れてはいけない人がいますね。伊原五郎兵衛氏。飯田駅前公園に大きな頌徳碑があるので、市民は皆知っていますね。飯田線の建設に多大な貢献をされた方です。

明治13年飯田町番匠町の漆器店近江屋の三男として生まれるました。幼名は恒次(つねじ)。
明治27年、県立下伊那中学飯田支校に入学したのですが、その後松本中学へ転校。それで卒業名簿に名前が載っていないのですね。
更に旧制一高へ進み、東京帝国大学法学部を卒業。在学中に兄が亡くなったため家督を継ぐ事になり、帝大卒業後は外交官の夢を諦め飯田に戻る。

父である8代目伊原五郎兵衛を中心とする有志は、辰野から飯田に至る電車鉄道の設立を明治27年に計画。ところが鉄道敷設の着工を前に父五郎兵衛が急病で死亡。恒次は家業だけでなく、伊那電車軌道の建設も継ぐことになり、9代目の伊原五郎兵衛を襲名して伊那谷に電車を走らせるために奔走したのでした。
この碑の道路を挟んだ対面に、下の写真のプレートがあります。(写真はクリックで大きくなり、文字も読めると思います)

明治40年、 伊那電車軌道株式会社が設立されその中心に。
昭和2年、 辰野-天竜峡間が開通し計画区間が全通。伊那電車軌道を伊那電気鉄道と改め、五郎兵衛は専務取締役に。

更に昭和3年、五郎兵衛は筑摩電気鉄道(現アルピコ交通)の創立者 上條信 の跡を継いで2代目の社長に就任。しかし大恐慌の影響などで、荷物輸送が激減。経営は大変だった様です。
昭和7年には不況克服のため心機一転を図り、「筑摩電気鉄道株式会社」の商号を「松本電気鉄道株式会社」に。
また、五郎兵衛は、これから観光バスを含めてバスの時代が到来すると予測。松本地方の中小乗合自動車会社の買収を行い、バス事業の強化に励んだのでした。

最後まで地域社会の奉仕に努め、地域の人々により昭和27年1月に「伊原五郎兵衛頌徳碑」が飯田駅前に建てられました。その3か月後の4月3日、9代目伊原五郎兵衛は72歳で逝去しました。(碑は駅の改修などで2回移動しています)

私と同期の高18回に五郎兵衛の孫という方が居ました。本名で呼ばれる事は殆どなく、ゴロベエとかゴロちゃと呼ばれていました。クラスも別だった事もあり、彼の本名は?卒業アルバムで調べてやっと、そうそう江太郎君だった^^; あいつ今何してる? 調べてみたら、平成15年まで参議院国土交通委員会専門員の室長を務めていました。やはり交通関係でしたね。

飯田線は、直結した4社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合して成立しました。

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先輩が記した随筆を見つけたので紹介します。在京支部の機関誌 ⇒『稲穂』第7号にありました。久保田實さん(高5回)が書いた ⇒随想 飯田線よもやま話 ですΩカーブが紹介されていて、下山村駅で下車し急いで伊那上郷駅へ行けば降りた電車に再乗車出来る、という話が出ています。鉄道マニアの間では「下山ダッシュ」と言われ、成功すれば自慢ネタとなっています。

最後に今の飯田駅の写真を載せておきます。以前は屋根がはげたりで少し古ぼけた感じがしていましたが、今は補修されてきれいになっています^^ 9/20(日)の撮影ですが、人が居ないね~。

 

(高18回 高田)