エッ?と思われる方が殆どでしょうね。私もビックリでした^^:
以前、田中貴金属は田中平八の系統と聞き、真偽のほどを調べた事がありました。結果、田中貴金属の創業者・田中梅吉(1853年)と田中平八(1834年)とは、生まれ年からみても無関係でした。その際、代わりに繋りが分かったのが高田万由子でした。

田中平八は、1834年(天保5年) 駒ケ根に生まれました。
藤島家の3男で幼名は釜吉でした。飯田へは魚屋の丁稚奉公として来ています。
その後1853年(嘉永6年)飯田城下の染物屋の娘 田中はると結婚し、田中家の婿養子となりました。でも家業の染め物に携わった様子はありません。名古屋や江戸へ出て色々したようですが成功せず。

しかし1865年(慶応元年)横浜に開業した「糸屋平八商店」が大当たり。主に飯田地方の生糸を輸出して財を成したと伝わっています。更に、為替・洋銀・米相場で巨利を得て、通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれる様になりました。

1876年(明治9年)に東京で田中組(後の田中銀行)を創立。1878年(明治11年)には東京株式取引所を設立し、同時に大株主となっています。
1883年(明治16年)に東京米商会所(現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取に就任。この米商会所の株式を上場。これも仕手戦にして、大儲けしたそうです。
病気となり熱海で療養中には、私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設。私財でやってしまうとは、凄いですね。1884年(明治17年)に50歳の若さで亡くなりました。

平八の会社「糸屋」はその後、日本橋茅場町で⇒糸平興産株式会社として今に続いています。そういえば⇒田中貴金属も平成18年まで本社所在地が日本橋茅場町であったため、混同されたものと思われます。

飯田高校はラグビーが盛んですが、日本ラグビーの父と言われる田中銀之助は、平八の長女の子(長男)です。

ケンブリッジ大学に留学。ラグビーとの出会いは、そこでエドワード・B・クラークと出会ったのがきっかけ。

帰国後、クラークと共に慶應義塾の塾生にラグビーのルールについて伝え指導したと言われています。

飯田警察署の横に「天下の糸平」の碑があります。

この辺り一帯は田中染物店の跡地でした。広大な土地ですね。1901年、下伊那郡立下伊那高等女学校設立時に、敷地は田中家から寄付されたそうです。後の県立風越高校ですね。(高校1年の時、新聞班の交流会での記念写真。知った顔がありますかな?)

その後、飯田警察署と創造館が置かれた訳です。

平八の碑は、伊藤博文の書に寄る物が東京向島にもあります。そこへは在京支部の皆さんが、歩こう会で訪れています。⇒第12回「飯田ゆかりの地を歩こう会」

一方、高田家は・・・
祖先の高田慎蔵は佐渡の出身。4歳の時、父の同僚高田六郎の養子となり高田姓になっています。二人とも養子に出て姓が変わっていますね。

明治3年(1870年)上京、ドイツ商館アーレンス商会の丁稚となり商業の道へ。明治11年(1878年)ドイツ人武器商人のマルチン・ミカエル・ベアのベア商会に通弁兼事務官として勤務。明治13年(1880年)ベアの廃業の後を継ぐかたちで、アーレンスとスコット(ベアの番頭)と共同経営で高田商会を設立。

欧米より輸入した機械・船舶・武器・軍需品などを中心に取り扱っていた高田商会にとって、富国強兵を掲げ近代化を推し進めていた当時の状勢は追い風となり、1894年(明治27年)の日清戦争で巨額の利益を上げた。更に事業を拡大し、ニューヨーク・ロンドン・上海等に支店を設ける。ベアから欧州各国の大製造所の代理店も譲り受けており、日本海軍を大口顧客としたアームストロング社も取引先のひとつでした。

明治29年(1896年)関連会社として高田鉱業、旭紡績、永楽銀行を創設。明治32年(1899年)にはアメリカの電気機械メーカー、ウエスチングハウス社の代理店になる。東京の街灯が一夜にして電灯に変わったのは、高田商会の成せる技だそうです。

もう大手の輸入商社ですね。更に日露戦争では海軍省御用となり、軍艦等の軍需品を納め豪商となりました。有力機械輸入商社に成長し、明治41年(1908年)合資会社に改組。傘下の事業を株式会社にし、一代で高田財閥を築き上げたのです。

文京区湯島一帯は高田家の土地でした。自宅は超豪邸で、設計者は鹿鳴館を手掛けた建築家のジョサイア・コンドル。高田邸の設計図が京都大学に残っているそうです。高田商会本店(麹町)・別邸(赤坂表町)もコンドルの設計。

慎蔵の妻のたみ子は東京の商家の娘(旧姓池田)。慎蔵には七男五女の子があったが、男の子が相次いで亡くなり5男の倉蔵は養子に行くことが決まっていた。そこで、次女・雪子の婿に田中釜吉を迎え、慎蔵の事業を継がせた・・・という事で田中平八と繋がったのです。

 

田中釜吉⇒高田釜吉は、田中平八の3男として明治9年(1876年)に生まれました。父の幼名釜吉の名が付けられました。(写真は何歳の頃か分かりませんが、なかなかのイケメンですね)

優秀だった釜吉は、ドイツへ留学。ベルリン工科大学で最新の機械工学を学び、明治34年に帰国。そして芝浦製作所に入社。更に東京電灯(現・東京電力)に技術部副部長として招かれ、技師として活躍。

跡継ぎに悩んでいた慎蔵は、釜吉に白羽の矢を!こうして高田家の娘婿となった釜吉は、明治42年に高田商会の副社長に就任。更なる事業拡大を進めました。大正元年に慎蔵は釜吉に采配を譲り、自らは56歳で顧問に。大正8年(1919年)には完全に引退し、全ての経営を釜吉に任せました。

釜吉は父親譲りと思われる豪遊ぶりで、花柳界では「釡大尽」と言われていました。社員たちも取引先の接待という名目で料亭に繰り出し、奢りの気風が社に蔓延。大正7年頃までは景気も良かったのですが、大正10年に慎蔵が病没すると雲行きも怪しくなってきました。

大正12年は悲劇の年。4月に高田鉱業深田銅山が全焼。更に9月に関東大震災で自社ビル消失。大量の輸入在庫も焼失。更に思惑で輸入した大量の物資が、円相場の急騰で暴落。復興には大量の木材が必要になると踏んで買い占めた千葉の山林も、アメリカ等から安い木材が大量に流入して大赤字。

明治・大正と隆盛を誇った高田商会ですが、大正14年2月に破綻してしまいました。高田財閥の名も人々の記憶から消えていくことに。釜吉は責任を取って退陣。昭和32(1957)年、81歳で亡く なりました。会社はその後も元社員の手で続き、今も神田鍛冶町に在ります。⇒株式会社高田商会

家族は・・・
妻・雪子との間には、一人娘の愛子を授かりました。成人した愛子は北岡正見と結婚。北岡家に嫁いだのです。となると、跡取りは?
北岡正見は東大医学部卒の医学博士。国立予防衛生研究所でウイルスの研究をしていました。今居ればコロナウイルスの研究に携わっていたでしょうね。
北岡家の長男・祐一は、高田家に養子として入り高田祐一となりました。この頃の高田家は湯島一帯の土地や豪邸は失ったものの、虎ノ門に豪邸を構えていました。母 愛子の両親(釜吉と雪子)の所ですね。養子として入ったのは何歳の頃か、ちょっと分かりません。この祐一が高田万由子の父親です。

では母親は?名は智子(さとこ)、旧姓は分かりません。武蔵野女子大在学中に祐一と出会い、卒業後23歳で結婚。年の差は11歳とか。モデル経験もあるという美人。二人の一人娘が、1971年(昭和46年)に生まれた高田万由子です。
こちらに高田家3世代女性の写真がありました⇒BVLGARI  歳の差があまり分かりません^^;
万由子の美貌は母親ゆずりですね。頭脳は・・・祖父の北岡正見からでしょうか?

父親の高田祐一は何をしていたか? UNION・高田商会の経営者。曾祖父の高田商会とは別物で、外車の輸入販売会社でした。それも、ベンツやロールスロイスといった高級車がメイン。注文を受けると直ぐにヨーロッパに飛び、一週間で納車・・・セレブ相手のセレブな商法だったようです。

万由子は小学校から高校まで白百合学園。父の祐一がロールスロイスで送り迎えをしていたそうです。
更に一年間スイスの ル・ロゼ学院に留学。此処も超セレブな学校で、休みになると校庭に迎えのプライベートジェットが何機も着陸したとか。

東大文学部西洋史学科に入学すると、父からの入学祝はガルウィングの車!とにかくセレブです。しかし、大学時代のお小遣いは3,000円/月だったとか^^;

趣味は乗馬。更に狩猟の免許も持っている。家族は皆狩猟免許を持っていて、釜吉の代から高田家の伝統なんだとか。強制的に取らされたそうです。

👈芸能界へのきっかけは、篠山紀信の女子大生シリーズで週刊朝日の表紙モデルに起用された事(1991年7月26日号)。その後ミノルタのCMへ。このコースは宮崎美子と同じですね。

紀信は、1994年に虎ノ門の万由子の実家で撮った写真集「T邸の怪(ケ)」を出しています。万由子が週刊朝日の表紙モデルになった縁からでしょうか。でも既に廃墟となってからの撮影のようです。巻末に、高田祐一氏の多大なご協力をいただきました・・・とありました。

家は凄いスケールです。ホテルオークラに隣接で、敷地は500坪。その半分は庭。家は大正時代に建てられ洋風と和風が半々という大豪邸。部屋の数はよく分からなくて、万由子が入った事がない部屋もあったとか。洋間には暖炉。父が庭の木を切って薪を作っていたそうです。田舎ではなく、東京のど真ん中でこんな暮らしとは!

建物は2002年に解体され、今は⇒「虎ノ門タワーズオフィス」という41階建てのビルが建っています。一体いくらで売れたのでしょう?もしかしてオーナとか?もう想像もつきません^^;
母が住んでいる実家の方は、西麻布のマンションだそうです。詳細は分かりませんが想像すると、1フロア全部、もしかしたら1棟丸ごとなのかも?

万由子は1999年ヴァイオリニストの葉加瀬太郎と結婚。葉加瀬太郎は結婚の申し込みに何度も実家を訪問。父は、「許さない」と言って門前払いの繰り返しだったそうです。最終的には熱意に負けて折れたんでしょうね。美女と野獣といったイメージも無きにしも非ずですが、アプローチは万由子の方からだったそうです。さもありなん!容姿端麗・頭脳明晰・セレブなお嬢様。しかもモデル・タレント・女優・・・そんな女性は、男にしてみればとてもハードルが高い。憧れるけれど近付けない。かえって引いてしまう。なので待っていても誰も来ない。そう思うのは私だけ?^^;でも、有名女優でそんな感じで独身の人、結構居ますよね。

1999年7月、長女 向日葵(ひまり)誕生。あら、出来婚ですか?^^;バイオリンをやっていて、イタリアのジュニアコンクールで金賞。父親の指導かと思ったら、教えているのは母の万由子なのだそうです。弾けないのに指導が出来るとは!父が直接指導すると厳しくやってしまうので、母親経由の指導なのだそうです。

2004年10月、父祐一 68歳で病死。早すぎますね。会社の方は・・・今はもうありません。

2006年8月、長男 万太郎 誕生。父の生まれ変わりかと思うほど似ているそうです。容姿だけでなく趣味とかも。料理が好きでその腕もなかなか。これも父に似ているとの話です。

万由子ファミリーはロンドン在住。世界を飛び回る葉加瀬太郎の活動拠点にもなっている。ここもまた豪邸。ミュージシャン仲間が集まってリハーサルする事もある・・・どんだけ広いんだ?二人の子供はロンドン育ちですね。
でも長男は、「日本人なんだから、日本の学校も経験したい」といって日本の学校へ編入。万由子は相変わらず、日本とイギリスを行ったり来たりの生活。コロナ禍の今は、不自由しているでしょね。

葉加瀬太郎も葉加瀬家の長男なのですが、高田家に婿養子として入りました。それも多分結婚条件でしょうね。なので今の本名は、高田太郎です。二人の子も当然高田姓で、高田向日葵と高田万太郎。

必要以上に長く書いてしまった感もありますが、最後にまとめを^^;横書きですが家系図っぽく書いてみます。
高田万由子⇒父 祐一⇒その母 愛子⇒その父 釜吉⇒その両親 田中平八&はる。

平八は駒ケ根生まれ。はるは飯田生まれ。高田万由子には信州人の血が流れていると、いっても過言ではないですね^^;
当のご本人は、此処まで知っているのかな?

高田の読みは、タカダではなくタカタ。ジャパネットと同じですね。
書いている私も高田なのですが、読みはタカダです。当然ですが、何の関係もありません^^;

 

*文中の敬称は略。ご本人の各写真はネットから借用。T邸の怪 は私の所有本。

(高18回 高田 記)