第17回「飯田ゆかりの地を歩こう会【横浜編】」報告

連休直後の5月12日(日)に、令和時代がスタートして初めてのしかも東京以外として初めての第17回飯田ゆかりの地を歩こう会【横浜編】(牧内雪彦会長)が開催されました。今回の【横浜編】では、飯田から横浜への「絹の道」をテーマとしましたが、横浜開港資料館の上山和雄先生にご協力を戴きました。参加者は過去最多の40人で、好天に恵まれて大いに歩こう会は盛り上がりました。

今回は【横浜編】ですので、横浜在住の黒柳文子さん(高18回)と元横浜市職員の矢野隆平さん(高22回)と大原の3人体制で、歩こう会のコース選定や資料作りを行いました。お蔭さまで、配布資料の評判がよく、コースや歩く量も適度であると好評でした。

朝10時にJR桜木町に集合し、そこから野毛山公園を皮切りに、横浜の代表的な観光スポットを歩きました。コースを説明しますと、以下の通りです。

桜木町駅→①野毛山公園佐久間象山顕彰碑→②美空ひばりの像→③吉田橋(日本で2番目に作られた鉄橋)→④富貴楼跡→⑤馬車道→⑥~⑧小野光景(横浜正金銀行を設立)→⑨赤レンガ倉庫(BEER NEXTで昼食)→⑩横浜3塔(キング:県庁、クイーン:横浜税関、ジャック:開港記念会館)→⑪横浜開港資料館→⑫⑬シルク博物館、飯田から横浜への絹の道→⑭山下公園を経由して中華街関帝廟→四神の牌楼を見て→懇親会場:広東料理「桂宮」→解散

①では、今から60年前に、横浜港の開港100周年を記念して当時の平沼亮三横浜市長が顕彰碑を建立したもので、400人の横浜村から370万都市に発展したのは象山先生のお陰であると高く評価したものです。開港場所について、海防上の理由から下田港ではなく横浜港を主張した佐久間象山(S)、防衛上の「急務十条」を時の老中に進言した川路聖謨(としあきら)(K)、米・露・蘭との交渉をまとめた岩瀬忠震(ただなり)(I)の「SKIトリオ」のお陰で横浜港の基礎ができたことを横浜市民は知っておく必要があります。

④では、明治の初めに元遊女であったお倉が横浜で置屋を開業し、その後高級料亭「富貴楼」を建てる際に資金援助したのが、「天下の糸平」の異名をとる田中平八(駒ヶ根出身)でした。お倉が女将として料亭を取り仕切った富貴楼は「料亭政治」のはしりといわれ、伊藤博文、大久保利通、大隈重信ら明治の元勲たちや、渋沢栄一らの財界の大物も足繁く通いました。富貴楼跡は現在は神奈川県中小企業センターとなっています。

⑥~⑧の小野光景は、上伊那郡辰野町出身の小野商店を興し、横浜で成功した小野光賢の子ですが、故郷へ帰った父の後を引き継いだ光景は横浜を代表する貿易商の一人として、横浜の経済・教育の発展に尽力しました。光景は明治13年の横浜正金銀行、横浜商法会議所(現 横浜商工会議所)、同15年の横浜商法学校(現 横浜商業高校)等の創立に主導的な役割を果たしました。小野商店は生糸売込商に参入して巨大な富を形成し、嘗ては原三渓の三渓園に並ぶ広大な小野公園が存在していました。

⑪の横浜開港資料館では、前館長の上山和雄先生(國學院大學名誉教授)により資料館の講堂において、飯田「天竜社」や喬木村「喬木館」等から諏訪を通って横浜に運ばれた経緯など、飯田と横浜を結ぶ「絹の道」についてお話を戴きました。横浜開港資料館は横浜の歴史・文化についての多大な資料を有しています。資料館の庭には「玉楠の木」があり、ペリーの黒船来航以来の歴史を見続けてきました。

⑬信州から横浜までの絹の道について、信州の生糸は上田や諏訪を経由して横浜へ運ばれました。上田回りは中山道で、諏訪回りは甲州街道で運ばれました。1859年に横浜が開港すると、それまで京都に流れていた生糸は、横浜へ流れるようになりました。その中心となったのは、鑓水(やりみず)商人でした。飯田藩は中馬の規制が緩やかであり、信濃においては河川は水運に向かなかったために、山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得ませんでした。明治から大正にかけて、鉄道の発達とともに信州の製糸業は伸び、片倉製糸など、信州の生糸生産量は日本一になりました。

中華街での懇親会には、上山先生を含む計38名が参加しました。恒例の下島晃さん(高19回)による歴史クイズを楽しんだ後、全員スピーチを行い、最後に全員で校歌を斉唱して盛況のうちに終了しました。

案内の詳細は、こちら
写真は、こちら(撮影は松原秀幸さん(高19回)です。)