氷河をわたる風 Vol.26 高8塩澤千秋
- At 12月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
十一月中旬に厳しい寒さが来ました。マイナス27度。このまま冬に突入するかなと思っていましたが、十二月に入ると逆に気温が上がり始め、最低気温マイナス10度、最高気温零度程度の暖かい冬になっています。残雪がありますが、晴れの日の続く穏やかな毎日です。日本と違って、湿度が低く、鼻が乾いて鼻血が出るほどですので、寒さをあまり感じません。でも、クリスマスごろには凄い寒さが、サンタのそりに乗って北極からやってくることでしょう。
今、クリスマス・ショッピングの最中です。週日でもショッピング・センターは
混んでいます。家族が一同に集まるので、一年で一番重要な時期です。親達が子供の帰りを待って色々用意しています。しかし、今年は不景気が反映しているのでしょうか、各家庭の屋外のクリスマス・ツリーや家全体の飾りが少ないように感じます。何時もは競い合うように飾り付けるのですが、今年はあまり多くありません。一寸寂しいクリスマスです。また、日本の年末と一番違う所は音のないことです。日本の町々ではとこでもジングルベルが鳴り響いて景気がいいですが、此処では公衆の場で音楽を大きく鳴らす習慣がありません。音を出しても雪が吸収してしまうのでしょうか、寒すぎて外での効果を当てに出来ないためでしょうか、とにかく静かです。
では皆さん良きお年をお迎え下さい。
Merry
Christmas and A Happy New Year!! From Canada
(December 17, 2003)
氷河をわたる風(26) Dwarf Canadian Primrose
六月の終わりごろになるとロッキーの裾野の雪が解け、気の早い高山植物が花をつけ始めます。インデアン居留地の中にある州立公園、Bow ValleyProvincialParkは、こんな花を撮影するのにうってつけの場所です。花の種類も多く良い条件で管理されています。湿地の上に掛けられた板橋の下のチョッと日当たりの良い所に、小さな群れを作ってDwarfCanadian Primrose、小型カナダ桜草が咲いていました。草丈10cmほど、地面に張り付いたように重なった葉っぱの真ん中から、スーッと茎がまっすぐに立ち、その先端に1.5cmくらいの、草丈に対して少し大きめの薄桃色の花が一輪咲いています。一寸見には硬いプラスティックのような感じを受けますが、実はビロード様の肉厚の柔らかい花です。別名Bird’s-eyeprimroseとも呼ばれます。花の中心にある黄色の円のためでしょうか。海抜1300mくらいの所で見つけましたが、それ以上の高所では見つけた記憶がありません。この公園はボー側の傍にあって、川の水面と同じくらいの湿地があるためでしょうか、綺麗な湧き水が、澄んだ池の底の砂を巻き上げて、いたるところから出ています。咲いた花の中をすいーっと飛んだり、止まって激しく羽ばたくハチドリを見たこともありました。狐、コヨーテ、鹿などの野生動物、鴨、雁などの野鳥も結構来ています。しかし何と言っても澄んだ声で鳴く鳴鳥の多いのが特徴的です。
写真1.Dwarf CanadianPrimrose、小型カナダ桜草。やせた土の上に確りと根を張って咲いています。可憐ながら、厳しい環境に順応して生きています。多くの親戚があって大概はもっと大きく花の色は多様です。 写真2.枯れ草の中に群生していた桜草の一部です。湿地の傍の幾分乾燥した草原の中に見つけました。岩の上に咲く花より少し草丈が高いようでした。 写真3.桜草の咲いていた場所“Many Springs”はこの池の向こう側の低地です。この池には水鳥がやって来て雛を育てます。白い花はマメ科の植物らしいのですが、似た花が一杯あって名前をまだ決定できません。

今からお話しする事は、このような静かな時期ではありません。観光最盛期でロッキー山中の町、バンフやジャスパーが日本の町かと錯覚するほどに、日本人と日本語で溢れかえっていた時期のことです。旅行会社の鼻息は、それは、それは荒い時期でした。空港なども日本人で一杯、お土産店やホテルなどは何とかお客を有利に引き込もうと、客を引率するガイドに大変な気を使っていました。そのような訳で、ガイドがそっくり返っていた頃の事です。
このような盛大な旅行ブームの片隅に、この機会を利用した何とか儲けようとささやかな事業が幾つか始まっていました。そんな中に旅の途中で注文を受けたカナダの特産品を、カルガリー空港で日本に帰るお客様に届けるささやかな仕事がありました。バンクーバーに拠点を置く小さなみやげ店が日本旅行者から注文を取り、それを荷作りして空港で渡すと言う仕組みです。鮭の燻製、ビーフジャッキー、数の子昆布、メイプルシロップなどが品物です。
渡す品物はあらかじめバンクーバーの本店からカルガリーに送られていて、お客さんの出発の前日に注文表が名前と一緒にファックスで送られてきます。それが来ると夜は戦場のような騒ぎです。品物を指定された箱に注文通りに詰めて確りと梱包します。内容は間違いの無いように梱包前に何回か確認をします。二十人分から五十人分の注文をこなさなければなりません。大概は早朝のフライトで、注文書が夕方着いてからの仕事ですから、夜中にかけての随分きつい仕事になります。
それでも品物が揃ってさえいれば、何とかこなせます。前夜、出来上がった荷物を車に積んでおいて、早朝、指定されたフライトの少なくとも一時間前に空港に行って一行の来るのを待ちます。お客さんは一つの団体とは限りません。また、フライト時間も一緒とは限りません。幾つかの団体を一時間以上の間隔で待たねばならないこともあります。手数料はそれほど多くありませんから、手伝いにとってはあまり割りの良い仕事ではありません。しかし、旅行関係の事業に食い込もうと思う人にとっては一つのきっかけになります。
ある冬の事、わが妻が友達に誘われてこんな商売を手伝うことになりました。「やらない方が良いんじゃないの」と言ったら、「余分な事言わないで」と睨まれたので、どんなに忙しくても私は手伝わないと言う約束で始めました。ところが考えたようにならないのがこの世の慣わし。何しろ切羽詰まった時間に、大量の注文が入ったり、支店の奥さんが都合悪かったりすると、私のみならず、この事業に関係していない支店の旦那さんまで引っ張り出されるしまつ。その上に品物が足りないとなると目も当てられません。本店に電話をしてどうするか相談したり、その団体の添乗員の宿泊しているホテルに連絡したり、結局は日本に出発する最終地の空港で渡すことになります。本店はこのような商売を始めたばかりで、まだ組織だった事業になっていない様子です。こんなてんやわんやはしょっちゅうでした。事業主はどうやら最近日本から移民して来た人のようでした。
ある日最悪の事態が起きました。大口の注文が来たのですが、数人分の品物が不足です。本店から送ったはずの品物がまだ着いていなかったのです。本店に電話したり、結局、本店でバンクーバー空港に持って行くということになり、事情を添乗員に説明することになりました。ところが、ロッキー山中の観光の町、バンフのホテルに居るはずの添乗員にいくら電話しても捕まりません。夜中まで何度も電話した挙句、あきらめて、明日早朝に行って連絡しようということになりました。
荷物が多いので、約束を破って、私も荷造りと配達の手伝いに狩り出されました。数団体の品物があったからです。空港に着くのが早すぎたためか、目的の団体は中々現れません。長いこと待つほどにそれらしい団体が到着しました。日本からの添乗員は女性でした。添乗員のお客さんへの説明が終わるのを待って、直ちに状況の説明を女房殿が彼女に始めました。ところが話が半分ほどのところで、俄かに「そういうことは、昨日のうちに連絡してくれなければ困ります」と大きな声で怒鳴り始めました。これには驚きました。カナダでは公衆の面前で他人に怒鳴るということはめったにありません。昨夜、数回連絡したのですがあなたが捕まらなかったと説明しても、荷物は乗り継ぎの空港のバンクーバーで確実に渡すように用意が出来ていると説明しても、聞く耳を持ちません。「約束を守らねば困るじゃないの」大きな声でわめくばかり。
日本やアジアの国では公衆の面前で、他人を怒鳴っているのを時には見かけますが、カナダではぐんと数が低いのです。スラム街の喧嘩などのよっぽどのことで無い限り人を怒鳴ることはしません。アジアの国から移民して来ている人達でさえ、時々大声でしゃべる事はありますが、他人を怒鳴ることは、流石にしません。人間と人間の付き合いに上下はないとするのが、この国の基準です。怒鳴ることは上下がある場合、相手を奴隷として扱う時に限られます。こうした基準は、実際には心の中でどのように感じているか分かりませんが、表面上は結構守られています。
初めは吃驚して見ていましたが、余りの事につい口を出してたしなめてしまいました。ところがこれが、更に火に油を注ぐ事となり、ますます声を張り上げさせる結果となりました。実に閉口させられました。終には彼女、「私は○○交通社のAだ。文句があるなら会社にでもどこへでも報告して下さい」凄い剣幕でした。こうおっしゃるから、後ほどそのようにさせてもらいましたが、こうした場合に「移民」が感じることは、何の根拠も無いことに優越さを示そうとする「日本人」の行為に対するやるせない恥ずかしさなのです。こうした点は「純粋な」日本人には分かり難いと思います。
日本から付いて来る添乗員には、こうしたお土産を商売にしている日本人たちに対する、優越意識があるのでしょうか、チョッと尊大に構える所があります。それは昔の移民に対する日本人程ではありませんが、嫌な傾向です。カルガリー在住のガイド達は殆どが知り合いであるし、此処での「移民」の生活の程、その背景について知っているので、こうした傾向はありません。本国に住む日本人を含む東洋人の興味ある傾向です。
結局はお客さんのほうが、次の乗り換え空港で品物を受け取れるということを、すんなりと理解してくれてお終いでした。怒鳴る事など生じるはずのない『事件』なのです。品物は確実に渡すということを伝言するだけのことなのです。どうしてこんなに威張って、怒鳴るのか理解に苦しむことでした。戦前の「日本人」の「移民」に対する態度が蘇ったのだろうかと思うほどでした。しかしこれはこの会社との後のやり取りで、どんなつもりで観光事業をやっているか理解するに従ってなるほどと思うようになりました。
その後、私の抗議にだんまりを決めようとしていた会社を、何とかして議論の場に引っ張り出しました。ところがいやはや、私達が悪いのであるとお叱りを受けてしまいました。そして、怒鳴った方の言い分だけ聞いて、喧嘩を吹っかけたのは私であるとされ、怒鳴られたほうには何の調べも、詫びもありませんでした。おまけに、この会社はカナダのために観光事業をしているのであり、カナダ政府から歓迎されている。従って、あなた達は少しくらい不快な目にあっても仕方がないのであると言わんばかりの内容でした。日本の旅行社全体で高々カルガリーの中小企業ほどの経済的貢献をしているだけなのに、何とまあ。しかし、彼らの企てる旅行がどんなにかロッキーを汚して、地元民に白い目で見られているかには思いが行かないようです。
最近、一ヶ月の間にエジプトで三回もバスの事故を起こした日本の観光会社がありました。また今週、南米のバス旅行で事故が起こり、旅行者に重傷者が出ました。この旅行を企画した会社の名前が、所在地が違いますが、この会社と同じ名前でした。そして、もっと興味あるのはその会社の名前が、このそっくり返った添乗員の所属していた会社の名前と同じでした。怪我をしたお客さんには気の毒ですが、あまり威張ってそっくり返るとひっくり返るんじゃないの。あんまり威張る旅行会社の旅行には危険ですから参加には注意したほうが良いよと、意地の悪い事を言いたくなるような気持ちになります。
外国に出た場合、公衆の面前で、あまり気軽に他人を怒鳴らないほうが良いですよ。相手が私たちでしたから、途中であきれて手を引きましたが、他の国の人間でしたら、会社丸ごと多分ひどい目にあったでしょうね。気を付けて下さいね。
写真:クリスマス前のシヌーク・センター(ショッピング・センター)、クリスマス・ツリーのある風景を集めてみました。ただし此処ではジングルベルは鳴っていません。極めて静かな風景です。店の中も写したかったのですが、嫌がられるので撮れませんでした。年末のショッピングを楽しんでみて下さい。
氷河をわたる風 Vol.25 高8塩澤千秋
- At 11月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
ハローウインの前日から気温が下がり始め、当日は夜間マイナス20度になりました。そんな中、子供達は大きな袋を肩に家々をあちこち訪ねお菓子を集めていました。しかし、最近は住宅街での訪問は少なくなり、もっぱらモールに集まっているそうです。モール内の商店はカウンターにお菓子が用意してあって子供が行けばくれると言う事です。暖かい上に安全であると親たちには評判がいいようです。写真はまだ暗くなる前に、ハローウインのコスチュームを着て何処かに急ぐ家族です。親父さんが一番張り切っているようです。ハローウインが終わった今でも気温は上がらず、昼間でも氷点下五、六度、夜間はマイナス20度近くまで下がります。一週間降り続いた雪は止み晴天が続いています。もう一回くらいインデアンサマーが来ることを期待しています。
信州は今が秋の盛りでしょうか。美味しい果物があって良いですね。それに、花の無い白一色に凍りついたここの冬と違って、何処かに花が咲いている日本の冬は良いですね。
(November 7, 2003)
氷河をわたる風(25) Labrador Tea
六月、チョッと山深く入るとまだ残雪のあるロッキー山。早朝の林の中にムースの群れが見られると聞いてWaterfowlLakeのキャンプ場に一泊、早起きをして林の中をChephren Lakeに向かって緩やかな坂を登って行きました。まだ誰も通った様子がなく、足元から雷鳥が飛び立ったりします。坂を上りきるとなだらかな草地が林の右手に開けていました。その辺りにムースがたむろしていると案内書にはありましたが、この日は足跡も見つかりません。もう少し行ったら、もしかしたら、とうとうChephrenLakeまで行ってしまいました。湖岸に立つと寂しさと山の厳しさがじわっと押し寄せてきます。
この辺のムースなどは、運良く偶然に会うか、腰を据えて幾日か待たねば観察出来るものではありません。この日はあきらめて、キャンプ場に戻ることにしました。その途中、キャンプ場の傍を流れるMystayaRiverの岸辺にLabradorTeaが群生しているのを見つけました。石楠花の親戚です。名前にTeaお茶と付いているのはハドソン湾に初めて住み着いたヨーロッパ人がこの葉をお茶代わりに使ったのが、インデアンの間に広がったためだそうです。飲みすぎると体に毒だそうです。濃いお茶にしてはいけません。また、似た植物で、ここでも以前紹介しました、美しい花を咲かせるNorthernbog laurelにはアルカロイドが含まれていて毒だそうです。間違えないようにと図鑑に注意してあります。
飯田高松高校山岳部に居た頃、南アルプスでお目にかかった石楠花の花はもっと大きく艶やかでした。平地では中々見られなく、登山して初めて会え、恋心を感じた花でした。アメリカのシアトル市では町の中に艶やかに咲いていました。しかし、ロッキーの親戚は背丈も低く、花も小柄で色も艶やかではありません。厳しい条件のせいでしょうね。でも、信州の少女のような可憐な花です。
写真1.坂を登って林の中を歩き、平地に出ます。熊でも出て来はしまいかと、誰もいない林の中を歩いて辿り着いたChephren
Lakeは音の無い、寂しい湖でした。遠く湖の突き当たりに氷河が見えています。 写真2.32,3は正面と横顔を撮ってみました。花房の大きさは5cmから10cm程度です。こうして大きくして見ると石楠花の姿でしょう。 写真4.Myataya River の岸辺に咲くLabradorTeaです。遠くに氷河を乗せた山が見えます。多分川の水源です。川の水は大変冷たかったです。
(全ての写真:1999年6月29日撮影)

ロッキー山の落葉松林は森林限界の上部、高山植物地帯との境に分布します。モリンレイク登山道を辿ってテンプル山の中腹に達する辺りをラーチバレー(落葉松の谷)と言い、落葉松が群生しています。春の新緑はかすむようなうすい緑で他の針葉樹とはっきり区別でき、秋は燃える如くの赤茶色の森となります。信州の山に生えている唐松と変わりありません。この林を見ると何時も白秋の詩と信州を思い出します。
繊細な山肌と変化にとんだテンピークス(十の峰)に囲まれたモレインレイクはコバルトブルーの絵の具を溶かしたような色をしています。
国道一号線、カナダ横断道路から分かれたレイクルイズに通じる道を途中から西に入ります。森林の中を曲がりくねる細い道を六マイルほどドライブすると突然眼前に開ける風景です。氷原を載せたいくつもの形の良いいただきが青い空にくっきりと聳え立ち、谷間は氷河で埋められています。路肩に車を止めると谷を隔てた向かい側に寺の鐘を伏せたようなマウントバベルがいささかコミカルな形で立っています。その上方を高い峰々が連続して湖の周りを囲み、右手のマウントテンプルまで続きます。道路からはマウントテンプルは近すぎて、はりだした荒々しい山腹の岩肌しか見えず、其処には新雪が張り付いています。
モレインレイクから川への出口をふさぐように岩山が盛り上がっています。この由来不明の岩山によじ登ると奥行きのある湖の対岸に氷河から出る水の流れが白く岩をかむのが見えます。水量は氷河が凍り始めたため少なくなり湖の水位も随分落ちてしまっています。湖を囲む峰々からは春の終わりや秋の始め、なだれが大音響を伴って落ちてきます。左側の殆ど垂直に近い岸壁からは、雨の日など岩の間から水が噴出し、土砂と共に滝となって落ちてきます。
右手上方、テンプル山の中腹にラーチバレー(落葉松の谷)の紅葉し始めた落葉松が見えます。直ぐ、燃えるような黄金色の森に変わるでしょう。湖の岸から右手の斜面、森の中のハイキングコースを辿って二時間くらい登るとラーチバレーに到着します。さらに直進して高度を稼ぐとセンチネルパス(番兵の峠)に達します。最後の登りは露出したかなり急な斜面に付けられた稲妻型のコースを通らねばなりません。一度友達と登った時、彼は四つん這いになって登りました。余程疲れたのかと思ったら、そうではなく彼は高所恐怖症であったのです。高山植物が疎らに生えたのっぺらぼうの広い斜面ですので、全行程足の下に落ち込む深い谷が常に目に入り、吸い込まれるような感じがします。高所恐怖症の人にはちょっと辛かった事でしょう。ある夏の事、この峠に登り、向こうに広がる尖塔の群れや、パラダイスバレーを楽しんでいると、二十人ばかりの中年日本人団体が登ってきて、いきなり「ばんざい」とやった時には、驚くと共に興ざめの気持ちにさせられたものでした。
もしけさと、なだらかさを求めるなら、ラーチバレーの入り口で左手のコースを採るのも良い。なだらかな山腹に付けられたハイキングコースで、ロッキーで一番澄んだ湖といわれるアイフェルレイクを通過、左手に山の急斜面にへばりついた氷河を見ながらレンチャムパスへと通じています。この道を辿ると、下から見た山容と違ったテンピークスの顔が現れて来ます。湖を取り囲んでいるように見えた連続する峰々は、実は十二三キロも続く縦に長い深い谷の両側に並んでいるのです。谷に平行したコースを辿ります。ガレ場を通り、沢を渉り、雪渓を滑りながら進む。思いがけない所に驚くほど透明な湖が見つかります。エイフェルレイクです。近くの岩場には犬程もあるマーモットが茶色の平たい体を岩の上にながまらせて、珍しげに人間を眺めています。逃げるようすなど少しも示しません。人間の獰猛さを余り知らないのでしょう、全然気にしないようすです。浅い林の中を通る時にはリスが足元をちょろちょろします。高山植物のお花畑では雷鳥の親子が大忙しで坂を下っていきました。時には熊の足跡を見つけ、それが新しいか、古いか判断して進むか戻るか決めなければなりません。幸いな事に此処では、聞くほどには新しい足跡には出っくわしたことはありません。
モレインレイクへの道路は、かつては、道幅が狭くおまけに路面が荒れていたので観光バスが入れなくて個人旅行者ばかりでした。殆どが山を楽しむ人達ばかりで実に静かな所でした。近年、本のちょっとした補修工事の後、狭い道に観光バスが入るようになりました。運転手の腕にまかせっきりといった所です。多くの人達がこの美しい優雅な湖を楽しめるようになりました。此処を訪ねる殆どの日本人は、何となく気位の高いレイクルイズよりも、やさしい顔のこの湖を好きになるようです。良い所を多くの人が楽しめるようになるのはよいことです。しかし、それなりに湖の雰囲気も変わって行くようです。今も小高い岩山から、辺り構わず下に向かって大声で「おかあーさん」と呼んで手を振っている日本の子供達が見えます。
こんな短い秋が終わると、このモレインレイクの道も閉鎖され、アルバータは白一色の厳しい冬へと入って行きます。
氷河をわたる風 Vol.24 高8塩澤千秋
- At 10月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
カルガリーはただ今黄葉の真っ最中。一年で一番美しい時です。大規模な黄葉が果てしなく続いています。でもすぐ落葉を迎えることでしょう。夜の空も何となくオーロラが出そうな雰囲気です。
(October 5, 2003)
氷河をわたる風(24)
長い間無断で原稿を送るのをサボってしまって申し訳ありません。実は、八月から九月にかけて、一週間の講習会の講師をあるところから依頼されて、その準備と講義のテキストにする本を一冊纏めたりしていて、原稿を書く時間が取れませんでした。まことに申し訳ありません。この仕事の途中で原稿を送れると思っていましたので、ついつい断りの連絡を致しませんでした。まことにけしからん次第です。
カルガリーの下町に、久しぶりに行ってきました。人々は色々な服装で冬の前の一時を楽しんでいます。カルガリー市のほぼ中央をボー川が流れていますが、川の下町側寄りにプリンス・アイランド公園があります。ここはロッキーなどとは違って非常に都会的に整備されています。近くにオフィス街があり平日でも結構賑わいます。特に昼休みなどは食事や散歩に来る人達で一杯です。夕方は散策に来る人が静かな森や雁や鴨の泳いでいるにずべを楽しんでいます。その公園がただ今紅葉で彩られています。
そんな所の写真を撮りましたので今回は一次凌ぎにそんな風景をお送りします。忙しい仕事も一段落いたしましたので、これからはまた原稿を定期的に送らせて頂きますのでよろしくお願いいたします。
写真1.七番街。歩行者天国でパトカー以外車は一切シャットアウトです。街路樹は葉が落ちて裸に
なりつつあります。 写真2.オリンピックプラザー、ウインターオリンピックの時此処で表彰式が行われました。
背後の建物は新旧の市庁舎です。まだ噴水が上がっていました。 写真3.公園の中の遊歩道。アスペンポプラの黄葉のトンネルです。
氷河をわたる風 Vol.23 高8塩澤千秋
- At 6月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
五月上旬まで大雪の降っていたカルガリーもようやく春になりました。我が家の前のブラックチェリーも良い匂いをさせて咲いていましたがもう満開を過ぎ花を散らせています。ライラックも咲き始めています。気温も上がり芝生の手入れも大変になりました。
トロントでSARSの再発がありカナダ全体が感染地域のように真っ赤に塗られていますが、実際はトロントだけです。幸いなことに、現在、カルガリーは勿論のことバンクーバーなどの他の大きな都市では感染者は一人も報告されていません。ただ、欧米で唯一の感染国となりカナダ医学会いささか不名誉なことです。おまけにアルバーター州はBSE感染の牛が見つかって大変です。アメリカがいち早く牛肉と乳製品の輸入を禁止し日本もそれに追従しました。既にアルバーター州の16箇所の牧場が隔離処理になっています。隣のサスカチワン州でも6箇所の牧場が隔離されているようです。感染ルート、原因を追求中です。カナダはSARSで観光事業は大打撃、おまけにBSEで経済的なダメッジのダブルパンチを受けています。ロッキーの山は大変静かで私たちには嬉しいですが、そんな事を言うと袋叩きに会うかもしれません。
先週撮影したMoraine Lakeの写真を添付します。
(June 5, 2003)
氷河をわたる風(23) Yellow Violet
この黄色いスミレは木漏れ日の落ちる森の仲に咲いていました。 紫のスミレは日本のスミレと同じで春の初め、明るい日当たりに咲きます。黄色いスミレはロッキー山のあちこちに見られますが殆どが高い木の林立する森の中でした。氷河の風が木立の間をゆっくりとすり抜けてゆく場所を登って行くとかなり急な草原に出ました。そこには勿忘草が群生していました。そんな中にゴルファーが立ち上がって物珍しそうに人間を観察しています。そして、少しで近づくと「キー」と鋭い警戒の声を上げて穴の中に飛び込んでゆきます。この斜面の一段下には朝早くグリズリー熊の母子が餌をあさりに来ていました。彼らの去った後には大きな穴が掘られていました。グレーシャーリリーの群落の真ん中を掘って折角の花を台無しにしている所もありました。山の乱暴者です。
写真1~2.
カナナスキス カントリー、ターミガンサークルに登る途中の林の中で群れて咲いているのを見つけました。
(1999年7月21日撮影)
写真3.
穴の直ぐ傍に立って興味津々で人間を観察するゴルファー
(1999年7月21日撮影)
パーティー
エドモントンに居た頃は留学生が色々と連絡しあって情報を交換したり、また家族ぐるみのパーティーを良くやりました。カナダ人に招待されるパーティーは大概大人だけで子供は連れて行けません。一緒に招待されていない場合は子供を互いに預けあって出かけました。カナダ人の子守りを雇う事も出来ます。多くは中学生から高校生のアルバイト。良い子守にあたればよいが、悪いのに当たると子供たちは悲劇です。パーティーから帰って、泣きべそをかいている不機嫌な子供達のつたない訴えを聞いてみると、子守のお姉ちゃんは子供達を一部屋に閉じ込めて、自分は電話ばかり掛けていたとか。中にはボーイフレンドを呼び込んで子供をそっちのけにして二人で楽しんでいたと言うようなことにもなりかねません。
互いに気心の知れた日本人同士が順繰りに子守りをするのが一番安心の出来る方法です。このようなわずらわしさを避けるために日本人だけのパーティーではなるべく子供を一緒にするように努めていました。カナダ人が入って子供抜きでやる場合、日本人を一緒に招待する時ははっきり言わねばなりません。言わないと子供付きで来ます。日本では大人だけが集まって楽しむ機会が少なく飲んでいる所で子供がちょろちょろするようです。また、それを余り気にしないようでもあります。大人の世界と子供の世界の境界がカナダほど厳格でないということでしょうか。
カナダ人の招待は夫婦一緒であるのが常識です。日本の場合招かれるのは大概亭主ばかりですので、カナダ人のパーティーにそのつもりで一人出かけたりすると酷い目にあいます。玄関に入ったとたん一人である事がわかると変な顔をされ、何故女房の来なかった事をしつっこく聞かれます。従って夫婦の一方が都合の悪い時にはパーティーに行かぬ事にしました。これは行きたくないパーティーを断る良い理由にもなります。
招待されたら招待し返すのが普通です。年齢の差、身分の差は問題になりません。日本の場合、会社など身分の上の人に招かれても招き返す事は少ないようです。しかし、カナダでは、目上の人といえども招待されっぱなしで招待する事を怠ると、段々疎外され何時の間にかそのグループから締め出されます。こうしたパーティーをする場合言葉の問題習慣の違いにより驚かされる事が多くあります。そんな事にあうのも新鮮な経験で留学生たちはカナダ人をせっせと招待してはかなりこった日本式料理を饗してパーティーを楽しんでいました。
Kさんの所では研究室の教授を招待した時、大量の料理や飲み物を余らせたとぼやいていました。教授がモルモン教であることを知っていましたが夫人がその上に菜食主義者であり、食べ物に随分制限があることを知らなかったのです。用意した料理が彼らの宗旨に合わないものばかりで徹底して手を付けなかったと言います。普通、こうした事は招待する前にチェックするのですが、うっかりしてチェックを忘れると酷い事になります。この様な招待で日本人にとって始末の悪いのは、ユダヤ人、菜食主義者、インド人です。彼らには食べ物についての戒律があり絶対に融通が利きません。
エドモントン時代、共同研究者の一人がインド人でした。この夫婦を招待した時におでんを出した事がありました。亭主の方はへっちゃらで何でも手を出して旺盛に食べるのですが、奥さんの方は一々どんな原料であるか聞きます。肉類が少しでも入っていると絶対に手を付けません。魚肉すらです。一々聞かれているうちに、はんぺん、ごぼう巻、竹輪など魚肉が入っているのかいないのか判らなくなり、野菜だよ何て言って食べさせてしまいました。彼女は野菜であると信じて食べた後、なんでもないようでした。しかし、肉の入っているのが後で知れようものなら絶交になりかねません。彼女はインド生まれですが英国で教育を受け大学院まで終えて化学の分野の博士なのですが、生まれた国の習慣をガンとして変えようとしません。サリーを実験室にまで着て来て、長いすそを薬品で汚れている床に引きずったり、緩やかな布が薬品ビンを引っ掛掛かりはしないかとはらはらさせたりするのもインド女性です。
インドから来ていたヒンズー教の学生が牛肉を食べた話です。おっかなびっくり生まれた初めて牛肉を食べた所案外美味しかったと言う。ところが、ある日、インドから兄が訪ねてきた時うっかりその事を言ってしまい、殺されかねまじき剣幕で叱責を受けたと言います。彼らにとっては牛肉を食べることは人肉を食べると同じほどの事であったらしい。傍に居たカナダ人が青くなったほどの叱り方であったと言うから相当のものです。
ユダヤ人の招待も難しい。しかし、中にはアメリカの若い改革派のユダヤ人も居ます。彼等はコシャ(ユダヤ教の食物に対する掟)など守らず、豚肉をホワイトステーキなど行って平気で食べます。そしてユダヤ教の安息日シャバート(土曜日)に休まない。戒律に従うのは自分の結婚式の時だけ。但しこれは例外で、大概のユダヤ人は日常かなり厳格に戒律を守っています。コシャを守るユダヤ人を夕食やパーティーに招待する時は非常に気を使います。豚肉やえびなど出してなくても、オーソドックスのユダヤ人を招いたりすると出した料理に絶対手を付けず水ばかり飲んで帰っていきます。イスラエルに居た頃幾度かこのような失敗を繰り返しました。
ユダヤ人の場合、食べ物に厳しい制約があり、食べてよいものと食べてはいけないものが宗教的にきちんと定義されえているのです。それらは肉類などの種類だけでなく、殺し方、料理の仕方、料理する場所までユダヤ教の教理に従ったものでなけねばならないのです。彼らを招待する時には勿論豚肉を出すような非常識はしませんが、厳格なユダヤ人は例えユダヤ人が買うコシャの店で買ってきた牛肉でも手を出しません。理由は台所にあります。日本人はユダヤ教の戒律に従って生活しているわけではないので、イスラエルに居たとしても、日常の食事に必ずしもコシャの物ばかり使っているわけではありません。時にはキリスト教アラブ人の店から豚肉やコシャでない牛肉を買ってきた料理します。従って、ユダヤ人に言わせれば日本人の台所はそうした食べ物によって「穢れている」のです。そのような台所で調理されたものを食べるなどとんでもないと言うわけ。イスラエルでは日本人などの「異教徒」の使ったアパートは、ユダヤ人が後で入る場合、ユダヤ教の儀式に従って「おはらい」をして清めてから入ると言います。そうした点は徹底しています。我々を穢れているとは馬鹿にするなと言いたいのですが、すがすがしいほどの頑固さを示します。
イスラエル南端の港エイラートの近くでは大きなえびが獲れます。イスラエル人は宗教上の理由で海老、貝、蛸などは食べません。ユダヤ教の戒律によれば、水に住むもので食べてよい物はうろこの有る物だけ。従って、うろこのない海老は食べないので、イスラエルの海では大型の海老がわんさと獲れてユダヤ人以外の旅行者を楽しませます。碁仲間となった教授が地中海に面する海岸に海水浴に連れて行ってくれた事がありました。その海岸は貝殻ばかりで砂が殆どなかったくらいです。適当な大きさの貝殻を拾って碁石にしました。数千年の間、貝は戒律のため食料とならず自然死するに任せていたのでこんなに貝殻がたまったのだろうかと考えたものでした。
ところが、若者と言うものは何れの国でも冒険好きで、また、禁じられればそれに逆らってみるのが本質みたいなもののようです。イスラエルの若者も例外ではありません。エイラート近辺に配属された兵隊が四、五人でこの海老を試食したそうです。それを目撃したのが私の日本人の友達でありました。彼の話では、テーブルについた兵隊達は海老を前にして異常に静まり返り、顔は引き攣り蒼白、目はつりあがりまさに決死隊の姿であったという事でした。
ユダヤ教のコシャ-に関連して日本の友人にぼやかれた話があります。彼の勤める会社が海外への進出を始め、アメリカの会社と取引が出来始めた頃の話です。アメリカのバイヤーとの会議も終わり、条件の良い契約もほぼ合意に達し、明日は最後の詰めと調印だけとなりました。彼はその晩そのアメリカ人を日本料理屋に招待しました。
彼は次々と出てくる料理を楽しんでいるように見受けられた。ところが途中蛸の酢の物を食べてこれは何であるかと問うた。「蛸である」と堪えたとたん彼は真っ赤になって怒りだし、調印寸前の取引はパーと相成りました。未だに原因が解らない。蛸を食わせたのが悪かったらしいのは確かであるとぼやきます。彼はユダヤ人ではなかったかと問うとそうだと言う。「ユダヤ人になぜ蛸など食わした。怒るのが当たり前。」とユダヤ教の講義を一くさりする事となりました。原因を理解すると「あの野郎、なぜ食う前に聞かぬ。」と今度は友人の方がむくれる始末でした。豚肉を食べさせてはいけないことは知っていたが蛸までとは知らなかったのです。こうした点、ユダヤ人もインド人も少し手前勝手です。自分達の習慣や戒律をすべての人間が知っているものとして振舞います。日本以外の世界ならあるいは通用するかもしれませんが、食べ物に非常に寛大な日本人は案外こうした事に無知なのです。俺は豚肉を食わせたわけではないと叫んでも後の祭り。蛸一切れで商売が吹っ飛んでしまうのです。留学生達はこれほどの失敗はしないまでも、小さいながら似たような事を繰り返して段々とカナダの世界へ入っていくようです。
氷河をわたる風 Vol.22 高8塩澤千秋
- At 5月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
日本はもう桜が満開になっているとのこと、NHK 国際テレビで見ました。東京の代々木公園、京都のあちこちの寺の見事な桜など紹介しています。飯田の桜ももう満開でしょうね。花見の時期ですか。天竜峡の桜、今宮の桜、みな咲き揃って、むしろを敷いてご馳走を広げて。帰りたいです。こちらにはこんな花見の出来るチャンスはありません。まだ、雪の中です。
今年の冬は遅く始まったためか、何時までも続きます。三週間ばかり前気温が上がり始め日中10度、夜間マイナス5度くらいになりました。しばらく続いたので、ボー川の土手のプレーリークロッカスの開花が気になって見に行ってきました。最初の日は芽も出ていなかったのですがその一週間後三輪咲いているのを見つけました。広い野原を一時間自転車を使って探した結果です。蕾はかなりありました。気温が上がったため、突然出てきたようです。来週はもっとたくさんの花が咲いて良い写真が撮れるかなと思って帰ってきたのですが、その晩から気温が下がり雪が降り始め、四日間降り続きました。ようやく晴れましたが、カルガリーの町は再び雪の中です。でもやはり春の雪ですね、解けるのは早そうです。クロッカスが心配ですが、北国の花は寒さに結構強いですから雪を持ち上げて咲いているかもしれません。雪が解けたら早速写真を撮りに行こうと思います。
ボー川には水鳥が来ています。近年は餌をやる人が居るので渡りをサボって越冬するのも居ますからその連中かもしれません。カナダグースがペアーを組んでいます。冬は彼らの恋の季節、そして子育ての準備の時期です。恋は静かに語るものではないかと思うのですが、恋の鞘当、子育ての縄張り争いとボー川は大変賑やかです。氷の上で恋をささやくカナダグースの写真を添付しておきます。
(April 10, 2003)
スミレに似たこの優しそうな花は実は食虫植物、昆虫にとっては誠に怖いムシトリスミレです。
スミレ科には属さずタムキモ科の一種です。花は全くスミレそっくりですが、葉っぱが黄色くて地面にへばりつくように広がっています。粘り気のある葉の上に昆虫が止まると葉が丸まって中に抱きこみ、消化液を出して溶かし自分の栄養にしてしまいます。食べ終わると又開いて次のご馳走を待つのです。氷河の風の中にそよそよと揺れる姿からはそんな怖さは想像も出来ません。
ロッキー山ばかりではなくその裾野や、アメリカ大陸の北方アラスカまで分布しています。ロッキーでは疎らながら、所々にまとまって咲いているのを見ます。グラシーレイクでは明るい場所の清水のちょろちょろと流れる岩の上に、写真の花を撮影したTangle Fallsでは明るい森の中、滝の傍で見付けました。
写真左上.
花だけ見ると優しいスミレと全く変わりません。
写真左下.
横顔を見てもスミレです。ところが下のほうに見える黄色い葉が曲者です。ここに止まった昆虫は花の栄養にされてしまいます。
写真右上.
この花は写真で見るような美しいTangle Fallsの岸辺に咲いていました。この滝は、観光地として有名なコロンビアアイスフィールドのパーキング場からジャスパー方向に5キロほどの所、坂の途中にあります。この辺りにはアメリカン
ビックホーン シープが群れているのを良く見かけます。
(3枚とも1999年6月29日撮影)
エイズが福音となる皮肉
人間が子孫繁栄の目的以外に性行為を楽しむ以上、その行為を仲介として広がる病気が出てくるのは自然な事でしょう。現在その最先端を行くのがエイズです。
正体をあらわしてから三十年近くになりますが、近代医学の知識を総合しても未だ治療法の確立が出来ない病気です。一旦感染すると治療法がないため直る望みがなく、体はあらゆる雑菌のいいようにされ、対象療法で少し命を長らえますが、今の所徐々に死んで行くのを待つしかありません。おまけに、この病気が最初発見されたのがホモの世界であったため、病気そのものが特殊な状態に置かれてしまい、他のルートで感染した患者も含めて非常な誤解を受け社会的に冷たく扱われています。最近、状況は幾分改善されて来ましたがそれでも患者は大変惨めな人生を強いられる病気です。
感染経路は欧米では男性の同性愛、麻薬使用者の注射針の共有などが主ですが、輸血、血液製剤による感染もありました。最近はこれら輸血用血液や血液製剤の検査が徹底して行われ、これらからの感染の可能性はぐんと下がりました。特に血友病患者への血液製剤には最大限の注意が払われていて、感染予防効果はかなり上がっています。
こうして医療事業の管轄下にある作業での事故的感染は顕著に減少しました。しかし、個人的な性行為、麻薬使用による感染は少しも変わっていないようです。性行為による感染も同性愛ばかりでなく異性間での性行為による感染が増加しているのが現状です。特に東南アジア、インドでは感染したことも知らずにいる人が多く、そうした人からの感染は増加する一方、国を滅ぼす病気となるのではないかと恐れられています。日本では最近若い人達の間で感染が増加していると聞きます。こうした種類の感染から逃れる唯一の方法は、危ない冒険をしないこと、お行儀を良くする事のみです。
日本男児の性的行儀の悪さは世界的定評を得ています。これについてはもっと悪いのがいると反論する人もいます。例えばスイス人です。スイスと言う国は性的行儀の悪さに対して非常に厳しい国であるそうです。従ってスイスの男性が世界で尤も行儀が良い紳士であると言われていました。ところがどっこい、日本に来てこの種の事で尤も破廉恥に羽目を外すのがスイスの男性だそうです。男と言うものはいずれの国の出身であれどうしようもない代物であるらしいですね。自分の国の男性が世界で最も行儀が良いと信じ込んでいたスイス出身の教授に、何かの折この話をしたら目を剥いていました。男のさがと言うものは何処の国の男も同質である事をやっと理解したようでした。自国内で余りに厳しいため、外国、特に質の違うアジア社会に出た時はたがが外れ、かえって反動が激しいものとなって現れるのかも知れないと悲しげに感想を漏らしていました。この様に男と言うものはいずれの国の男もしょうもない者で、従って日本男児のみが行儀が悪い訳ではないと言いたいのですが、しかし、日本男児の場合は内に於いても外においても大いに羽目を外してしまうのです。
日本では誰かが海外旅行をしてくれば、この種の話題がおもしろ可笑しく、時には自慢気に語られます。妻帯者であってでもです。
カナダではこうした事は決して一般的な話題にはなりえません。特に妻帯者の場合には、このような行為をおおっぴらに話す人は先ずいません。例えそうした経験を何処かでして来ていても、とても大っぴらには語れないのです。これだけ離婚の多い国ではこんな行為が発覚した場合、非常に不利な条件で離婚を無条件で飲まねばならぬ羽目に追い込まれます。この様な状況が或いはこのような行為をする事、またそれを語る事へのブレーキとなっているのかも知れません。兎に角そうしたところへ出かけてゆくのは大部分、特殊な独身男性であると言うことになっています。
カルガリーの町にも勿論男性の相手をすることを商売とする女性はいます。商売する場所も決まっているようです。勿論違法です。この町に住み始めた頃、こうした商売が街頭でこんなにも大っぴらに行われている事を知らずにいました。清潔な町と思っていたのです。冬の物凄い寒さの中、肌が見えるほどの大変な薄着でセクシーに街角に立つ女性を見て、女性と言うものはおしゃれのためには命に関わるほどの寒さをものともしないのかと、その健気さに感心したものでした。しかし、段々と事情がわかってきてその服装の意味する所を理解するに至ったのです。
最もこうした商売は服装だけでは判断し難い事もあるようです。派手な服装をするので有名な女性学者が私達の専門、免疫学会にいました。アメリカのある空港で学会帰り、実に「軽快な」服装で歩いていて、一人の男性から声を掛けられたそうです。その種の女性と間違えられたのです。意味が解るやいなや持っていたハンドバックでその男性の横面を思いっきりひっぱたいたそうです。たまたま同じ学会に出ていた研究者達に目撃されて、以後、彼女はこの学会で勇名をはせる事となりました。
カルガリーでは冬季オリンピックの前からこれらの商売は市から目の敵にされ徹底的な取り締まりにあいました。しかし、何時の間にか、また街頭で見かけるようになりました。今度は溜まり場が少し変わったようです。これに対抗して取り締まる方法も少し変わって、商売をさせた男性もつかまるという事です。婦人警官のおとりに捕まって酷い目にあった男性のいる事を新聞が報じています。ヨーロッパの古い町にもこうした商売ははやっているようですが、注意して良く見ないと解らない場所に立っています。しかし、カルガリーは夏の陽の長い事もあるのでしょうか、彼女たちは街頭にたむろし、スポーツにでも誘うが如くに客を捕まえて連れて行くのです。
こうした商売は日本からの男性旅行者には大変気になるものらしい。ロッキー山脈の風景も中々のものですが、また町の中の風景もまんざら捨てたものでは無いと思うのでしょう。ところが、商売が人間相手であるので言葉の関係で一人で行動できません。従って、ツアーガイドにその交渉をさせる事になります。これはガイド達が最も嫌う「仕事」です。日本旅行者のこのようななりふりかまわぬ図々しさに多くのガイド達が泣かされてきました。日本人の特性なのでしょうか、会社が社員を「自社の所有物」と考えると同じような論法で、ガイドを二十四時間自分の自由にどんな事にでも使えると思い込んでいるようです。
ところが最近このようなガイド泣かせの無理な要求をするお客さんが激減していると彼らは喜んでいます。エイズのためです。中には、女との交渉をしてくれと強引に押し付けてくるお客もありますが、「エイズが怖くありませんか」の一言で、大概はクシャっとなります。ガイドたちにとってエイズはまさに救いの神となったのです。。日本男児が海外に出て派手に浮名を流さないために、いや浮き名を流しても良いが、そのために嫌がるガイドを泣かせないために、エイズは治療法が見つからない方が良いのです。こんな反社会的意見がガイド達に密かに歓迎されています。彼らは今まで散々悩まされ、とてつもなく嫌な「仕事」から、エイズのおかげで解放されたと言う訳です。エイズが彼らに福音をもたらせたのです。この様なガイドたちのささやかな平安を壊さない為に、目的のためにはエイズなど怖がってなぞいられるか、などという“英雄”が現れない事を祈るばかりです。
写真1.観光客で賑わうBanffの町。十二月ですが、多くのスキー客が来るようになって冬でも賑やかになりました。ただし、ニューヨークの 9月11日のテロ以来客足が急激に減りました。その上今度はSARS で多くの人が旅行を控えているので、現在、観光事業は踏んだりけったりです。(2000年12月2日に撮影)
写真2.Johnson Lakeから見たCascade Mountain。Banffの象徴のような山ですが、観光客がこの角度から見るのはめったにないでしょう。この辺りの松林には五月になると野性の欄Fairly Slipperの可憐な花が一斉に咲きます。(2001年5月25日撮影)
写真3.Jasperの駅前の観光情報センターです。ちょっとしゃれた丸木小屋の建物です。ここも観光客が多いですが、Banff に比べるとあまり熱心ではないようです。そのためか自然により近い感じです。(2000年9月11日撮影)
写真4.Jasper からMedicine Lakeへと山の中を早朝ドライブしていたらMooseがひょっこり現れました。 若い雄です。野生動物がいっぱい居て轢き殺さないように注意してドライブします。(2000年9月12日撮影)
氷河をわたる風 Vol.21 高8塩澤千秋
- At 3月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
約一月かけて洪水の後始末も大部分終わりました。まだ、車庫には捨てなければならないものが山済みになっていますが、人間の住むところは何とか整備することが出来ました。いくらやわらかいソファーでも寝心地はベットにはかなわないことを知りました。今日は日中マイナス24度、最高気温マイナス20度、最低気温マイナス29度。パウダースノーが降り、いつの間にか積もっています。ここ十日ほどは厳しい寒さが続き本物の冬が戻ってきたようです。車庫の片付けはもっと暖かくなってからになりそうです。楽しみを少し残したようなものです。
(March 7, 2003)
氷河をわたる風(21) Alpine Buttercup
飯田高松高校山岳部に入り、一年生の夏南アルプス全山縦走に参加しました。初めての高山、登るのがこんなにしんどいものかと初めて知り、 もう来るものかと思ったのですが、以後登山は病みつきとなりました。二日目に登った東岳の斜面がこの花の群生で谷の底まで隙間なく覆われていたのを思い出します。頂上を目前にして疲れ果ててこの花の中にひっくり返って見た空はあくまでも青くありました。時に痛烈な皮肉を飛ばす、私の好きだった英語の先生が、あるクラスで生徒に英語を読ませた時、buttercupに訳文を振ってあったらしく、英語を読んでいるときその部分を”きんぽうげ”と読んだと苦笑いしながら話してくれました。お陰で、ButtercupはCherryの次に覚えた英語の花になりました。
ロッキーでもAlpine Buttercupはどこにでも見られます。群生しています。そして高度が高くなるに従って草だけが短くなってゆきます。
花だけが地面に張り付いたようなのも見ました。花の形も少しづつ変わるようです。厳密に言えば亜種として分類されているかもしれません。バターそっくりな色をしているのでButtercup と命名されたのしょうが、いかにも即物的です。日本語の”きんぽうげ”のほうがいかにも詩的です。英語には可愛い娘と言う意味もありそうです。
写真1.Ptarmigan
Circuitに登る途中の林の中で見付けました。素晴らしく光沢のある花びらです。(1999年7月21日撮影)
写真2.二年ばかり後ですが同じ所をさらに登り森林限界線の上まで出るとかなナスキスの山を背景に可憐な花が群生していました。花びらが少し丸みを帯びています。(2001年7月1日、Ptarmigan
Cicuitにて撮影)
写真3.コロンビア アイスフィールドの近く、Paker’s
Ridgeを登り、上の段中腹辺りに土にへばりつくように咲いていました。あたりはまだ雪に覆われていました。(1999年7月19日撮影)
2.オーロラ
青白く耀き揺れ動く光のカーテン。厚く三段に北の空に宙釣りとなっています。光はじっとしていません。前方に耀いていた光の塊がスーッと消えたと思うと右手の中空に突然濃い緑の線が現れます。左手にゆらりゆらりと漂うような光があるかと思うと思わぬ所から光が線となり槍となって走り出します。そしてたちまち広がり面となり塊となります。頭上にドーム状に放射線となって広がる光のすじ。線となった光が旋回し揺れ動く。風が姿を現したのでしょうか。ゆらりと激しく身を翻して音のない世界へスーッと消えてゆきます。
バンフからの帰りでした。真夜中に近い。ドライブをしながら何気なく目をやった北の空に広げられた光の饗宴。オーロラが現れていたのです。ハイウエーの街灯や町の灯など邪魔する光のないわき道に自動車を入れました。天空の大半を覆うほどの規模です。今までにこれほどの大きさのものは見たことがありません。星の姿が薄れてしまうほどの光の量です。
少し前娘と見に行ったオーロラも凄かった。午前二時頃何気なく目をやった北の空が薄明るい。オーロラだ。町外れの牧場へドライブします。頭上に、ドーナッツ状に浮かぶ緑がかった、にじみ出るような青白い太い光。規模はそれほどではないのですが形がめずらしく、はっきりした輪を描いていました。美しかったのは数年前アルバータ州の北東の隅にあるコールドレイクで見たオーロラです。友人家族と釣りの旅に出たときでした。湖畔にキャンプした夜、赤色をした上下二条の帯状カーテンが北の空に現れました。夕焼け雲と見間違うほどの強い光でした。激しく揺れ動きます。余りの凄さに湖畔の岩に腰を下ろしたまま動けなくなってしまいました。中天からは青白く明滅する光が一点から放射状に延びています。幸運にもこのようなオーロラを二晩続けて見られたのです。子供達に見せようと思って呼んでも揺り起こしても一人として起きて来ません。昼間暴れたため相当疲れたいたのでしょう。それにしても欲の無い事よ。ところが朝オーロラの話をすると、一斉にどうして起こしてくれないのよと言う。何ともはや。
オーロラは北に行くほど観察しやすく色彩が豊かになってきます。北極圏に入ると虹色をしたオーロラが中天から垂れ下がるのを見られるそうです。ある日、大学病院の食堂で私をエスキモーと間違えて話し掛けて来た、北極圏の町イエローナイフから来た若い看護婦が話してくれました。垂れ下がった光のカーテンから音が聞こえてくるような凄さだと言います。他の人は音など聞こえるはずがないと否定しますが、彼女はパチパチと言う音を聞いたそうです。
生まれて始めてエドモントンで見たオーロラは雲と区別のつかないほどの薄い小さなものでしたが、大いに興奮しました。オープンシアターで映画を見ている時に一緒に行った友達が見つけ、映画そっちのけで光の少ない郊外まで大急ぎで車を走らせました。エドモントンに住む仲間は、似たり寄ったりの同じ境遇の留学生であったので誰かがオーロラを発見すると真夜中でも何でも電話を掛け知らせあいました。中には寝入りばなを叩き起こされて寝ぼけ声で苦言を呈する人も居ましたが、大概は良いチャンスをお互い喜び合ったものです。そんな知らせを受けた時には寝ている女房殿をたたき起こして、麦畑というわけではないが、暗い畑の方へ夜のドライブとしゃれ込んだものでした。
オーロラは一年を通じてかなり頻繁に出ると言われます。ただ、弱い光であるので観察できる条件が難しく、暗く、晴れた空でなければなりません。したがって観察のチャンスがそれほどのあるわけではないのです。また緯度にもよります。北極圏が最も良く、カナダではイエローナイフとかフォートマクマレーなどの町には日本からオーロラツアーがあると聞きます。ある日日本から凄いオーロラの写真がインターネットで送られてきました。日本の友達からでした。彼はオーロラを見にフォートマクマレーまで父親を連れて来たとの事でした。カルガリーに長く住んでいてもめったに見ることの出来ないあざやかなオーロラでした。小規模なオーロラはカルガリーでも結構観察できますが、北極圏に出る大規模なものはやはり現地に行かないと見られません。ところがここに住んでいるとそんなツアーに参加しようと言う気がほとんどの人に起こらないのです。日本から来た旅行者の方があるいはカナダに住む人より凄いオーロラを見ているかもしれません。
北極圏を外れると南に行くに従ってオーロラは観察しにくくなり規模も色も小さく褪せて来ます。カルガリーはエドモントンから南に三百キロ寄っただけですが、オーロラを見るチャンスがずっと少なくなったように感じます。一般的に昼間暖かく、夜、気温が急激に下がる晴れた秋や冬の夜は、オーロラを見る絶好のチャンスなのです。(夏は昼が長くて中々チャンスがありません)。そんな夜はベットに入る前に、裏窓から北の空を注意して見ることにしています。ある夜、裏窓から見つけたオーロラをデジタルカメラで撮影したものを入れておきます。実を言うとオーロラの写真は条件が難しくて中々撮れませんでした。光が弱い上に揺れ動くからです。良い写真をとっている人も居るので、私もフィルムを使って幾たびか挑戦しましたが全部失敗しました。撮影した結果が一週間後では条件の設定が中々出来ません。その点、デジタルカメラですと其の場で結果がわかります。私のカメラの最大露出時間8秒でやっとこんな写真が撮れました。このデジタルカメラ、条件の変更があまり出来ないのです。もう少し長く露出できたらもっと良くなるのでは。だから、オーロラの良い写真を撮っている人を尊敬してしまいます。
写真3枚: 2001年4月18日午前2時頃、ベットに入る前にちょっと見た北の空にオーロラが揺れ動いていました。4月と言えばここではまだ寒い時期ですが窓を大きく開けて、三脚を据えデジタルカメラで色々と条件を変えながら写し、初めてオーロラの撮影に成功しました。写真の中に青白い点が見えますがこれはごみやしみではありません。星です。初めはこの点を見つけて撮影に失敗したかと思いましたが良く見たら北斗七星の形が見え、初めて星も映ることを知りました。三枚の写真で少しづつ変わっていくオーロラを楽しんでください。
氷河をわたる風 トラブル 高8塩澤千秋
- At 2月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
トラブル
昨年12月には母校を本当に久日ぶりに訪ねる機会を作ってくださり多くの方にお会いでき、嬉しくありました。校舎は大変貌を遂げていましたが、あちこちに何となく昔の面影と言いますか、匂いを感じることが出来ました。古巣と言うものはいつまで経ってもいいものですね。皆様には深く感謝いたします。
今回の日本訪問、大いに楽しみ、満足して帰ってまいりました。ただ、もっと早くにメイルを出して御礼をしなければならなかったのですが、遅れた裏には次のような“物語”がありました。
カルガリーには1月18日午後4時ごろ帰ってきました。ところが家の扉を開けて見て吃驚、二階のベッドルームから一階のファミリールーム、子供の居た部屋、要するに家のほとんどが水浸しになっていたのです。1月12日から13日頃気温がマイナス20度以下に急激に下がったとのこと、不幸なことに、その時我が家の暖房装置が壊れたようでした。留守に時々管理に来ていてくれた人が修理屋を呼んで直してくれたのですが部屋の温度はすでにマイナス20度以下に落ち、家中が凍結し、壁の裏の水道管が破裂してしまったようです。そのため、暖房がなおり彼が家を去った後、温度が上がり水道管内の水が溶け、破れた水道管から部屋の中に水が噴出したとのこと。翌朝、車庫から道路に流れ出る水を見つけて近所の人が消防を呼んで止めてくれたようです。そのときは既に一晩水が流れた後、家はほとんど水浸し、消防がかなりの水を吸い取ってくれたのですが、じゅうたんが吸った水はたっぷりとあり、沼を歩くようなものでした。おまけに、保険の条件通りに人を頼んでなかったと言う事で保険も降りず踏んだりけったりです。後始末は自分でやるよりなく、気を取り直して先ずは家の乾燥を始めたところです。二週間かけてどうにか乾きましたが、ここに帰って来た直ぐの一週間は気温がマイナス27度と、樹氷が出るほどで、まことに厳しくありました。ただ今気温は上がり0度近辺ですが、まだ寝る所もなく居間のソファーをベット代わりにしています。それもまた楽しいものです。ボツボツと時間をかけて楽しみながら修理していく予定です。
帰ってきた日が土曜日でしたので二日間何にも出来ず水の有難さをつくづく味わいました。水道管が破れたままでしたので元栓が開けず、飲み水はもとより、トイレのフラッシュも出来ず往生しました。マイナス27度の中隣までバケツを持って水を貰いに行ったり、スーパーに飲み水を買いに行ったりてんやわんやでした。しかし、厳寒の地でないと起こらないアクシデント、なんとなく張り切ってしまい、こんな状態を楽しんでいるところもあります。いずれにせよ一ヶ月ぐらいは修理で楽しめそうです。
地下の部屋に置いてあったコンピューターは出水の直撃を受け、水浸しでした。CDプレーヤには金魚が泳げるほどの水がたまっていました。このような状態でメイルも送れませんでした。分解して一週間乾かしたところ、わずかな損害で、どうにか動くようになりやっとメイルを送れるようになりました。こんなてんやわんやの状態にありますので、ホームページに送る原稿も書けず写真も選択できない状態にあります。家の修復が終わるまでお待ち下さい。申し訳ありません。御礼方々とりあえず近況報告させて頂きます。(February 11, 2003)
写真はマイナス27度の時の外の様子です。このような条件下では誠に恨めしい情景です。
氷河をわたる風 Vol.20 高8塩澤千秋
- At 1月 15, 2003
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから) [塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
氷河をわたる風(20) Dryad
3000m以上の高山で痩せた岩場に張り付くように咲くこの小さな花はバラ科に属し常緑樹です。葉がぎざぎざなのが特徴的です。Alpine Avens, Alpine Rose, White Mountain-avensなどの別名もあります。
花の直径はイチゴの花より少し大きいくらい、2cm位でしょうか。この親戚で黄色い花を咲かせるMountain-avensはロッキーにしかありません。コロラドから北のロッキー山の高地、アラスカそして北極圏に咲きます。その他世界中の寒さの厳しい土地やアルプスのような高山で見られるそうです。常緑であるため雪が溶けると直ぐに光合成を始めます。 ロッキーでは7月から8月にかけて見られます。強い氷河の風に吹かれて細かに震える花は、可憐ながら逞しいです。
一寸小寒い日Payto山の中腹をルートを外れて登った棚地の岩の上に割いているのを見つけました。この小さくて逞しい花には荒れた天候が似合うようです。
写真1、花の大きさに比べて茎の長さが短く厳しい環境に耐えるように育っているようです。
荒れた天気の中一瞬射した光の中で映しました。(1999年7月19日撮影)
写真2、岩にへばりつくようにして咲いている様子がお分かりになると思います。
一見草のように見えますが実際はバラ科の潅木です。(1999年7月19日撮影)
写真3、Payto Lakeのあたりには7月でも雪が降ります。後ろの山の雪は多分新雪と思います。
この花の咲く厳しい環境を想像して下さい。(1999年7月19日撮影)
旅行者も少なくなった秋の林の中に入ると、よく晴れているのにポツポツと雨のしずくの落ちるような音がします。松の木から風もないのに松毬が落ちて来ます。見上げるとリスが松毬を.食いちぎってはせっせと下に落とし、冬ごもりのために集めているのです。枝から枝へと忙しく走り回り、どの様に見分けるのか落ちてくる実は何れも豊かに稔っているものばかりです。

秋の空は澄み渡り水嵩の減った湖の色も心なし沈んだような青さとなり、波も立てず静かさを保っています。ポプラは黄色い葉を落とし始め茶色に枯れた下生えに針葉樹の緑が映える頃になると、鹿たちの恋の季節です。それまでは雌雄別々に群れを作って暮らしていたのですが、この季節になると一頭の強いオスを中心にハーレムをつくります。雄達はこの一頭になるために壮烈な命がけの戦いを始めるのです。この様にして出来たエルクの群れが夕日を浴びた針葉樹林の中に見られるようになるのもこの時期です。
多少寒さを感じるこんな時期になると日本からの旅行者の数もぐんと少なくなります。この季節に来る日本人は人混みを避ける本当の旅行の仕方を知っている人達でしょう。カナダ人の中に溶け込み、風景の中にすら溶け込んで異質さを感じさせません。初雪でほんのりと化粧した山々の静けさの中で旅を楽しんでいるようすは、眺めている方にも何となくほのぼのとした旅情が伝わってきます。

カナダに住んでいる日本人にとって感傷的な気持ちを誘発させるのは、季節ではなく、日本の歌です。小さな時に歌った歌が特にいけません。「ふるさと」など一曲目ですら完全に歌えた事がないのです。「うさぎ追いし………」とやり始めると、喉の奥が妙に引き攣ってきて、「こぶな釣りしかのかわ」あたりで声がふるえ、涙がぼろぼろ出てくるのです。
カナダ育ちの子供たちはそんな親父を実に不思議そうに眺めています。唄を歌いながら泣く等と言うのは彼女等にはありえない事のようです。尤も、彼女等は訳の解らないロックン・ロールで育っているのだから無理もないことではありますが。「谷間の灯火」は日本の歌ではないのですが歌詞がいけません。「たそがれに我が家の灯、窓に映りし時」と歌いだすことは出来ますが、「我が子帰る日祈る、恋し母の姿」となるともう駄目です。「ふるさと」と同じ現象が起きてきて歌い続けることが出来なくなるのです。「故郷の廃家」「峠の我が家」など「家」「母」「ふるさと」「ともだち」「はらから」等という言葉は禁句なのです。うっかりこんな唄を人の居る所で歌って、おかしなことになった時には逃げる事にしていますが、困るのはドライブしている時など、ふっとこんな唄が思い浮かぶと、魔法に掛ったように独りでにぼろぼろと涙が出てきて運転できなくなってしまいます。
日本に居た時にはこれらの唄にこれほど感情を動かされた事はありませんでした。また外国に出たばかりの夢中で暮らしていた頃は余り感傷的になるような時間は無かったように記憶します。しかし、日本に帰る基盤を完全に失い、外国に定住して骨を埋める事になると自覚し始めた頃からいけなくなったようです。カナダ人にはこうした感情は余り無いように見受けます。彼らは常に流浪的であるのかもしれません。
実際には、日本をそれ程恋しいとは思わないし、ある意味では日本の外に暮らせる事を幸いに思う一方、こうした歌えない歌が出来てくると言うのは、我が事ながら実に理解に苦しむ矛盾した現象です。外国へ出る機会を掴んだ時、むしろ「しめた、もう日本には帰らないぞ」と心が弾んだものでした。

小さい頃は父親が教員であった関係で県内を転々と歩き、小学校は三つ変わりました。何れの学校でも常に客人あつかい。今もそれは続いています。従って外国に出てきた時も、現在も、客人扱いにはいささかもたじろがない自信があります。


アスペン・ポプラの葉もすっかり落ちた。もう直ぐ冬です。
写真1、餌を集めながら一寸人間にけん制に来たリス。Payto Lakeの近くで。(1999年)
写真2、秋の初め頃林の中に逞しくたつElkの雄。6歳くらいでしょう。男盛りです。まだ袋角です。
この袋角がむけて落ちると鋭い角がむき出され恋の争いが始まります(1997年)
写真3、崖の上にのうのうと寝そべり、下の人間を悠々と見下ろすAmerican Big Horn Sheep。
彼らも秋ハーレムを作ります。大きな角を激突させての恋の争いは秋の山々にこだまします。(1997年)
写真4、高い岩山に生息する、Mountain Goat。望遠レンズを使いましたが一寸遠過ぎました。
少し拡大してみましたがボケてしまいました。雰囲気だけをお楽しみください。(1998年)
写真5、ロッキー山に秋が来ました。冬との境は明確ではありません。秋は忙しく過ぎて行きます。
Jasperの近くで撮影しました。(1980年10月撮影)
氷河をわたる風 Vol.19 高8塩澤千秋
- At 12月 15, 2002
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから) [塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
先週の火曜日は気温が下がってマイナス15度になりました。急激な気温の降下のため翌日は綺麗な樹氷が出来ました。短い寿命ですが町中を銀世界に変えました。そのときの写真を添付いたします。前に同じようなのを送ったかもしれませんが、これは12月4日朝撮ったものです。でもまだ本格的な冬は来ていないようです。今年の正月は日本で過しますので暖かな冬となる事でしょう。
(December 8, 2002)
氷河をわたる風(19) One Flower Winter Green (Woodnymph)
この長たらしい名前をもつ花は草丈10cm、花の大きさ1cm位の可愛い花です。アラスカからアルバーターロッキー山の低い岡から3000m以下の山に広く咲きます。読書のためのランプのように見えませんか。直射日光の当たらない木陰に咲きます。踊りつかれた妖精が地面に寝転がって氷河の風に涼みながら、本でも読むのでしょうか。Woodnymphという別名を持っています。Sentinel Passからの帰りみち林の中で見つけました。カナナスキスでも見た事がありますがそれは名前が示す通り茎がもっと緑でした。松の木の下でもう少し日光が強かったためでしょうか。見つけた時思わず地面に這いつくばって明かりが点灯しているかどうか確かめたほどでした。
インディアンはお茶にしたり薬に使ったようです。こんな目的には一寸小さすぎて直ぐになくなってしまいそうです。
写真1、Woodnymphの横顔です。傘がむいている地面がなんとなく明るいように見えませんか。
Sentinel Passからの帰りMoraine Lakeに近い森の中で見つけました。(1999年8月3日撮影)
写真2、正面から見ました。花弁がランプを灯したように明るく見えます。横顔とは一寸印象が違います。
写真1と同じ所で撮りました。(1999年8月3日撮影)
(2) 日本人は嫌いよ
「日本人は嫌いよ」これがバイト先から帰ってきた娘のセリフである。あちらの国こちらの国と渡り歩く父親の仕事の関係で、イスラエルで生まれアメリカ、カナダで育ちました。アルバイト先では英語と日本語の両方が出来るので大変重宝がられています。自分では日本人ではなくカナダ人であると信じているようです。しかし、国籍はれっきとした日本人であり日本人一世の両親のもとで育ちました。
何故日本人が嫌いかと問うと店にお客さんとしてやって来る日本人のマナーが他の国の人達に比べて明らかに違うと言うのです。

夏のシーズン日本人旅行者の数は日に日に増加の一途を辿っていきます。たまに今日は良い団体であったと喜んで帰ってくる日もありますが、殆どの日、一つか二つ憤慨の種を拾って来ます。先に話した日本語での説明でえらい災難を受けた二三週間後のある日、再び猛烈に憤慨して帰ってきました。また日本人の異種性を見つけたなと興味津々で聞きました。一人の「オジン」がカウンターでがんばってその団体全員に割引することを強いたと言うのです。こうした人達に接している間に「オジン」「オバタリアン」などと言う言葉もいつのまにか身に付いてきたようです。
それはさて置き、中年の団体が店に雪崩れ込んで来ました。姦しく品物をあさります。殆どが小物です。小物の場合割引はありません。ところが一人の「オジン」が小物を手にカウンターにやって来ました。

その団体が去った後店員全員ががっくりと疲れを感じ文句を並べてみたが甲斐なきことであったそうです。そのオジンは団体の責任者でも引率者ででもなかったらしい。しかしながら、大変努力して自分の属する団体のメンバーに「安い」買い物をさせて英雄となったのであります。
写真1、Engel Glacier. Jasperの近くMount Edith Cavellの中腹に掛かる美しい氷河です。天使が羽を広げているようでしょう。
山の名前は第一次世界大戦のときドイツ軍の捕虜であった連合軍兵士の脱走を助けて銃殺されたベルギーの看護婦の
名誉を讃えて付けられました。(2000年9月12日撮影)
写真2、Columbia Ice fieldの近く、氷河をべったりとつけたMount Athabascaを西側から撮りました。
一寸角度を変えてみると山の顔も違って見えます。(2000年9月12日撮影)
氷河をわたる風 Vol.18 高8塩澤千秋
- At 11月 15, 2002
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
0
高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
日本は寒波に襲われて吹雪のところが多いとか。飯田はどうですか。きっと雪の覆われている事でしょう。カルガリーは紅葉も既に終わり木々は丸坊主、昨日降った雪が積っています。まだ本格的な冬ではないので雪は湿っています。自動車が近づく時には注意しないと泥水を浴びせられます。しかしロッキーの山はもうすっかり冬化粧です。家のベランダから見る山は真っ白です。9月末にロッキーで撮った写真を一枚入れておきます。Athabasca氷河から撮った吹雪の中のAA氷河です。この凄まじい顔を見てください。先週、久しぶりにロッキーに行ってきました。
(November 10, 2002)
氷河をわたる風(18) Kinnikinnick
Heath familyに属する花。Kinnikinnick はIndian名、ヨーロッパ人はAlpine Bearberryと呼びます。別名はその他幾つかあります。Kinnikinnickを正確に発音しようとして舌をかまないで下さい。これはインデアンの言葉で‘混ぜ物’という意味だそうです。Indianはこの葉を乾してタバコに混ぜて喫煙しました。低地の松林の中、ロッキー山のAlpine meadow から北極圏のツンドラにかけて、小さな濃い緑の肉厚の葉を広げ、小さなベルのような花をつけてマット状に密生します。草丈は10-20cm沢山の枝をつけ、卵形の葉は6-15mm、花は白からピンク色をしていて大きさは5mm位の長さです。秋になると直径5-10mmの小さいりんごのような赤い実をつけます。
カルガリーのボー川のほとりでも見つけました。 インデアンはこの小さな植物を色々に使ったと言われます。実は生だと苦甘く口をつぼめるほどですが、熱をかけると甘くなります。クリーやチペウイ族はこの実をラードで料理してジャックフィッシュやホワイトフィッシュの卵と混ぜ、更に白樺のシロップで甘くして食べるそうです。 ユーコンのアサパスカン族は煮てから固形油と砂糖で揚げて食べます。残念ながら食べられるとは知らなかったので自分では試していません。葉には高濃度のタンニンがあって皮なめしに使ったとも言います。ただ、この葉のお茶は毒性があり飲みすぎると胃や肝臓障害を起こします。特に子供には良くないようです。
Kinnikinnickは野生動物にとっても重要な植物のようです。秋に稔る実は熊野の好物であり、葉は鹿や野生の羊の秋から冬にかけての食料になります。こんな可憐な花をつける小さな植物が極地や高山に住む人間や野生動物の厳しい越冬に力を貸してきたようです。
写真1、Athabasca氷河の向かい側のがれ場に咲いているのを見つけました。この辺りは夏American Bighorn Sheepが群れているのを見かけました。(1999年6月29日撮影)
写真2、花と実が一緒に付いているのを見つけました。カナナスキス、Upper Lakeの近くの山、Indifatigableに登る途中の岩場に咲いていました。足場の不安定な所でびくびくしながら撮った事を思い出します。(2001年6月9日撮影)
写真3、赤い実と濃緑色の葉。日本の榊のような感じです。ボー川の川岸、松林の中で見つけました。その辺りジュウタンのように密生していました。(2002年9月15日撮影)

六月下旬のある日、カルガリーが晴天であったので日本からのお客さんを連れてロッキー山に出かけました。ところが、公園の入り口に着くと雨が降り始めました。国道一号線そしてロッキー山をぬって走るスカイライン93号線を通ってコロンビア アイスフィールドまでの百五十キロ近い道程は篠つく雨。道路しか見えず、おまけに帰りは雪となり車がスリップし始め命からがら逃げ帰りました。ところが、公園を出ると空には雲ひとつ無くカルガリーはその日一滴の雨も降らなかったとの事でした。連れて行ったお客さん、日ごろよっぽど悪事を働いていて、天に逆らっているのではなかろうかと勘ぐってしまいました。日ごろの悪事の報いをこの日受けたのでしょうとからかったものでした。大変運の悪い人でした。とにかくアルバータの空は広いので一箇所の状況が全てに当てはまらないのです。そんな経験の後は、カルガリーが晴れていても百キロ先、ロッキー山の上空の様子を見てから出かけることにしています。
それはさて置き、空港はカルガリー市の東北の角にあります。南西の方角にダウンタウンが、西に遠くロッキー山脈が北から南へと連なっています。私達がカナダに来たばかりの三十年前は、麦畑の中に滑走路が一本だけの田舎空港でした。ところが観光ブームに乗って整備され今はれっきとした国際空港です。アメリカ、ヨーロッパへの直行便も出ます。日本からは週に一本直行便がありますが、殆どの日本からの便はバンクバー経由、そこで通関してからローカル便に乗り換えてやってきます。此処は日本人旅行者のロッキー山脈方面への出発点となります。
空港でのスケッチ
(1) おせっかい
かつてはカルガリー空港に日本観光客が来るのは夏だけでした。夏になるのを待っていたように日本から観光客がどっと押しかけてきました。ところが最近は一年中切れ目なしに押しかけて来るようになりました。こうした日本人旅行者を見ていると日本人独特の姿が浮き彫りにされて面白いものです。始めのうちは日本人の姿を見るのが懐かしくもあり好意をもって眺めていたのですが、最近はその日本人独特の行動に脅威を感じるようになってきました。団体で傍若無人にどかどかと押しかけて来るのがまず異様です。しかも団体の中だけに一つの世界を作ってしまい、外との接触の無いまま空中をさまようシャボン玉のごとくカナダの社会を漂ってゆくのです。
夏休み中娘二人が空港の土産店でアルバイトを始めました。彼女らがまず驚いたのは日本人観光客の買い物の仕方です。旅行中のことであり多少は財布の紐が緩んでいるとは言え、二千ドル、三千ドルの買い物をいとも簡単にやって行きます。しかも余り考えずに買っているように見えと言います。どんなに高価なものでも一人が買うと連鎖反応のように数人が同じ品物にどっと飛びついてくるようです。また、高価な毛皮を一人で二枚も三枚も買ったと目を丸くして話します。彼女らにとっては貧乏な親たちと違う全く新しい日本人の発見だったのでしょう。
ある日上の娘が憤慨して帰ってきました。今日はものすごい「オバタリアン」に当ってしまったと言います。最近はワーキング ホリデーでやって来る若い日本人とも一緒に働くのでこんな新しい言葉も覚えるようです。娘達は多少英語のアクセントがあるにしても、かなりの日本語を話しまた理解もします。ところがその日は日本語のことでオバタリアンにひどい目に遭わされたと言うのです。
そのオバタリアンは最初娘に商品の説明を求めてきました。娘は「変な日本語」を使った訳でなし、相手は確かに理解し納得したと思うというのです。ところが次の人が娘の所へ説明を求めてきた時「あんたその娘は日本語がわからないからだめよ」とわざわざ遠くから忠告にしゃしゃり出たと言うのです。それも一人だけなら許しも出来ようが、そのオバタリアンは店の中にいる間娘の所にお客が近づく度にその忠告を繰り返し、ついにその団体では商売にならなかったと言う。相手の気分を損なうような事をした訳でもないのに、どうしてなんだろうと首を傾げていました。
その様子を聞いているうちに独断し、それを主張してやまない日本の中年婦人にふっと懐かしさを感じた次第です。何か常ならぬことを発見すると大げさに反応してしゃしゃり出る日本人中年女性の的外れのおせっかい。娘の多少英語がかったアクセントの日本語が彼女にとってたまたま「常ならぬもの」になったのでしょう。少しアクセントのある日本語を日本語で無いとしてしまう独断。しかもそれを新しい発見として強調したかったのでしょうか。外国に来たと言う多少の優越感。それに相反するこの土地や人々への、また言葉への劣等感。これらが交じり合う複雑な感情が無意識にこのような行動として表現されたのかも知れません。
ヨーロッパ人もアメリカ人も時には団体で来るのを見かけます。これらの国の旅行者に比べると日本人の団体旅行者は変な具合にボルテージが高いようです。このボルテージの高さが日本人をして、カナダ人が目をむくような行動に走らせるのかもしれません。一方、カナダに住み着いている者がその行動に恥ずかしさを感じるのは身内としての厳しさかもしれません。これは三十年余日本の外に住んでいても日本人であることに変わりない証なのでしょう。
写真1、南アルバータはカナダ大平原の真っ只中。広い空の下に草原が無限に広がります。遥か彼方は隣の国アメリカです。この草原にカモシカの一種、プラグホーンが群れていました。いつも人間から安全距離を保っているので普通のカメラでは点にしか撮れませんでした。
(1980年8月撮影)
写真2、紅葉の中のカルガリー市。丸い水平線と広い空。平原の中に孤立するカナダ第三の”大都市”です。
(2000年9月30日、Nose Hillより撮影)
写真3、雪のMoraine Lake。夏の顔と違った厳しい表情をしています。雪が降り始めるとこの湖への道路は閉鎖になります。幸いにも閉鎖寸前に入って撮影する事が出来ました。
(2002年10月1日撮影)