氷河をわたる風 Vol.23 高8塩澤千秋
- At 6月 15, 2003
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
五月上旬まで大雪の降っていたカルガリーもようやく春になりました。我が家の前のブラックチェリーも良い匂いをさせて咲いていましたがもう満開を過ぎ花を散らせています。ライラックも咲き始めています。気温も上がり芝生の手入れも大変になりました。
トロントでSARSの再発がありカナダ全体が感染地域のように真っ赤に塗られていますが、実際はトロントだけです。幸いなことに、現在、カルガリーは勿論のことバンクーバーなどの他の大きな都市では感染者は一人も報告されていません。ただ、欧米で唯一の感染国となりカナダ医学会いささか不名誉なことです。おまけにアルバーター州はBSE感染の牛が見つかって大変です。アメリカがいち早く牛肉と乳製品の輸入を禁止し日本もそれに追従しました。既にアルバーター州の16箇所の牧場が隔離処理になっています。隣のサスカチワン州でも6箇所の牧場が隔離されているようです。感染ルート、原因を追求中です。カナダはSARSで観光事業は大打撃、おまけにBSEで経済的なダメッジのダブルパンチを受けています。ロッキーの山は大変静かで私たちには嬉しいですが、そんな事を言うと袋叩きに会うかもしれません。
先週撮影したMoraine Lakeの写真を添付します。
(June 5, 2003)
氷河をわたる風(23) Yellow Violet
この黄色いスミレは木漏れ日の落ちる森の仲に咲いていました。 紫のスミレは日本のスミレと同じで春の初め、明るい日当たりに咲きます。黄色いスミレはロッキー山のあちこちに見られますが殆どが高い木の林立する森の中でした。氷河の風が木立の間をゆっくりとすり抜けてゆく場所を登って行くとかなり急な草原に出ました。そこには勿忘草が群生していました。そんな中にゴルファーが立ち上がって物珍しそうに人間を観察しています。そして、少しで近づくと「キー」と鋭い警戒の声を上げて穴の中に飛び込んでゆきます。この斜面の一段下には朝早くグリズリー熊の母子が餌をあさりに来ていました。彼らの去った後には大きな穴が掘られていました。グレーシャーリリーの群落の真ん中を掘って折角の花を台無しにしている所もありました。山の乱暴者です。
写真1~2.
カナナスキス カントリー、ターミガンサークルに登る途中の林の中で群れて咲いているのを見つけました。
(1999年7月21日撮影)
写真3.
穴の直ぐ傍に立って興味津々で人間を観察するゴルファー
(1999年7月21日撮影)
パーティー
エドモントンに居た頃は留学生が色々と連絡しあって情報を交換したり、また家族ぐるみのパーティーを良くやりました。カナダ人に招待されるパーティーは大概大人だけで子供は連れて行けません。一緒に招待されていない場合は子供を互いに預けあって出かけました。カナダ人の子守りを雇う事も出来ます。多くは中学生から高校生のアルバイト。良い子守にあたればよいが、悪いのに当たると子供たちは悲劇です。パーティーから帰って、泣きべそをかいている不機嫌な子供達のつたない訴えを聞いてみると、子守のお姉ちゃんは子供達を一部屋に閉じ込めて、自分は電話ばかり掛けていたとか。中にはボーイフレンドを呼び込んで子供をそっちのけにして二人で楽しんでいたと言うようなことにもなりかねません。
互いに気心の知れた日本人同士が順繰りに子守りをするのが一番安心の出来る方法です。このようなわずらわしさを避けるために日本人だけのパーティーではなるべく子供を一緒にするように努めていました。カナダ人が入って子供抜きでやる場合、日本人を一緒に招待する時ははっきり言わねばなりません。言わないと子供付きで来ます。日本では大人だけが集まって楽しむ機会が少なく飲んでいる所で子供がちょろちょろするようです。また、それを余り気にしないようでもあります。大人の世界と子供の世界の境界がカナダほど厳格でないということでしょうか。
カナダ人の招待は夫婦一緒であるのが常識です。日本の場合招かれるのは大概亭主ばかりですので、カナダ人のパーティーにそのつもりで一人出かけたりすると酷い目にあいます。玄関に入ったとたん一人である事がわかると変な顔をされ、何故女房の来なかった事をしつっこく聞かれます。従って夫婦の一方が都合の悪い時にはパーティーに行かぬ事にしました。これは行きたくないパーティーを断る良い理由にもなります。
招待されたら招待し返すのが普通です。年齢の差、身分の差は問題になりません。日本の場合、会社など身分の上の人に招かれても招き返す事は少ないようです。しかし、カナダでは、目上の人といえども招待されっぱなしで招待する事を怠ると、段々疎外され何時の間にかそのグループから締め出されます。こうしたパーティーをする場合言葉の問題習慣の違いにより驚かされる事が多くあります。そんな事にあうのも新鮮な経験で留学生たちはカナダ人をせっせと招待してはかなりこった日本式料理を饗してパーティーを楽しんでいました。
Kさんの所では研究室の教授を招待した時、大量の料理や飲み物を余らせたとぼやいていました。教授がモルモン教であることを知っていましたが夫人がその上に菜食主義者であり、食べ物に随分制限があることを知らなかったのです。用意した料理が彼らの宗旨に合わないものばかりで徹底して手を付けなかったと言います。普通、こうした事は招待する前にチェックするのですが、うっかりしてチェックを忘れると酷い事になります。この様な招待で日本人にとって始末の悪いのは、ユダヤ人、菜食主義者、インド人です。彼らには食べ物についての戒律があり絶対に融通が利きません。
エドモントン時代、共同研究者の一人がインド人でした。この夫婦を招待した時におでんを出した事がありました。亭主の方はへっちゃらで何でも手を出して旺盛に食べるのですが、奥さんの方は一々どんな原料であるか聞きます。肉類が少しでも入っていると絶対に手を付けません。魚肉すらです。一々聞かれているうちに、はんぺん、ごぼう巻、竹輪など魚肉が入っているのかいないのか判らなくなり、野菜だよ何て言って食べさせてしまいました。彼女は野菜であると信じて食べた後、なんでもないようでした。しかし、肉の入っているのが後で知れようものなら絶交になりかねません。彼女はインド生まれですが英国で教育を受け大学院まで終えて化学の分野の博士なのですが、生まれた国の習慣をガンとして変えようとしません。サリーを実験室にまで着て来て、長いすそを薬品で汚れている床に引きずったり、緩やかな布が薬品ビンを引っ掛掛かりはしないかとはらはらさせたりするのもインド女性です。
インドから来ていたヒンズー教の学生が牛肉を食べた話です。おっかなびっくり生まれた初めて牛肉を食べた所案外美味しかったと言う。ところが、ある日、インドから兄が訪ねてきた時うっかりその事を言ってしまい、殺されかねまじき剣幕で叱責を受けたと言います。彼らにとっては牛肉を食べることは人肉を食べると同じほどの事であったらしい。傍に居たカナダ人が青くなったほどの叱り方であったと言うから相当のものです。
ユダヤ人の招待も難しい。しかし、中にはアメリカの若い改革派のユダヤ人も居ます。彼等はコシャ(ユダヤ教の食物に対する掟)など守らず、豚肉をホワイトステーキなど行って平気で食べます。そしてユダヤ教の安息日シャバート(土曜日)に休まない。戒律に従うのは自分の結婚式の時だけ。但しこれは例外で、大概のユダヤ人は日常かなり厳格に戒律を守っています。コシャを守るユダヤ人を夕食やパーティーに招待する時は非常に気を使います。豚肉やえびなど出してなくても、オーソドックスのユダヤ人を招いたりすると出した料理に絶対手を付けず水ばかり飲んで帰っていきます。イスラエルに居た頃幾度かこのような失敗を繰り返しました。
ユダヤ人の場合、食べ物に厳しい制約があり、食べてよいものと食べてはいけないものが宗教的にきちんと定義されえているのです。それらは肉類などの種類だけでなく、殺し方、料理の仕方、料理する場所までユダヤ教の教理に従ったものでなけねばならないのです。彼らを招待する時には勿論豚肉を出すような非常識はしませんが、厳格なユダヤ人は例えユダヤ人が買うコシャの店で買ってきた牛肉でも手を出しません。理由は台所にあります。日本人はユダヤ教の戒律に従って生活しているわけではないので、イスラエルに居たとしても、日常の食事に必ずしもコシャの物ばかり使っているわけではありません。時にはキリスト教アラブ人の店から豚肉やコシャでない牛肉を買ってきた料理します。従って、ユダヤ人に言わせれば日本人の台所はそうした食べ物によって「穢れている」のです。そのような台所で調理されたものを食べるなどとんでもないと言うわけ。イスラエルでは日本人などの「異教徒」の使ったアパートは、ユダヤ人が後で入る場合、ユダヤ教の儀式に従って「おはらい」をして清めてから入ると言います。そうした点は徹底しています。我々を穢れているとは馬鹿にするなと言いたいのですが、すがすがしいほどの頑固さを示します。
イスラエル南端の港エイラートの近くでは大きなえびが獲れます。イスラエル人は宗教上の理由で海老、貝、蛸などは食べません。ユダヤ教の戒律によれば、水に住むもので食べてよい物はうろこの有る物だけ。従って、うろこのない海老は食べないので、イスラエルの海では大型の海老がわんさと獲れてユダヤ人以外の旅行者を楽しませます。碁仲間となった教授が地中海に面する海岸に海水浴に連れて行ってくれた事がありました。その海岸は貝殻ばかりで砂が殆どなかったくらいです。適当な大きさの貝殻を拾って碁石にしました。数千年の間、貝は戒律のため食料とならず自然死するに任せていたのでこんなに貝殻がたまったのだろうかと考えたものでした。
ところが、若者と言うものは何れの国でも冒険好きで、また、禁じられればそれに逆らってみるのが本質みたいなもののようです。イスラエルの若者も例外ではありません。エイラート近辺に配属された兵隊が四、五人でこの海老を試食したそうです。それを目撃したのが私の日本人の友達でありました。彼の話では、テーブルについた兵隊達は海老を前にして異常に静まり返り、顔は引き攣り蒼白、目はつりあがりまさに決死隊の姿であったという事でした。
ユダヤ教のコシャ-に関連して日本の友人にぼやかれた話があります。彼の勤める会社が海外への進出を始め、アメリカの会社と取引が出来始めた頃の話です。アメリカのバイヤーとの会議も終わり、条件の良い契約もほぼ合意に達し、明日は最後の詰めと調印だけとなりました。彼はその晩そのアメリカ人を日本料理屋に招待しました。
彼は次々と出てくる料理を楽しんでいるように見受けられた。ところが途中蛸の酢の物を食べてこれは何であるかと問うた。「蛸である」と堪えたとたん彼は真っ赤になって怒りだし、調印寸前の取引はパーと相成りました。未だに原因が解らない。蛸を食わせたのが悪かったらしいのは確かであるとぼやきます。彼はユダヤ人ではなかったかと問うとそうだと言う。「ユダヤ人になぜ蛸など食わした。怒るのが当たり前。」とユダヤ教の講義を一くさりする事となりました。原因を理解すると「あの野郎、なぜ食う前に聞かぬ。」と今度は友人の方がむくれる始末でした。豚肉を食べさせてはいけないことは知っていたが蛸までとは知らなかったのです。こうした点、ユダヤ人もインド人も少し手前勝手です。自分達の習慣や戒律をすべての人間が知っているものとして振舞います。日本以外の世界ならあるいは通用するかもしれませんが、食べ物に非常に寛大な日本人は案外こうした事に無知なのです。俺は豚肉を食わせたわけではないと叫んでも後の祭り。蛸一切れで商売が吹っ飛んでしまうのです。留学生達はこれほどの失敗はしないまでも、小さいながら似たような事を繰り返して段々とカナダの世界へ入っていくようです。
氷河をわたる風 Vol.22 高8塩澤千秋
- At 5月 15, 2003
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
日本はもう桜が満開になっているとのこと、NHK 国際テレビで見ました。東京の代々木公園、京都のあちこちの寺の見事な桜など紹介しています。飯田の桜ももう満開でしょうね。花見の時期ですか。天竜峡の桜、今宮の桜、みな咲き揃って、むしろを敷いてご馳走を広げて。帰りたいです。こちらにはこんな花見の出来るチャンスはありません。まだ、雪の中です。
今年の冬は遅く始まったためか、何時までも続きます。三週間ばかり前気温が上がり始め日中10度、夜間マイナス5度くらいになりました。しばらく続いたので、ボー川の土手のプレーリークロッカスの開花が気になって見に行ってきました。最初の日は芽も出ていなかったのですがその一週間後三輪咲いているのを見つけました。広い野原を一時間自転車を使って探した結果です。蕾はかなりありました。気温が上がったため、突然出てきたようです。来週はもっとたくさんの花が咲いて良い写真が撮れるかなと思って帰ってきたのですが、その晩から気温が下がり雪が降り始め、四日間降り続きました。ようやく晴れましたが、カルガリーの町は再び雪の中です。でもやはり春の雪ですね、解けるのは早そうです。クロッカスが心配ですが、北国の花は寒さに結構強いですから雪を持ち上げて咲いているかもしれません。雪が解けたら早速写真を撮りに行こうと思います。
ボー川には水鳥が来ています。近年は餌をやる人が居るので渡りをサボって越冬するのも居ますからその連中かもしれません。カナダグースがペアーを組んでいます。冬は彼らの恋の季節、そして子育ての準備の時期です。恋は静かに語るものではないかと思うのですが、恋の鞘当、子育ての縄張り争いとボー川は大変賑やかです。氷の上で恋をささやくカナダグースの写真を添付しておきます。
(April 10, 2003)
スミレに似たこの優しそうな花は実は食虫植物、昆虫にとっては誠に怖いムシトリスミレです。
スミレ科には属さずタムキモ科の一種です。花は全くスミレそっくりですが、葉っぱが黄色くて地面にへばりつくように広がっています。粘り気のある葉の上に昆虫が止まると葉が丸まって中に抱きこみ、消化液を出して溶かし自分の栄養にしてしまいます。食べ終わると又開いて次のご馳走を待つのです。氷河の風の中にそよそよと揺れる姿からはそんな怖さは想像も出来ません。
ロッキー山ばかりではなくその裾野や、アメリカ大陸の北方アラスカまで分布しています。ロッキーでは疎らながら、所々にまとまって咲いているのを見ます。グラシーレイクでは明るい場所の清水のちょろちょろと流れる岩の上に、写真の花を撮影したTangle Fallsでは明るい森の中、滝の傍で見付けました。
写真左上.
花だけ見ると優しいスミレと全く変わりません。
写真左下.
横顔を見てもスミレです。ところが下のほうに見える黄色い葉が曲者です。ここに止まった昆虫は花の栄養にされてしまいます。
写真右上.
この花は写真で見るような美しいTangle Fallsの岸辺に咲いていました。この滝は、観光地として有名なコロンビアアイスフィールドのパーキング場からジャスパー方向に5キロほどの所、坂の途中にあります。この辺りにはアメリカン
ビックホーン シープが群れているのを良く見かけます。
(3枚とも1999年6月29日撮影)
エイズが福音となる皮肉
人間が子孫繁栄の目的以外に性行為を楽しむ以上、その行為を仲介として広がる病気が出てくるのは自然な事でしょう。現在その最先端を行くのがエイズです。
正体をあらわしてから三十年近くになりますが、近代医学の知識を総合しても未だ治療法の確立が出来ない病気です。一旦感染すると治療法がないため直る望みがなく、体はあらゆる雑菌のいいようにされ、対象療法で少し命を長らえますが、今の所徐々に死んで行くのを待つしかありません。おまけに、この病気が最初発見されたのがホモの世界であったため、病気そのものが特殊な状態に置かれてしまい、他のルートで感染した患者も含めて非常な誤解を受け社会的に冷たく扱われています。最近、状況は幾分改善されて来ましたがそれでも患者は大変惨めな人生を強いられる病気です。
感染経路は欧米では男性の同性愛、麻薬使用者の注射針の共有などが主ですが、輸血、血液製剤による感染もありました。最近はこれら輸血用血液や血液製剤の検査が徹底して行われ、これらからの感染の可能性はぐんと下がりました。特に血友病患者への血液製剤には最大限の注意が払われていて、感染予防効果はかなり上がっています。
こうして医療事業の管轄下にある作業での事故的感染は顕著に減少しました。しかし、個人的な性行為、麻薬使用による感染は少しも変わっていないようです。性行為による感染も同性愛ばかりでなく異性間での性行為による感染が増加しているのが現状です。特に東南アジア、インドでは感染したことも知らずにいる人が多く、そうした人からの感染は増加する一方、国を滅ぼす病気となるのではないかと恐れられています。日本では最近若い人達の間で感染が増加していると聞きます。こうした種類の感染から逃れる唯一の方法は、危ない冒険をしないこと、お行儀を良くする事のみです。
日本男児の性的行儀の悪さは世界的定評を得ています。これについてはもっと悪いのがいると反論する人もいます。例えばスイス人です。スイスと言う国は性的行儀の悪さに対して非常に厳しい国であるそうです。従ってスイスの男性が世界で尤も行儀が良い紳士であると言われていました。ところがどっこい、日本に来てこの種の事で尤も破廉恥に羽目を外すのがスイスの男性だそうです。男と言うものはいずれの国の出身であれどうしようもない代物であるらしいですね。自分の国の男性が世界で最も行儀が良いと信じ込んでいたスイス出身の教授に、何かの折この話をしたら目を剥いていました。男のさがと言うものは何処の国の男も同質である事をやっと理解したようでした。自国内で余りに厳しいため、外国、特に質の違うアジア社会に出た時はたがが外れ、かえって反動が激しいものとなって現れるのかも知れないと悲しげに感想を漏らしていました。この様に男と言うものはいずれの国の男もしょうもない者で、従って日本男児のみが行儀が悪い訳ではないと言いたいのですが、しかし、日本男児の場合は内に於いても外においても大いに羽目を外してしまうのです。
日本では誰かが海外旅行をしてくれば、この種の話題がおもしろ可笑しく、時には自慢気に語られます。妻帯者であってでもです。
カナダではこうした事は決して一般的な話題にはなりえません。特に妻帯者の場合には、このような行為をおおっぴらに話す人は先ずいません。例えそうした経験を何処かでして来ていても、とても大っぴらには語れないのです。これだけ離婚の多い国ではこんな行為が発覚した場合、非常に不利な条件で離婚を無条件で飲まねばならぬ羽目に追い込まれます。この様な状況が或いはこのような行為をする事、またそれを語る事へのブレーキとなっているのかも知れません。兎に角そうしたところへ出かけてゆくのは大部分、特殊な独身男性であると言うことになっています。
カルガリーの町にも勿論男性の相手をすることを商売とする女性はいます。商売する場所も決まっているようです。勿論違法です。この町に住み始めた頃、こうした商売が街頭でこんなにも大っぴらに行われている事を知らずにいました。清潔な町と思っていたのです。冬の物凄い寒さの中、肌が見えるほどの大変な薄着でセクシーに街角に立つ女性を見て、女性と言うものはおしゃれのためには命に関わるほどの寒さをものともしないのかと、その健気さに感心したものでした。しかし、段々と事情がわかってきてその服装の意味する所を理解するに至ったのです。
最もこうした商売は服装だけでは判断し難い事もあるようです。派手な服装をするので有名な女性学者が私達の専門、免疫学会にいました。アメリカのある空港で学会帰り、実に「軽快な」服装で歩いていて、一人の男性から声を掛けられたそうです。その種の女性と間違えられたのです。意味が解るやいなや持っていたハンドバックでその男性の横面を思いっきりひっぱたいたそうです。たまたま同じ学会に出ていた研究者達に目撃されて、以後、彼女はこの学会で勇名をはせる事となりました。
カルガリーでは冬季オリンピックの前からこれらの商売は市から目の敵にされ徹底的な取り締まりにあいました。しかし、何時の間にか、また街頭で見かけるようになりました。今度は溜まり場が少し変わったようです。これに対抗して取り締まる方法も少し変わって、商売をさせた男性もつかまるという事です。婦人警官のおとりに捕まって酷い目にあった男性のいる事を新聞が報じています。ヨーロッパの古い町にもこうした商売ははやっているようですが、注意して良く見ないと解らない場所に立っています。しかし、カルガリーは夏の陽の長い事もあるのでしょうか、彼女たちは街頭にたむろし、スポーツにでも誘うが如くに客を捕まえて連れて行くのです。
こうした商売は日本からの男性旅行者には大変気になるものらしい。ロッキー山脈の風景も中々のものですが、また町の中の風景もまんざら捨てたものでは無いと思うのでしょう。ところが、商売が人間相手であるので言葉の関係で一人で行動できません。従って、ツアーガイドにその交渉をさせる事になります。これはガイド達が最も嫌う「仕事」です。日本旅行者のこのようななりふりかまわぬ図々しさに多くのガイド達が泣かされてきました。日本人の特性なのでしょうか、会社が社員を「自社の所有物」と考えると同じような論法で、ガイドを二十四時間自分の自由にどんな事にでも使えると思い込んでいるようです。
ところが最近このようなガイド泣かせの無理な要求をするお客さんが激減していると彼らは喜んでいます。エイズのためです。中には、女との交渉をしてくれと強引に押し付けてくるお客もありますが、「エイズが怖くありませんか」の一言で、大概はクシャっとなります。ガイドたちにとってエイズはまさに救いの神となったのです。。日本男児が海外に出て派手に浮名を流さないために、いや浮き名を流しても良いが、そのために嫌がるガイドを泣かせないために、エイズは治療法が見つからない方が良いのです。こんな反社会的意見がガイド達に密かに歓迎されています。彼らは今まで散々悩まされ、とてつもなく嫌な「仕事」から、エイズのおかげで解放されたと言う訳です。エイズが彼らに福音をもたらせたのです。この様なガイドたちのささやかな平安を壊さない為に、目的のためにはエイズなど怖がってなぞいられるか、などという“英雄”が現れない事を祈るばかりです。
写真1.観光客で賑わうBanffの町。十二月ですが、多くのスキー客が来るようになって冬でも賑やかになりました。ただし、ニューヨークの 9月11日のテロ以来客足が急激に減りました。その上今度はSARS で多くの人が旅行を控えているので、現在、観光事業は踏んだりけったりです。(2000年12月2日に撮影)
写真2.Johnson Lakeから見たCascade Mountain。Banffの象徴のような山ですが、観光客がこの角度から見るのはめったにないでしょう。この辺りの松林には五月になると野性の欄Fairly Slipperの可憐な花が一斉に咲きます。(2001年5月25日撮影)
写真3.Jasperの駅前の観光情報センターです。ちょっとしゃれた丸木小屋の建物です。ここも観光客が多いですが、Banff に比べるとあまり熱心ではないようです。そのためか自然により近い感じです。(2000年9月11日撮影)
写真4.Jasper からMedicine Lakeへと山の中を早朝ドライブしていたらMooseがひょっこり現れました。 若い雄です。野生動物がいっぱい居て轢き殺さないように注意してドライブします。(2000年9月12日撮影)
氷河をわたる風 Vol.21 高8塩澤千秋
- At 3月 15, 2003
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
約一月かけて洪水の後始末も大部分終わりました。まだ、車庫には捨てなければならないものが山済みになっていますが、人間の住むところは何とか整備することが出来ました。いくらやわらかいソファーでも寝心地はベットにはかなわないことを知りました。今日は日中マイナス24度、最高気温マイナス20度、最低気温マイナス29度。パウダースノーが降り、いつの間にか積もっています。ここ十日ほどは厳しい寒さが続き本物の冬が戻ってきたようです。車庫の片付けはもっと暖かくなってからになりそうです。楽しみを少し残したようなものです。
(March 7, 2003)
氷河をわたる風(21) Alpine Buttercup
飯田高松高校山岳部に入り、一年生の夏南アルプス全山縦走に参加しました。初めての高山、登るのがこんなにしんどいものかと初めて知り、 もう来るものかと思ったのですが、以後登山は病みつきとなりました。二日目に登った東岳の斜面がこの花の群生で谷の底まで隙間なく覆われていたのを思い出します。頂上を目前にして疲れ果ててこの花の中にひっくり返って見た空はあくまでも青くありました。時に痛烈な皮肉を飛ばす、私の好きだった英語の先生が、あるクラスで生徒に英語を読ませた時、buttercupに訳文を振ってあったらしく、英語を読んでいるときその部分を”きんぽうげ”と読んだと苦笑いしながら話してくれました。お陰で、ButtercupはCherryの次に覚えた英語の花になりました。
ロッキーでもAlpine Buttercupはどこにでも見られます。群生しています。そして高度が高くなるに従って草だけが短くなってゆきます。
花だけが地面に張り付いたようなのも見ました。花の形も少しづつ変わるようです。厳密に言えば亜種として分類されているかもしれません。バターそっくりな色をしているのでButtercup と命名されたのしょうが、いかにも即物的です。日本語の”きんぽうげ”のほうがいかにも詩的です。英語には可愛い娘と言う意味もありそうです。
写真1.Ptarmigan
Circuitに登る途中の林の中で見付けました。素晴らしく光沢のある花びらです。(1999年7月21日撮影)
写真2.二年ばかり後ですが同じ所をさらに登り森林限界線の上まで出るとかなナスキスの山を背景に可憐な花が群生していました。花びらが少し丸みを帯びています。(2001年7月1日、Ptarmigan
Cicuitにて撮影)
写真3.コロンビア アイスフィールドの近く、Paker’s
Ridgeを登り、上の段中腹辺りに土にへばりつくように咲いていました。あたりはまだ雪に覆われていました。(1999年7月19日撮影)
2.オーロラ
青白く耀き揺れ動く光のカーテン。厚く三段に北の空に宙釣りとなっています。光はじっとしていません。前方に耀いていた光の塊がスーッと消えたと思うと右手の中空に突然濃い緑の線が現れます。左手にゆらりゆらりと漂うような光があるかと思うと思わぬ所から光が線となり槍となって走り出します。そしてたちまち広がり面となり塊となります。頭上にドーム状に放射線となって広がる光のすじ。線となった光が旋回し揺れ動く。風が姿を現したのでしょうか。ゆらりと激しく身を翻して音のない世界へスーッと消えてゆきます。
バンフからの帰りでした。真夜中に近い。ドライブをしながら何気なく目をやった北の空に広げられた光の饗宴。オーロラが現れていたのです。ハイウエーの街灯や町の灯など邪魔する光のないわき道に自動車を入れました。天空の大半を覆うほどの規模です。今までにこれほどの大きさのものは見たことがありません。星の姿が薄れてしまうほどの光の量です。
少し前娘と見に行ったオーロラも凄かった。午前二時頃何気なく目をやった北の空が薄明るい。オーロラだ。町外れの牧場へドライブします。頭上に、ドーナッツ状に浮かぶ緑がかった、にじみ出るような青白い太い光。規模はそれほどではないのですが形がめずらしく、はっきりした輪を描いていました。美しかったのは数年前アルバータ州の北東の隅にあるコールドレイクで見たオーロラです。友人家族と釣りの旅に出たときでした。湖畔にキャンプした夜、赤色をした上下二条の帯状カーテンが北の空に現れました。夕焼け雲と見間違うほどの強い光でした。激しく揺れ動きます。余りの凄さに湖畔の岩に腰を下ろしたまま動けなくなってしまいました。中天からは青白く明滅する光が一点から放射状に延びています。幸運にもこのようなオーロラを二晩続けて見られたのです。子供達に見せようと思って呼んでも揺り起こしても一人として起きて来ません。昼間暴れたため相当疲れたいたのでしょう。それにしても欲の無い事よ。ところが朝オーロラの話をすると、一斉にどうして起こしてくれないのよと言う。何ともはや。
オーロラは北に行くほど観察しやすく色彩が豊かになってきます。北極圏に入ると虹色をしたオーロラが中天から垂れ下がるのを見られるそうです。ある日、大学病院の食堂で私をエスキモーと間違えて話し掛けて来た、北極圏の町イエローナイフから来た若い看護婦が話してくれました。垂れ下がった光のカーテンから音が聞こえてくるような凄さだと言います。他の人は音など聞こえるはずがないと否定しますが、彼女はパチパチと言う音を聞いたそうです。
生まれて始めてエドモントンで見たオーロラは雲と区別のつかないほどの薄い小さなものでしたが、大いに興奮しました。オープンシアターで映画を見ている時に一緒に行った友達が見つけ、映画そっちのけで光の少ない郊外まで大急ぎで車を走らせました。エドモントンに住む仲間は、似たり寄ったりの同じ境遇の留学生であったので誰かがオーロラを発見すると真夜中でも何でも電話を掛け知らせあいました。中には寝入りばなを叩き起こされて寝ぼけ声で苦言を呈する人も居ましたが、大概は良いチャンスをお互い喜び合ったものです。そんな知らせを受けた時には寝ている女房殿をたたき起こして、麦畑というわけではないが、暗い畑の方へ夜のドライブとしゃれ込んだものでした。
オーロラは一年を通じてかなり頻繁に出ると言われます。ただ、弱い光であるので観察できる条件が難しく、暗く、晴れた空でなければなりません。したがって観察のチャンスがそれほどのあるわけではないのです。また緯度にもよります。北極圏が最も良く、カナダではイエローナイフとかフォートマクマレーなどの町には日本からオーロラツアーがあると聞きます。ある日日本から凄いオーロラの写真がインターネットで送られてきました。日本の友達からでした。彼はオーロラを見にフォートマクマレーまで父親を連れて来たとの事でした。カルガリーに長く住んでいてもめったに見ることの出来ないあざやかなオーロラでした。小規模なオーロラはカルガリーでも結構観察できますが、北極圏に出る大規模なものはやはり現地に行かないと見られません。ところがここに住んでいるとそんなツアーに参加しようと言う気がほとんどの人に起こらないのです。日本から来た旅行者の方があるいはカナダに住む人より凄いオーロラを見ているかもしれません。
北極圏を外れると南に行くに従ってオーロラは観察しにくくなり規模も色も小さく褪せて来ます。カルガリーはエドモントンから南に三百キロ寄っただけですが、オーロラを見るチャンスがずっと少なくなったように感じます。一般的に昼間暖かく、夜、気温が急激に下がる晴れた秋や冬の夜は、オーロラを見る絶好のチャンスなのです。(夏は昼が長くて中々チャンスがありません)。そんな夜はベットに入る前に、裏窓から北の空を注意して見ることにしています。ある夜、裏窓から見つけたオーロラをデジタルカメラで撮影したものを入れておきます。実を言うとオーロラの写真は条件が難しくて中々撮れませんでした。光が弱い上に揺れ動くからです。良い写真をとっている人も居るので、私もフィルムを使って幾たびか挑戦しましたが全部失敗しました。撮影した結果が一週間後では条件の設定が中々出来ません。その点、デジタルカメラですと其の場で結果がわかります。私のカメラの最大露出時間8秒でやっとこんな写真が撮れました。このデジタルカメラ、条件の変更があまり出来ないのです。もう少し長く露出できたらもっと良くなるのでは。だから、オーロラの良い写真を撮っている人を尊敬してしまいます。
写真3枚: 2001年4月18日午前2時頃、ベットに入る前にちょっと見た北の空にオーロラが揺れ動いていました。4月と言えばここではまだ寒い時期ですが窓を大きく開けて、三脚を据えデジタルカメラで色々と条件を変えながら写し、初めてオーロラの撮影に成功しました。写真の中に青白い点が見えますがこれはごみやしみではありません。星です。初めはこの点を見つけて撮影に失敗したかと思いましたが良く見たら北斗七星の形が見え、初めて星も映ることを知りました。三枚の写真で少しづつ変わっていくオーロラを楽しんでください。
氷河をわたる風 トラブル 高8塩澤千秋
- At 2月 15, 2003
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
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トラブル
昨年12月には母校を本当に久日ぶりに訪ねる機会を作ってくださり多くの方にお会いでき、嬉しくありました。校舎は大変貌を遂げていましたが、あちこちに何となく昔の面影と言いますか、匂いを感じることが出来ました。古巣と言うものはいつまで経ってもいいものですね。皆様には深く感謝いたします。
今回の日本訪問、大いに楽しみ、満足して帰ってまいりました。ただ、もっと早くにメイルを出して御礼をしなければならなかったのですが、遅れた裏には次のような“物語”がありました。
カルガリーには1月18日午後4時ごろ帰ってきました。ところが家の扉を開けて見て吃驚、二階のベッドルームから一階のファミリールーム、子供の居た部屋、要するに家のほとんどが水浸しになっていたのです。1月12日から13日頃気温がマイナス20度以下に急激に下がったとのこと、不幸なことに、その時我が家の暖房装置が壊れたようでした。留守に時々管理に来ていてくれた人が修理屋を呼んで直してくれたのですが部屋の温度はすでにマイナス20度以下に落ち、家中が凍結し、壁の裏の水道管が破裂してしまったようです。そのため、暖房がなおり彼が家を去った後、温度が上がり水道管内の水が溶け、破れた水道管から部屋の中に水が噴出したとのこと。翌朝、車庫から道路に流れ出る水を見つけて近所の人が消防を呼んで止めてくれたようです。そのときは既に一晩水が流れた後、家はほとんど水浸し、消防がかなりの水を吸い取ってくれたのですが、じゅうたんが吸った水はたっぷりとあり、沼を歩くようなものでした。おまけに、保険の条件通りに人を頼んでなかったと言う事で保険も降りず踏んだりけったりです。後始末は自分でやるよりなく、気を取り直して先ずは家の乾燥を始めたところです。二週間かけてどうにか乾きましたが、ここに帰って来た直ぐの一週間は気温がマイナス27度と、樹氷が出るほどで、まことに厳しくありました。ただ今気温は上がり0度近辺ですが、まだ寝る所もなく居間のソファーをベット代わりにしています。それもまた楽しいものです。ボツボツと時間をかけて楽しみながら修理していく予定です。
帰ってきた日が土曜日でしたので二日間何にも出来ず水の有難さをつくづく味わいました。水道管が破れたままでしたので元栓が開けず、飲み水はもとより、トイレのフラッシュも出来ず往生しました。マイナス27度の中隣までバケツを持って水を貰いに行ったり、スーパーに飲み水を買いに行ったりてんやわんやでした。しかし、厳寒の地でないと起こらないアクシデント、なんとなく張り切ってしまい、こんな状態を楽しんでいるところもあります。いずれにせよ一ヶ月ぐらいは修理で楽しめそうです。
地下の部屋に置いてあったコンピューターは出水の直撃を受け、水浸しでした。CDプレーヤには金魚が泳げるほどの水がたまっていました。このような状態でメイルも送れませんでした。分解して一週間乾かしたところ、わずかな損害で、どうにか動くようになりやっとメイルを送れるようになりました。こんなてんやわんやの状態にありますので、ホームページに送る原稿も書けず写真も選択できない状態にあります。家の修復が終わるまでお待ち下さい。申し訳ありません。御礼方々とりあえず近況報告させて頂きます。(February 11, 2003)
写真はマイナス27度の時の外の様子です。このような条件下では誠に恨めしい情景です。
氷河をわたる風 Vol.20 高8塩澤千秋
- At 1月 15, 2003
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから) [塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
氷河をわたる風(20) Dryad
3000m以上の高山で痩せた岩場に張り付くように咲くこの小さな花はバラ科に属し常緑樹です。葉がぎざぎざなのが特徴的です。Alpine Avens, Alpine Rose, White Mountain-avensなどの別名もあります。
花の直径はイチゴの花より少し大きいくらい、2cm位でしょうか。この親戚で黄色い花を咲かせるMountain-avensはロッキーにしかありません。コロラドから北のロッキー山の高地、アラスカそして北極圏に咲きます。その他世界中の寒さの厳しい土地やアルプスのような高山で見られるそうです。常緑であるため雪が溶けると直ぐに光合成を始めます。 ロッキーでは7月から8月にかけて見られます。強い氷河の風に吹かれて細かに震える花は、可憐ながら逞しいです。
一寸小寒い日Payto山の中腹をルートを外れて登った棚地の岩の上に割いているのを見つけました。この小さくて逞しい花には荒れた天候が似合うようです。
写真1、花の大きさに比べて茎の長さが短く厳しい環境に耐えるように育っているようです。
荒れた天気の中一瞬射した光の中で映しました。(1999年7月19日撮影)
写真2、岩にへばりつくようにして咲いている様子がお分かりになると思います。
一見草のように見えますが実際はバラ科の潅木です。(1999年7月19日撮影)
写真3、Payto Lakeのあたりには7月でも雪が降ります。後ろの山の雪は多分新雪と思います。
この花の咲く厳しい環境を想像して下さい。(1999年7月19日撮影)
旅行者も少なくなった秋の林の中に入ると、よく晴れているのにポツポツと雨のしずくの落ちるような音がします。松の木から風もないのに松毬が落ちて来ます。見上げるとリスが松毬を.食いちぎってはせっせと下に落とし、冬ごもりのために集めているのです。枝から枝へと忙しく走り回り、どの様に見分けるのか落ちてくる実は何れも豊かに稔っているものばかりです。

秋の空は澄み渡り水嵩の減った湖の色も心なし沈んだような青さとなり、波も立てず静かさを保っています。ポプラは黄色い葉を落とし始め茶色に枯れた下生えに針葉樹の緑が映える頃になると、鹿たちの恋の季節です。それまでは雌雄別々に群れを作って暮らしていたのですが、この季節になると一頭の強いオスを中心にハーレムをつくります。雄達はこの一頭になるために壮烈な命がけの戦いを始めるのです。この様にして出来たエルクの群れが夕日を浴びた針葉樹林の中に見られるようになるのもこの時期です。
多少寒さを感じるこんな時期になると日本からの旅行者の数もぐんと少なくなります。この季節に来る日本人は人混みを避ける本当の旅行の仕方を知っている人達でしょう。カナダ人の中に溶け込み、風景の中にすら溶け込んで異質さを感じさせません。初雪でほんのりと化粧した山々の静けさの中で旅を楽しんでいるようすは、眺めている方にも何となくほのぼのとした旅情が伝わってきます。

カナダに住んでいる日本人にとって感傷的な気持ちを誘発させるのは、季節ではなく、日本の歌です。小さな時に歌った歌が特にいけません。「ふるさと」など一曲目ですら完全に歌えた事がないのです。「うさぎ追いし………」とやり始めると、喉の奥が妙に引き攣ってきて、「こぶな釣りしかのかわ」あたりで声がふるえ、涙がぼろぼろ出てくるのです。
カナダ育ちの子供たちはそんな親父を実に不思議そうに眺めています。唄を歌いながら泣く等と言うのは彼女等にはありえない事のようです。尤も、彼女等は訳の解らないロックン・ロールで育っているのだから無理もないことではありますが。「谷間の灯火」は日本の歌ではないのですが歌詞がいけません。「たそがれに我が家の灯、窓に映りし時」と歌いだすことは出来ますが、「我が子帰る日祈る、恋し母の姿」となるともう駄目です。「ふるさと」と同じ現象が起きてきて歌い続けることが出来なくなるのです。「故郷の廃家」「峠の我が家」など「家」「母」「ふるさと」「ともだち」「はらから」等という言葉は禁句なのです。うっかりこんな唄を人の居る所で歌って、おかしなことになった時には逃げる事にしていますが、困るのはドライブしている時など、ふっとこんな唄が思い浮かぶと、魔法に掛ったように独りでにぼろぼろと涙が出てきて運転できなくなってしまいます。
日本に居た時にはこれらの唄にこれほど感情を動かされた事はありませんでした。また外国に出たばかりの夢中で暮らしていた頃は余り感傷的になるような時間は無かったように記憶します。しかし、日本に帰る基盤を完全に失い、外国に定住して骨を埋める事になると自覚し始めた頃からいけなくなったようです。カナダ人にはこうした感情は余り無いように見受けます。彼らは常に流浪的であるのかもしれません。
実際には、日本をそれ程恋しいとは思わないし、ある意味では日本の外に暮らせる事を幸いに思う一方、こうした歌えない歌が出来てくると言うのは、我が事ながら実に理解に苦しむ矛盾した現象です。外国へ出る機会を掴んだ時、むしろ「しめた、もう日本には帰らないぞ」と心が弾んだものでした。

小さい頃は父親が教員であった関係で県内を転々と歩き、小学校は三つ変わりました。何れの学校でも常に客人あつかい。今もそれは続いています。従って外国に出てきた時も、現在も、客人扱いにはいささかもたじろがない自信があります。


アスペン・ポプラの葉もすっかり落ちた。もう直ぐ冬です。
写真1、餌を集めながら一寸人間にけん制に来たリス。Payto Lakeの近くで。(1999年)
写真2、秋の初め頃林の中に逞しくたつElkの雄。6歳くらいでしょう。男盛りです。まだ袋角です。
この袋角がむけて落ちると鋭い角がむき出され恋の争いが始まります(1997年)
写真3、崖の上にのうのうと寝そべり、下の人間を悠々と見下ろすAmerican Big Horn Sheep。
彼らも秋ハーレムを作ります。大きな角を激突させての恋の争いは秋の山々にこだまします。(1997年)
写真4、高い岩山に生息する、Mountain Goat。望遠レンズを使いましたが一寸遠過ぎました。
少し拡大してみましたがボケてしまいました。雰囲気だけをお楽しみください。(1998年)
写真5、ロッキー山に秋が来ました。冬との境は明確ではありません。秋は忙しく過ぎて行きます。
Jasperの近くで撮影しました。(1980年10月撮影)
氷河をわたる風 Vol.19 高8塩澤千秋
- At 12月 15, 2002
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから) [塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
先週の火曜日は気温が下がってマイナス15度になりました。急激な気温の降下のため翌日は綺麗な樹氷が出来ました。短い寿命ですが町中を銀世界に変えました。そのときの写真を添付いたします。前に同じようなのを送ったかもしれませんが、これは12月4日朝撮ったものです。でもまだ本格的な冬は来ていないようです。今年の正月は日本で過しますので暖かな冬となる事でしょう。
(December 8, 2002)
氷河をわたる風(19) One Flower Winter Green (Woodnymph)
この長たらしい名前をもつ花は草丈10cm、花の大きさ1cm位の可愛い花です。アラスカからアルバーターロッキー山の低い岡から3000m以下の山に広く咲きます。読書のためのランプのように見えませんか。直射日光の当たらない木陰に咲きます。踊りつかれた妖精が地面に寝転がって氷河の風に涼みながら、本でも読むのでしょうか。Woodnymphという別名を持っています。Sentinel Passからの帰りみち林の中で見つけました。カナナスキスでも見た事がありますがそれは名前が示す通り茎がもっと緑でした。松の木の下でもう少し日光が強かったためでしょうか。見つけた時思わず地面に這いつくばって明かりが点灯しているかどうか確かめたほどでした。
インディアンはお茶にしたり薬に使ったようです。こんな目的には一寸小さすぎて直ぐになくなってしまいそうです。
写真1、Woodnymphの横顔です。傘がむいている地面がなんとなく明るいように見えませんか。
Sentinel Passからの帰りMoraine Lakeに近い森の中で見つけました。(1999年8月3日撮影)
写真2、正面から見ました。花弁がランプを灯したように明るく見えます。横顔とは一寸印象が違います。
写真1と同じ所で撮りました。(1999年8月3日撮影)
(2) 日本人は嫌いよ
「日本人は嫌いよ」これがバイト先から帰ってきた娘のセリフである。あちらの国こちらの国と渡り歩く父親の仕事の関係で、イスラエルで生まれアメリカ、カナダで育ちました。アルバイト先では英語と日本語の両方が出来るので大変重宝がられています。自分では日本人ではなくカナダ人であると信じているようです。しかし、国籍はれっきとした日本人であり日本人一世の両親のもとで育ちました。
何故日本人が嫌いかと問うと店にお客さんとしてやって来る日本人のマナーが他の国の人達に比べて明らかに違うと言うのです。

夏のシーズン日本人旅行者の数は日に日に増加の一途を辿っていきます。たまに今日は良い団体であったと喜んで帰ってくる日もありますが、殆どの日、一つか二つ憤慨の種を拾って来ます。先に話した日本語での説明でえらい災難を受けた二三週間後のある日、再び猛烈に憤慨して帰ってきました。また日本人の異種性を見つけたなと興味津々で聞きました。一人の「オジン」がカウンターでがんばってその団体全員に割引することを強いたと言うのです。こうした人達に接している間に「オジン」「オバタリアン」などと言う言葉もいつのまにか身に付いてきたようです。
それはさて置き、中年の団体が店に雪崩れ込んで来ました。姦しく品物をあさります。殆どが小物です。小物の場合割引はありません。ところが一人の「オジン」が小物を手にカウンターにやって来ました。

その団体が去った後店員全員ががっくりと疲れを感じ文句を並べてみたが甲斐なきことであったそうです。そのオジンは団体の責任者でも引率者ででもなかったらしい。しかしながら、大変努力して自分の属する団体のメンバーに「安い」買い物をさせて英雄となったのであります。
写真1、Engel Glacier. Jasperの近くMount Edith Cavellの中腹に掛かる美しい氷河です。天使が羽を広げているようでしょう。
山の名前は第一次世界大戦のときドイツ軍の捕虜であった連合軍兵士の脱走を助けて銃殺されたベルギーの看護婦の
名誉を讃えて付けられました。(2000年9月12日撮影)
写真2、Columbia Ice fieldの近く、氷河をべったりとつけたMount Athabascaを西側から撮りました。
一寸角度を変えてみると山の顔も違って見えます。(2000年9月12日撮影)
氷河をわたる風 Vol.18 高8塩澤千秋
- At 11月 15, 2002
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
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日本は寒波に襲われて吹雪のところが多いとか。飯田はどうですか。きっと雪の覆われている事でしょう。カルガリーは紅葉も既に終わり木々は丸坊主、昨日降った雪が積っています。まだ本格的な冬ではないので雪は湿っています。自動車が近づく時には注意しないと泥水を浴びせられます。しかしロッキーの山はもうすっかり冬化粧です。家のベランダから見る山は真っ白です。9月末にロッキーで撮った写真を一枚入れておきます。Athabasca氷河から撮った吹雪の中のAA氷河です。この凄まじい顔を見てください。先週、久しぶりにロッキーに行ってきました。
(November 10, 2002)
氷河をわたる風(18) Kinnikinnick
Heath familyに属する花。Kinnikinnick はIndian名、ヨーロッパ人はAlpine Bearberryと呼びます。別名はその他幾つかあります。Kinnikinnickを正確に発音しようとして舌をかまないで下さい。これはインデアンの言葉で‘混ぜ物’という意味だそうです。Indianはこの葉を乾してタバコに混ぜて喫煙しました。低地の松林の中、ロッキー山のAlpine meadow から北極圏のツンドラにかけて、小さな濃い緑の肉厚の葉を広げ、小さなベルのような花をつけてマット状に密生します。草丈は10-20cm沢山の枝をつけ、卵形の葉は6-15mm、花は白からピンク色をしていて大きさは5mm位の長さです。秋になると直径5-10mmの小さいりんごのような赤い実をつけます。
カルガリーのボー川のほとりでも見つけました。 インデアンはこの小さな植物を色々に使ったと言われます。実は生だと苦甘く口をつぼめるほどですが、熱をかけると甘くなります。クリーやチペウイ族はこの実をラードで料理してジャックフィッシュやホワイトフィッシュの卵と混ぜ、更に白樺のシロップで甘くして食べるそうです。 ユーコンのアサパスカン族は煮てから固形油と砂糖で揚げて食べます。残念ながら食べられるとは知らなかったので自分では試していません。葉には高濃度のタンニンがあって皮なめしに使ったとも言います。ただ、この葉のお茶は毒性があり飲みすぎると胃や肝臓障害を起こします。特に子供には良くないようです。
Kinnikinnickは野生動物にとっても重要な植物のようです。秋に稔る実は熊野の好物であり、葉は鹿や野生の羊の秋から冬にかけての食料になります。こんな可憐な花をつける小さな植物が極地や高山に住む人間や野生動物の厳しい越冬に力を貸してきたようです。
写真1、Athabasca氷河の向かい側のがれ場に咲いているのを見つけました。この辺りは夏American Bighorn Sheepが群れているのを見かけました。(1999年6月29日撮影)
写真2、花と実が一緒に付いているのを見つけました。カナナスキス、Upper Lakeの近くの山、Indifatigableに登る途中の岩場に咲いていました。足場の不安定な所でびくびくしながら撮った事を思い出します。(2001年6月9日撮影)
写真3、赤い実と濃緑色の葉。日本の榊のような感じです。ボー川の川岸、松林の中で見つけました。その辺りジュウタンのように密生していました。(2002年9月15日撮影)

六月下旬のある日、カルガリーが晴天であったので日本からのお客さんを連れてロッキー山に出かけました。ところが、公園の入り口に着くと雨が降り始めました。国道一号線そしてロッキー山をぬって走るスカイライン93号線を通ってコロンビア アイスフィールドまでの百五十キロ近い道程は篠つく雨。道路しか見えず、おまけに帰りは雪となり車がスリップし始め命からがら逃げ帰りました。ところが、公園を出ると空には雲ひとつ無くカルガリーはその日一滴の雨も降らなかったとの事でした。連れて行ったお客さん、日ごろよっぽど悪事を働いていて、天に逆らっているのではなかろうかと勘ぐってしまいました。日ごろの悪事の報いをこの日受けたのでしょうとからかったものでした。大変運の悪い人でした。とにかくアルバータの空は広いので一箇所の状況が全てに当てはまらないのです。そんな経験の後は、カルガリーが晴れていても百キロ先、ロッキー山の上空の様子を見てから出かけることにしています。
それはさて置き、空港はカルガリー市の東北の角にあります。南西の方角にダウンタウンが、西に遠くロッキー山脈が北から南へと連なっています。私達がカナダに来たばかりの三十年前は、麦畑の中に滑走路が一本だけの田舎空港でした。ところが観光ブームに乗って整備され今はれっきとした国際空港です。アメリカ、ヨーロッパへの直行便も出ます。日本からは週に一本直行便がありますが、殆どの日本からの便はバンクバー経由、そこで通関してからローカル便に乗り換えてやってきます。此処は日本人旅行者のロッキー山脈方面への出発点となります。
空港でのスケッチ
(1) おせっかい
かつてはカルガリー空港に日本観光客が来るのは夏だけでした。夏になるのを待っていたように日本から観光客がどっと押しかけてきました。ところが最近は一年中切れ目なしに押しかけて来るようになりました。こうした日本人旅行者を見ていると日本人独特の姿が浮き彫りにされて面白いものです。始めのうちは日本人の姿を見るのが懐かしくもあり好意をもって眺めていたのですが、最近はその日本人独特の行動に脅威を感じるようになってきました。団体で傍若無人にどかどかと押しかけて来るのがまず異様です。しかも団体の中だけに一つの世界を作ってしまい、外との接触の無いまま空中をさまようシャボン玉のごとくカナダの社会を漂ってゆくのです。
夏休み中娘二人が空港の土産店でアルバイトを始めました。彼女らがまず驚いたのは日本人観光客の買い物の仕方です。旅行中のことであり多少は財布の紐が緩んでいるとは言え、二千ドル、三千ドルの買い物をいとも簡単にやって行きます。しかも余り考えずに買っているように見えと言います。どんなに高価なものでも一人が買うと連鎖反応のように数人が同じ品物にどっと飛びついてくるようです。また、高価な毛皮を一人で二枚も三枚も買ったと目を丸くして話します。彼女らにとっては貧乏な親たちと違う全く新しい日本人の発見だったのでしょう。
ある日上の娘が憤慨して帰ってきました。今日はものすごい「オバタリアン」に当ってしまったと言います。最近はワーキング ホリデーでやって来る若い日本人とも一緒に働くのでこんな新しい言葉も覚えるようです。娘達は多少英語のアクセントがあるにしても、かなりの日本語を話しまた理解もします。ところがその日は日本語のことでオバタリアンにひどい目に遭わされたと言うのです。
そのオバタリアンは最初娘に商品の説明を求めてきました。娘は「変な日本語」を使った訳でなし、相手は確かに理解し納得したと思うというのです。ところが次の人が娘の所へ説明を求めてきた時「あんたその娘は日本語がわからないからだめよ」とわざわざ遠くから忠告にしゃしゃり出たと言うのです。それも一人だけなら許しも出来ようが、そのオバタリアンは店の中にいる間娘の所にお客が近づく度にその忠告を繰り返し、ついにその団体では商売にならなかったと言う。相手の気分を損なうような事をした訳でもないのに、どうしてなんだろうと首を傾げていました。
その様子を聞いているうちに独断し、それを主張してやまない日本の中年婦人にふっと懐かしさを感じた次第です。何か常ならぬことを発見すると大げさに反応してしゃしゃり出る日本人中年女性の的外れのおせっかい。娘の多少英語がかったアクセントの日本語が彼女にとってたまたま「常ならぬもの」になったのでしょう。少しアクセントのある日本語を日本語で無いとしてしまう独断。しかもそれを新しい発見として強調したかったのでしょうか。外国に来たと言う多少の優越感。それに相反するこの土地や人々への、また言葉への劣等感。これらが交じり合う複雑な感情が無意識にこのような行動として表現されたのかも知れません。
ヨーロッパ人もアメリカ人も時には団体で来るのを見かけます。これらの国の旅行者に比べると日本人の団体旅行者は変な具合にボルテージが高いようです。このボルテージの高さが日本人をして、カナダ人が目をむくような行動に走らせるのかもしれません。一方、カナダに住み着いている者がその行動に恥ずかしさを感じるのは身内としての厳しさかもしれません。これは三十年余日本の外に住んでいても日本人であることに変わりない証なのでしょう。
写真1、南アルバータはカナダ大平原の真っ只中。広い空の下に草原が無限に広がります。遥か彼方は隣の国アメリカです。この草原にカモシカの一種、プラグホーンが群れていました。いつも人間から安全距離を保っているので普通のカメラでは点にしか撮れませんでした。
(1980年8月撮影)
写真2、紅葉の中のカルガリー市。丸い水平線と広い空。平原の中に孤立するカナダ第三の”大都市”です。
(2000年9月30日、Nose Hillより撮影)
写真3、雪のMoraine Lake。夏の顔と違った厳しい表情をしています。雪が降り始めるとこの湖への道路は閉鎖になります。幸いにも閉鎖寸前に入って撮影する事が出来ました。
(2002年10月1日撮影)
氷河をわたる風 Vol.17 高8塩澤千秋
- At 10月 15, 2002
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- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから) [塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
先週、久しぶりにロッキーに行ってきました。 今年は膝を痛めたため夏には一度も行けずに終わりましたが、今回は日本からお客さんがきましたので思い切って出かけました。ところが、山はもう初冬、吹雪に見舞われ、雪の中を5日間ドライブしてきました。ロッキーに初めて来たお客さんには悪かったですが初冬の不機嫌なロッキーの顔をたくさん撮影できました。そのうちにまとめて送りますが一枚だけ添付します。
カルガリーは秋の終わりです。今年の紅葉は3週間ばかり遅れている様子、只今が真っ盛りです。今日も写真機をぶら下げてボー川のほとりを歩いて来ました。アスペンポプラが黄金色に輝いていました。去年の今頃は既に葉っぱが落ち木々は丸坊主でしたが今年は今が一番美しい時です。これらの紅葉が散り始めるともう直ぐ冬です。
(October 8, 2002)
Moss Campionはアルペンメドーにこんもりとピンクのクッションのように丸く柔らかに咲いています。近くのコロンビアアイスフィールドから吹く氷河の風に乗ってきた妖精が一寸腰をおろすのでしょうか、色々なサイズのクッションが散らばっています。別名ではCushion Pink, Dwarf Silene, Catchflyなど色々とあります。 日本名は仙翁。仙人の翁とでも言うのでしょうか、浮世離れした高山に咲く花を現しています。
でも一寸枯れた老年を感じさせます。ロッキーに咲くのは直径0.6ミリくらいの若々しい花を、ジュウタン様に密生した葉の上にみっしりとつけます。 こんもりと盛り上がった様子は華やかなクッションです。年寄の感じはありません。春の雪解けで埴土が流された条件の悪い所にも確りと根を張ってしがみ付いています。可憐ながらたくましさを示す花です。Parker’s Ridgeでは白い花も見つけましたが稀だそうです。
写真1、花はもっと密集して咲きますが、下の葉と蕾を見て頂くためにこの写真を選びました。花は一センチにも満たない大きさです。Parker’s Ridgeに登る途中の斜面で見つけました。(1999年7月19日撮影)
写真2、背景の山はロッキー山の一部です。Parker’s RidgeはColumbia Ice fieldの近くにあります。この景色はIce fieldに背を向けて撮りました。手前の大きなクッションは直径50センチくらいの大きな株でした。(1999年7月19日撮影)
写真3、ピンクのMoss Campionを見付けた所を更に登った所、Saskatchewan Glacierが見える所で白い花の株を見つけました。(1999年7月19日撮影)

左手にはペイトー氷河があり、広大な純白の氷原が谷の奥を塞いでいます。そこから流れ出る水がいくつもの滝となって落ち細流を作ってペイトーレイクに流れ込みます。右手には広い谷が深く伸びコロンビア アイスフィールドの方向へと開けています。谷の斜面は中腹まで針葉樹林に覆われ一直線の森林限界線が際立って見えます。谷底には幾つもの湖が散在します。これらの色の濃い土台の上に明るい淡褐色の岩肌がそそり立ち、その高峰は氷河を乗せ青い霞の彼方まで連綿と続きます。この様な湖の色、森林と雪の山のコントラストは惚れ惚れするほどの素晴らしい絵ですが、此処にはもう一つの楽しみがあります。
草丈は短く日本の南アルプスで見た黒ゆりほどの大きさです。花は鮮やかな黄色で、明るい緑色の肉厚ナイフのような二枚の葉っぱの間から出たしなやかな茎の上に俯いて咲きます。花びらは外に反り返り、その返り方は花によって個性があります。ほかの花が咲くには寒すぎるのでしょうか、この花だけが何百と雪の溶けた部分を覆い尽くします。
かつてはペイトーレイクに観光バスは立ち寄らず、また、展望台もありませんでした。ハイウエーからの道が狭く曲がりくねっていて大きな観光バスが入れなかったのです。実に静かで高山植物の宝庫でもあるのでロッキーの中でも楽しめる場所の一つでした。今は道路が整備され観光バス専用の駐車場も出来一般の自動車がそこに乗り入れると運転手に文句を言われるほど賑やかになってしまいました。

展望台につくと景色がパーツと開けます。またそこは観光バスからの団体旅行者であふれています。日本人が殆どです。日本人旅行者は知らない人と挨拶を交わしません。日本人以外の人達は目が合った場合、大人も子供も「ニコッ」として軽く声を掛け合うのが普通です。ところが日本人の場合声をかけると、探るような、実に警戒的な目を向けられそしてそっぽを向かれるのがオチです。大変後味の悪い思いをさせられます。自分のグループ内では必要以上の嫌らしいほどの馴れ馴れしさを示す一方、外に対しては時には倣岸と思えるほどのそっけない態度をとるのが日本からの団体客です。
上の駐車場から展望台までは柵に囲われたゆるい坂道が続きます。そこを日本人の団体が道一杯となって往き来します。海外に長く住んでいるとこうした所で行き会う日本人にはなんとなく懐かしさを感じ、ちょっと声を掛けたくなるのも人情でしょう。そんな場合の日本人の反応は、声を掛けた方を見ずにサット自分の仲間の顔を見渡すことです。そしていかにも頼りなげな表情を作ります。見合わせて顔と顔の間に何かが流れるのでしょうか、ちょっと間を置いて誰かがおずおずと口を開くか、全員そっぽを向くかです。未知の物に対して恐れと恥ずかしさを必要以上に感じる吾が故郷の人々の感覚は理解できないことは無いが、声を掛けた側にすれば、ちょっと大袈裟かもしれないが故国からの拒絶に遇ったように感じるのです。

ところが、アメリカに移住した早々、おのぼりさんよろしく、女房と二人してニューヨークの町に出かけました。町の中で日本人女性が子供の手を引いて歩いているのを見つけてので、喜んでイスラエル流に二人して手を挙げ笑顔を作ったとたんにそっぽを向かれました。子供に日本語で話していたのですから日本人に相違ありません。二人してアメリカ最初の大ショックを受けた事を今でも思い出します。このような経験を四五回した後二人ともイスラエルで得た習慣をようやく捨てました。こうした人達はきっとアメリカでの新米日本人あるいは日本人旅行者から迷惑を蒙った人達なんだろうと二人で慰めあったことでした。
写真1、夏のPayto Lake、Glacier dustのため刻々と色の変る 湖の色は何時まで見ていても見飽きません。つい次の行程を忘れて見入ってしまいます。谷の奥の方にColumbia Ice fieldがあります。(2000年7月30日撮影)
写真2、冬のPayto Glacierは機嫌が悪く顔を見せません。雪の向こうにかすかに見えるだけです。尤も、何時も機嫌の良いPayto Lakeと違ってこの氷河は夏でも吹雪いているようです。(2001年3月12日撮影)
写真3、Glacier Lily、Payto Lake展望台と反対側に進んだ原っぱに群生していました。片栗の一種。日本には紫の花を咲かす親戚があるようです。(1999年6月29日撮影)
氷河をわたる風 Vol.16 高8塩澤千秋
- At 9月 15, 2002
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- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
日本は残暑で暑いそうですね。カルガリーは日中20度、夜間はぐんと下がって1度になる日もあります。家の前の楓が幾分色づんで来ました。もう直ぐ冬がやってきます。その前の僅かな秋が楽しめそうです。一週間もすると周りは黄色一色となる事でしょう。
今日はは9月11日多発テロがあってから一周年の日。力で主張しない、平和な世の中に何とかなってもらいたい物です。
(September 11, 2002)
冬の前、ほんの一時ロッキーの山に秋がやってきます。氷河の風も身を切るように冷たく感じる時があります。そんなロッキーにも秋には実りがあるのです。沢山のイチゴが稔ります。熊たちは冬ごもりの前にそれをせっせと腹に入れます。この時期の熊は何でも食べます。おなかを一杯にしておかないと春まで生きる事が出来ないからです。山のイチゴは彼らの命の綱です。
一寸谷に下るとGooseberry, Raspberry, Buffalo berry, Blueberryなどなど一杯のイチゴ。中には猛毒の物もあるようですが熊たちはちゃんとかぎ分けています。Gooseberryは信州ではスグリといったように思います。熟すまで待てなくて食べた、白い筋が入った青い実は随分酸っぱかったように思います。ロッキーでも夏は青い実ですが秋には甘い黒ずんだ実になります。熊の上前を一寸失敬して食べたら随分うまかったです。
写真1、 Mt Templeを背景にしたGooseberry。Moraine Lakeの岩山の上で見つけました。(2000年9月12日撮影)
写真2、 Raspberry。Columbia Riverの源流近くに入り込んだ時川のほとりにたわわに稔っていたました。信州の山の中で見つけた熊イチゴにそっくりでした。(2000年8月13日撮影)
写真3、 Buffalo berry。林の中に踏み込んだら一杯の赤い実を見つけました。グミのようです。大変苦いイチゴで、インデアンは腹痛など色々の薬に使ったようです。(2000年8月13日撮影)
カナダのような移民で成り立っている国は総ての人が立派な英語を話すわけではありません。非英語圏からのヨーロッパ人、インド人、香港からの中国人、アラブ人、スペイン語圏からの人、そして日本人。世界のあらゆる所から人が集まっていて、多種多様の“英語”を使います。英語のアクセントを聞けば何処から来たかおよそ見当がつきます。時にはそれを互いにくさしたり冗談にしています。それにしても一番通じ難い英語が日本人の英語のようです。エドモントンで一緒に研究をしていた男はインドからの移民でした。ヒンズー語の重いアクセントがあり、此方は日本流の「物凄い」英語で互いに話しを通じさせてしまったものです。最初は二人とも相手の英語に戸惑い“英語”で話しをしているにも関わらず「オイッ、ヒンズー語を止めて英語でやってくれ」と言えば、相手も負けずに「俺は日本語が解らないんだ。英語で話そうではないか」と冗談を返してきたものです。その内に二人とも段々相手の“英語”に慣れて理解出来るようになるから不思議です。今でも行き会うと、あの時おまえは日本語をしゃべっていた、いやおまえこそヒンズー語を話していたと冷やかしあいます。

こんな現象はカナダのみならず日本以外の国では殆んど起こらないことです。人々は自分の言葉と違う言葉に対して多少の関心を示し、中には「ここはカナダだから英語を話せ」といやみを言う奴もたまにはいます。しかし、どのような言葉を話していてもこのような攻撃的な反応を示したのを今だかつて経験した事がありません。殆どの日本人は長い英語教育を受けるにも関わらず英語はさっぱりだめです。それは外国語に接する機会が少ない事もありますが、日本文の中に意味の通じ難いカタカナ英語をどっさり混ぜる癖に、他の言語を完全な形で日常使う事に対して寛容性がない事にも原因しているのではないでしょうか。怒鳴った人の信条は正確には理解できませんが、彼はかつて英語の授業で悪い点を取った経験があったのでしょう。その鬱憤をここで晴らして溜飲を下げたとしか思えません。日本では語学は学校で習うのが主で、その能力が点数によって示され、人間その者の評価になり勝ちです。その結果劣等感にさいなまれ、自分より優れたものに対するやっかみとなりそれが攻撃的に表現されたのでしょう。その反動として日本語が世界一の言葉と考えようとするのでしょうか。

娘達は日本語もかなりこなしますが、どちらかというと英語のほうがしゃべるのにずっと楽の様です。しかし、日本国内を旅する時には日本語を使う様に仕向けています。そんな二人を連れてある夏日本で汽車の旅をした事がありました。日本国内でもあるし、先に紹介したバスの中での事件も頭にあって三人で”日本語”で話しをしていました。所があちこちの席から珍しそうに此方をうかがう顔がのぞくのです。三人とも回りの日本人と飛び離れて変わった服装をしているわけではないのに、何が珍しいのか理解に苦しみました。その内に思い当たった事は娘達の日本語です。彼女らの日本語には多少英語のアクセントが入る。これは日常注意していてなるべく直すようにしていますが、毎日聞かされているうちに、すっかり慣らされ立派な日本語のように感じさせられてしまっているのです。しかし、それが日本では異物感を感じさせるのでしょうか、乗客を落ち着かなくさせ、好奇心の的となったようです。
しかし、逆にカナダを旅していて娘達と英語で話しをしていても、親の、明らかに日本語のアクセントのある酷い英語に誰も関心を寄せません。日本人は非自己即ち自分の同属で無いものに対して実に敏感に反応すると共に、それに対する寛容性が狭い様に見えます。異文化への接し方が大変うぶのようでこちらがまごつくほどの反応を示すのです。
これは日本国外にあっては実にユニークな事です。このユニークさは外国、外国人との接触が稀な島国に住んでいて、個人として異文化に直接接触する機会が少なく、また海外旅行でも「日本」と言うシャボン玉に入って漂う日本人に永遠に受け継がれる形質の様です。
写真1、 ロッキーの紅葉。バンフから旧道1Aをドライブしているとき見つけました。黄色ばかりの世界です。(2000年10月1日撮影)
写真2、 紅葉のコロンビアアイスフィールド。(2000年9月12日撮影)
氷河をわたる風 Vol.15 高8塩澤千秋
- At 7月 15, 2002
- By admin
- In ふるさとへの便り, 氷河をわたる風
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高8 塩澤千秋 (カナダ カルガリーから)
[塩澤さんへの質問や感想はこちらへ] cshio@shaw.ca
飯田は暑い事でしょう。まさに夏の真っ盛りじりじりと照りつけて、涼風が恋しい時期ですね。これからは夏祭りの時期あちこちで盆踊りがあったり、花火が上がる事でしょうね。飯田の花火は今でも目に浮かびます。もう、見る機会はないような気がします。日本の夏は良いですね。この暑さが美味しい物を作るのでしょう。
カルガリーは先週まで珍しく30度を越える日が続いて、日本より暑いかなと思っていましたが、今週になり曇りと雨の日が続いて、日中15度、夜間1度と急激に気温が下がりました。今日は晴れたのですがそれでも日中19度、一寸寒く感じます。今夜は予報では7度。飯田の初冬の気温でしょうか。過ごし易い夏ですがその代わりこの辺りでは小麦以外たいしたものは採れません。果物、野菜は全て輸入品です。日本の夏が、果物の匂いやせみの声と共に恋しさを募らせます。
(August 6, 2002)
氷河をわたる風(15) Heather
フェザー、英語の辞書を引くとヒースとも言うと書いてあります。ヒースの野といいますとブロンテの小説「嵐が丘」に出てきますが、背丈が結構あって猛々しくイギリスの荒野を演出しているように感じます。しかし、高山性のヒースは小さくて可愛いです。花は5ミリ一寸、つぼ型、ベル型、色は白、ピンク、赤と色とりどりです。ロッキーの山には高い所に絨毯を敷いたように群生しています。一寸見は杉苔を連想させます。その上を氷河の風が滑らかに渡ってゆきます。この花の咲く頃はロッキー山は夏の真っ盛り、沢山の人で賑わいます。しかし、日本のアルプスよりははるかに人が少ないです。少し奥に入り込むと全く人気がなく、熊殿の出現を心配しなければなりません。
写真1、赤のフェザーはMoraine LakeからLarch Valleyを経てSentinel Passに登る途中で見つけました。山の全斜面を覆うほどの群生でした。
(1999年8月3日撮影)
写真2、白いフェザーはPeyto Lakeの斜面で見つけました。ここも針葉樹の間に斜面一杯を覆って咲いていました。
(1999年8月2日撮影)
写真3、ピンクのフェザーも同じくPeyto Lakeの斜面で撮影しました。
(1999年8月2日撮影)
写真4、赤いフェザーの絨毯。背景はTen Peaksの氷原。
(1999年8月3日撮影)
大陸横断鉄道はロッキーの谷間を縫って行きます。ヴァンクーヴァーから二本の鉄道が出ていて、一本はカナデアン・ナショナル鉄道、ヴァンクーヴァーからロッキーの谷間を縫ってジャスパーを経てエドモントンに至り更に東に行きます。もう一本はカナデアン・パシフィック、ヴァンクーヴァーからバンフに抜けカルガリーを通りトロントへと向かいます。

かつて、この両方の鉄道は一日上下一本ずつ客車を運転していました。ダイヤはロッキー山の谷間を通過するとき風景が見られるように調整してありました。悲しいかな、近年採算が取れないと言う理由でエドモントンを通る客車は火・金・日の三本のみとなりカルガリー通過の客車は全面的に運転中止となり貨物列車だけとなってしまいました。従って、次の話はこれらの客車が順調に営業されていた頃の事です。
ヴァンクーヴァーでの学会の帰りでした。貧乏学者時代、予算の方は乏しかったのですが時間の方はたっぷりあったので汽車の旅となりました。同行者は同じような貧乏学者のインド人共同研究者それと数人のポスト・ドクター、大学院の学生などでした。この列車には展望台がついていて、そこで一杯飲む事が出来ました。余談ですがここのサービスは列車の通過している州の法律によって規制されています。例えば、日曜日アルバーター州からとなりのブリテッシュ・コロンビア州に向かって走っている場合、アルバーター州内を走っているうちはアルコール類を買う事が出来ます。ところが州境を列車が越えると同時に販売を中止し、バーを閉めてしまいます。日曜日のアルコールのサービスはアルバーター州では構わないのですがブリテッシュ・コロンビア州では営業を法律で禁じているからなのです。


翌朝食堂車で朝食を済ませて自分の席に戻っていると、それを追う様にして食堂車のウエーターがやって来て、一寸頼まれてくれと言うのです。何事かと食堂車に行くと、入り口に、昨日とは別の日本のお嬢さん達が突っ立っています。食堂車は混んでいて席は全部ふさがっていました。四人とも戸惑ったような、腫れっ面のような、なんとも不安定な表情でした。テーブル脇に立たれた近くの客はいささか迷惑そうでもありました。ウエーターがぼやくには、今食堂車は混んでいるから三十分ほどしてから来てくれ。そうすれば皆さんの席は必ず取っておくからと幾ら説明しても解ってもらえず、混雑した食堂車の入り口を塞ぐ様にして席の開くのをじっと待っているというのです。何とか説明して引き取ってもらえないかという事でした。この国に住んでいると、ウエーターなどに頼まれて、時にはこんな通訳のサービスもしなければならなくなるのです。
自分も外国に出たばかりの頃、正直に言えば三十年近く経った今でも言葉の問題では散々な目に逢っています。初めての日本からの旅の途中、モスクワでは、言う事が分からなくて、ホテルの若い受付の女性に怒鳴られ、それまで淡い夢を託していた社会主義国ソビエトが一変して嫌いになってしまいました。またイスラエルでは教授との会話でゆっくり話していてくれたにも関わらずさっぱり理解できず、最後には黒板に書いてくれたものまで解らず、彼をがっかりさせた事がありました。

写真1、中央、一番目立つのはMount Babel。中腹に大きな懸垂氷河を抱えているのはMount Fay、左方向に延びています。Mount Babelの尾根がMoraine Lakeに突き出した先に巨大な筒状のTower of Babelが立っています。
(1994年10月撮影)
写真2、Yoho Park, 岩壁上部から噴出しているTakakkaw Falls。発音はTAH-kuh-kahだそうです。Cree Indianの言葉で“It is wonderful!”と言う意味。
(2001年8月25日撮影)
写真3、Sentinel Passにたどり着きParadise Valleyを覗き込むと途中に石塔が立っている斜面が見えます。その立ち姿が衛兵Sentinel)のようなのでこの峠の名前になりました。
(2000年8月11日撮影)
写真4、霧の中のMount Castle。この山の向こうの中腹には素晴らしい湖があり、一杯の花が咲いているのですが、グリズリー熊がいるので何時も入山禁止です。ハイウエーから何時も見えているのに登った事がありません。
(1976年8月撮影)