編集委員の小林敏昭さんが飯田お練りまつりに出演
- At 2022年3月30日
- By kaishi
- In ふるさと情報便, 会報編集委員会
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同窓会報編集委員の小林敏昭さんが、令和4年3月25~27日に開催された飯田おねり祭りの出演団体「飯田銀座次郎長道中」に役者の一人として出演しました。
銀座商栄会のおなじみの店主らにまじって出演した小林さん。さて、まずはどの役者が小林さんかわかりますか?
映画などでお馴染みの次郎長一家の28人衆のうち、小林さんは「小松村七五郎」の役でした。
粋でいなせな旅姿に身を包み踊る小林さん。切れ長の目に苦み走ったいい男というところでしょうか。
後ろ姿もおひとつ。
ドアップもおひとつ。
銀座で高齢者施設の責任者をしている小林さん。しっかりと地元に溶け込んで、中心市街地の心意気を示した活動に拍手です。
桜情報 ⑤ 桜まつり 他 と 選挙結果
- At 2019年4月9日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便
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4/7は大宮通り桜並木で桜まつりが行われました。去年は、花が散った後で天気も雪が舞う程の寒さで最悪でしたが、今年は最高のコンディション^^開花が遅れていたソメイヨシノも、前日に満開^^心配だったお天気も、ポカポカ陽気^^人出も多く賑わいました^^
通りではフリーマーケットなどが並び、花見客の皆さんを楽しませていました。
実は私もお役目で、交通警備係。踏切近くの交差点で、入って来てしまった車の誘導などをしていました^^;
近くでは、消防団が子供たちに消防車の乗車体験。去年は無かったこのアトラクションは人気を集めていました^^
この日は県議選の投票日。桜まつりの前後に投票した人も多かったのかな。私は警備に付く前に投票を済ませました。結果は・・・⇒南信州新聞
その他の桜もご紹介していきますね!桜の状態は撮影日を参考にしてください。
先ずは、江戸町の黄梅院の桜です。此処のベニヒガンの枝垂れ桜は色が濃くて形も素晴らしい。樹齢は350年程になります。黄梅院と言うのは武田信玄の長女の名前。若くして亡くなった姫を祀った寺とも言われています。全国的には他にも数カ所ありますね。(4/5 撮)
江戸町の正永寺は、大規模な改修工事中です。お花見が出来るような雰囲気ではないですね。
樹齢350年程の枝垂れ桜ですが、枝振りが寂しくなっています。それでも残った枝が奇麗に花を咲かせています。(4/5 撮)
こちらは普門院跡の糸桜。桜の裏側にはかつて堀氏が祀った普門院がありましたが、明治政府の神仏分離令によって廃寺とされ無くなってしまいました。糸桜も江戸時代からの物は大きくなり過ぎて倒れてしまい、今のこれは3代目との事です。寺が無くなった事で民家や電線が近く、風情も乏しくなってしまいました。
良い桜なんですがね~~^^;(4/5 撮)
温故知新 ② 大江磯吉
- At 2019年2月18日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便
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下伊那中学校の卒業生を見てみましょう。記念碑には「生徒は65名であった」とありますが、同窓会名簿を見ると下伊那中学校修了者は50名となっています。15人の方はどうされたのか?留年?退学?当時から進級や卒業が難しかった様ですね。また「明治17年8月終了」とあります。高校の沿革を見ると、「8月に群立中学校廃止、県立中学となる」とあるので、8月に卒業となった様ですね。前回「卒業時は二の丸跡の新校舎」と書いてしまいましたが、11月に二の丸跡に新校舎竣工とあるので、卒業時はまだ専照寺と思われます。
50名の中に気になる名前が!大江磯吉と菱田為吉の名があります。
大江磯吉は皆さんご存知でしょうか?かく言う私が知ったのは数年前です^^;偶然いただいた在京飯田高校同窓会誌「稲穂」11号に、吉澤香代子さん(高14回)が書いた随想「大江磯吉の胸像建立」が載っていたのです。それまでは名前を聞いた事がある程度でした。「破壊」のモデルと言われていますが、不勉強の私は未だ読んでいません^^;
今回これを書くにあたって色々調べたのですが、「稲穂」11号は大江磯吉関連資料として飯田図書館にも所蔵されています。
https://www.iida.nanshin-lib.jp/portal/cmsfiles/contents/0000000/385/h_oe.pdf
こちら ↓ からその全文を見る事が出来ます。是非ともご覧になってください。
https://iikou-d.jp/affiliate/tokyo/files/2014/11/tosui11_p13-16.pdf
名簿に「下伊那中学校終了者」が載っているのは、吉澤さんの尽力と分かります。
胸像は、伊賀良の円通寺に設置されたとの事です。円通寺の境内にはかつて磯吉が通った「知止小学校」が在ったとの事です。では行ってみなければ!
目指す胸像は境内の庭に設置されていました。お顔が若い!それもその筈、35歳の若さで亡くなっています。当時は兵庫県柏原(かいばら)中学校長でした。そこで郷里から母危篤の知らせを受け帰郷。自身も大病を患いどうにか回復した身。そこに長旅の疲れも加わって、腸チフスに感染。帰郷はしたものの、母を看取る前にご自身が亡くなってしまったのです。
胸像の製作は南島和也さん(高43回)との事です。此処の他、下伊那教育会館、伊賀良小学校にも設置されています。
ではお墓は?下殿岡の中部労働技能教習センター脇の通路を入った所にある、共同墓地に眠っています。以前この通りを通った際、偶然 案内板を見ていました。その時は通り過ぎてしまったので、今回改めて行ってみました。
広場の脇に「従七位大江磯吉先生の一生」と記された案内板がありました。34歳の時に従七位!特別に優秀な方だった事が分かりますね。享年35歳。法名は「謙譲院秀法智才居士」法名そのままのような生涯ではあった・・・と書かれています。
被差別階層の家に生まれた事で幾多のいわれなき迫害を受けた磯吉。いわゆる「部落差別」「同和問題」ですが、私は子供の頃そういう言葉を聞いた事がありません。しかも小学校では町内会の集まりを「部落会」と言っていました。それが今では部落=被差別部落 と言う意味合いになっていますね。そんな風潮には違和感を覚えます。地元にこの様な差別があったと言うのも意外でした。
お墓の脇には、遠目でもそれと分かる案内があります。墓石には「従七位 大江磯吉之墓」と刻まれています。機会がありましたら大先輩の墓参りも如何でしょう!
大江磯吉は、島崎藤村の小説「破壊」のモデルとも言われています。それを最初に言い出したのは、どうも高野辰之の様です。氏は、唱歌「ふるさと」や「おぼろ月夜」等の作詞者と知られる文学者。出身地の中野市には「高野辰之記念館」が在ります。辰之はかつて飯山市の真宗寺に下宿していて、その寺の娘さんと結婚しています。
「破壊」の主な舞台は飯山市。主人公瀬川丑松が下宿していた「蓮華寺」の描写は真宗寺。住職は生臭さ坊主。丑松がエタと知ると直ぐに追い出し畳替えをして塩をまいた、となっています。「破壊」を読んだ辰之は、義父はそんな人物ではないと憤慨し「唖峰生」という名前で抗議文を雑誌に投稿。それには・・・しかし丑松が差別されていたのと同じようなことがあったのは本当だ。あの大江磯吉が飯山に講師として招かれた時最初に泊まった寺でも、大江が「エタ」だと知るやいなや彼を追い出し、すぐさま畳替えをして塩をまいた、そういうことが本当にあったのだから・・・とも書かれていたそうです。
藤村もこれに対し別の雑誌に反論を書いています。あれは小説として書いた。それを事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である、と。
藤村は「破壊」を書く前に飯山を取材で訪れています。真宗寺へは下宿を営んでいる寺を描く参考のため、偽名で訪れた。でも連れの女学生に問いただすと、島崎藤村という小諸義塾の先生と分かった。住職は「手厚くもてなしたのに恩をあだで返された」と言い、辰之に「破壊」を読ませたのでした。そんなこんなで藤村と真宗寺の関係がギクシャクした時期があった様ですが、昭和40年真宗寺境内に「破戒」の文学碑が建立されています。除幕式には藤村の長男 楠雄氏も出席した との事です。
部落差別は、南信地方ではあまり耳にしませんね。でも同じ県内でも北信地方 特に千曲川流域では、被差別部落が多く差別意識も強かった様です。明治5年の「小学校令」の際にも、被差別部落の子供たちは学校に行けなかったと聞きます。
磯吉は知止小学校から飯田尋常高等小学校(現追手町小)へ進み、卒業時には成績優秀で下等科の助教に採用されています。更に下伊那中学が開校すると直ぐに入学。卒業後は長野師範学校(現信州大学教育学部)へ進んだのですから、勉学に関して差別される事は無かった様ですね。しかも地域の人々の支援も少なからずあったそうです。磯吉にとって、この地に生まれた事は不幸中の幸い とも言えそうな気がします。
次回はもう一人の大先輩、菱田為吉に付いて調べる予定です。(高18回 高田)
温故知新 ① ルーツ
この度HP委員会に参加する事になりました高18回 高田です。主にこの「ふるさと情報便」を担当していきます。
では何から?最初ですから、ルーツを訪ねてみたいと思います。過去に先輩方も載せていてダブル事も有ろうかと思いますが、その辺はご了承ください。
本校は、明治15年にここ永昌院で下伊那中学校として開校しました。最初は寺子屋スタイルだったようですね。永昌院は飯田城主が京極氏の時代に現在地に建てられたと言われています。脇坂氏の時他所へ移されましたが、堀氏の時代に現在地に戻されました。
伝馬町からの参道入り口に、下伊那中学校が此処で開校したと書かれた案内板があります。
境内には、独立100周年を記念して建立された記念碑があります。
細かい文字は読めますかね?
【下伊那中学校は明治15年6月27日ここ永昌院に開校 生徒65名であった。
16年 専照寺に移る。】 1年そこそこで移転したわけです。
専照寺は松川町に建てられた後、飯田城主が小笠原氏だった時代に現在地に移されたと言われます。入り口の薬医門は、伊豆木の小笠原屋敷の鼓楼門を移築したもので、その際太鼓を外し鐘と取り換え鐘楼門となっています。本堂前のシダレザクラは、推定樹齢400年。脇坂氏の弥陀四十八願桜の1本と言われています。
【17年8月 長野県中学校飯田支校となり 11月長姫城二の丸跡の新校舎に移転したが・・・】1年そこそこでまた移転です。新校舎に移転、とあるのでお寺は仮住まいだったのかな?
二の丸跡、今は市の美術博物館ですね。この長姫の江戸彼岸桜は、藩主堀家の家老 安富氏の屋敷跡近くにあった事から「安富桜」とも呼ばれています。推定樹齢450年以上と言われ、県の天然記念物に指定されています。市内に数ある桜の中でも人気が高く、多くの観光客が訪れています。
応援歌「長姫城頭」はこう言った歴史背景から来ているのですね。
碑文の続きです【・・・19年4月閉校となった しかし中学校設置の郡民の要望が強く7年後の26年4月長野県尋常中学校飯田支校として復活し 32年4月長野県松本中学校飯田支校となった さらに郡民の熱望が実り33年(1900)4月15日独立中学校として長野県飯田中学校が誕生した】
この碑は、独立100周年記念事業実行委員会(委員長 長坂好忠 中41)の皆さんが、平成12年(2000)4月に建立しました。2,000年が100周年。覚えやすいですね。
では下伊那中学校 最初の卒業生は、どのような方が居るのでしょうか?入学時は永昌院、卒業時は二の丸跡の新校舎。これだけでも波乱に満ちていますね。名簿を見ると、その中に大江磯吉の名があります。次回はその辺を紹介したいと思います。 (高18回 高田光浩)
母校、邦楽班が京都で演奏します「45高校伝統文化フェスティバル」のご案内
- At 2016年11月3日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便, 支部, 関西支部
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母校、邦楽班が京都で演奏します。
入場は無料ですが、入場券が必要です。
入場券の申込は11月18日(金)が締め切りです。
(申込多数の場合は抽選)
詳細は、「高校伝統文化フェスティバル案内.pdf」をご覧ください。
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「第5回記念大会全国高校生伝統文化フェスティバル」
http://www.pref.kyoto.jp/koukoudenfes/news/press/2016/7/dantaisyoukai.p:
//www.pref.kyoto.jp/koukoudenfes/news/press/2016/7/documents/syousaisyoukai.pdf
開催日時 :平成28年12月18日(日曜日) 午後1時~午後4時30分
会 場 : 京都コンサートホール・大ホール
京都市営地下鉄烏丸線 北山駅下車。1番又は3番出口 南へ徒歩5分
還暦を迎えた強歩大会
- At 2016年6月3日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便, 強歩大会実行
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2016.5.27付 信濃毎日新聞に大きく報道させる。
もう強歩大会も、還暦なのか。それなりの歴史を刻み、60年、時代の流れの中で、何度も変更され、距離も変更されてきたが、競歩でなく、強歩は貫いてほしい。当時の心得にも記載されているが、「人生の縮図であり、忍耐力をもって、力の限り強く歩いてみよう」 新1年生には、最初のイベントであるが、飯田高校の良き風潮を味わえたのかな。
第55回強歩大会にも,寄ってください。
高13回生飯田商工会柴田会頭続投表明
- At 2013年10月9日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便, 回数学年, 高13回
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10月31日任期満了に伴う選挙に、会頭続投を表明、3号議員会議にて異議がなく、臨時議会総会にて承認される見通しである。2010年今村八束前会頭(同窓会副会長高15)から引継ぎ、会議所体制の構築、商工会館建築、リニア、三遠南信道開通に伴う諸問題等山積、中途半端でなくバトンタッチしたいとの考えから続投を決意。10月10日付け南信州新聞に載る。
飯田高校邦楽班国立劇場で晴れ舞台
- At 2013年8月26日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便, 班OB, 邦楽
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先日第37回全国総合文化祭で見事最高賞の大臣賞を受賞した。25日国立劇場で優秀校が集う東京公演が行われた。26日付け信濃毎日新聞1面に掲載される。信毎では、紙面のように、専用アプリのインストールによりスマホで動画が見られるサービスがあります。
9月1日付け地元新聞信州日報1面に載る。
55年の歴史をもつ強歩大会
昭和31年生徒会発案のこの強歩大会、今年で55年を迎えた。時代と共に変わりはしたものの、自分の力に挑戦する良い機会であった。今回第62号同窓会報で、55年の記念特集を組まれた。
ちょうど第3期 夜間強歩(昭和38年)第7回 74Km最後の強歩大会資料が手に入ったので、懐かしさと共に紹介しよう。記録によれば、完歩率が過去最高の74.8%だった、36災害で前年度が中止のなったことと女性軍の完歩率が高いことでの数字だろう。第8回は、大幅にコースが変更され、北は上片桐までとなり、距離はやや短縮され70Kmになった。
~~強歩心得~~ (抜粋)
◎主眼
・人生はマラソンであると言う、この強歩もある意味では人生の縮図である、完歩した時の満足感を思い、強い忍耐力を持って、力の限り歩いてみよう
◎日程・・出発・・男子コース午後10時15分花火合図・・女子コース豊丘役場にて仮眠後 午前1時30分
日程・・終了・・男女とも午前11時30分
◎歩行中の注意
・飯田高校生として恥じない行動と、娯楽的気分で歩かない事。
・夜中なので、付近民家の安眠を妨げない様注意する。
・歩行はなるべく3~5人の集団で歩行し、特に女子は集団行動する。
・長距離歩行するので、自分の脚力を考え、最初から無理をしない様に。
・生水を飲むと腹をこわすから気を付ける事、また休憩所にある食べ物はむやみに食べない事。等
◎服装
・トレパンが適当、上着は自由であるが、着物・ユニホーム等 不真面目なものは一切着用しない事、男子は、必ず制帽を被る事。
・服装は軽装が望ましいが、朝方の寒気に備え、手袋、チョッキを用意する。
・履物は履き慣れた物に限る、底の厚い物がよい、薄い物は中敷を入れ工夫する。下駄は禁止する。
・マメなどで歩けなくなるので、ぞうりを用意する、(切れる場合を考え2足用意)
・まめの出来るのを防ぐ工夫
・ィ 靴下に石鹸を良く塗る
・ロ 靴下はつぎのあたっていない物を使う
・ハ 痛みを感じたらすぐにバンソウコウをはり、未然に防ぐ。
◎携帯品
・おむすびは 小さめで塩気が多いもの、氷砂糖・スルメなど 歩きながら食べれるものを、ポケットに入れておくと良い。
・バンソウコウ。胃腸薬等用意するのが望ましい。
◎落伍・急病者は関門票を必ず関門要員に渡す事。
・不要になった防寒具等は、名入りの風呂敷に包み先導車か後尾車に預ける。
◎回想
三六災害翌々年行われたこの大会、今考えれば、舗装道路は無く、でこぼこ道、確かに底の厚い物を推奨したのが解る、しかしこんな良い物を履けるのは極一部で、今のカンフウ映画に出てくる様な、薄でのズックが主流でした、それさえも履けず、1年間素足で下駄が多かったから、この時だけズックは、キツイ、今のスニーカーの様な かかとが厚く柔らかではなく、薄いのに内側に折って縫ってあるから、まめはてきめん、皆 まめ対策だけはした。私は第6回一年の時 友達と集団で、女性軍の出発する神稲(豊丘役場)に追い着こうと、休息所にある近所の方のご馳走を横に見て、ひたすら走った、考えてみれば フルマラソンの距離に近い、当たり前だ 着いた時は、とっくに出発した後、根も尽き豊丘で脱落。この第7回大会は何としても、「バッチ」をと思い、出発、しかし高森の友達は、前回のリベンジと急ぐ、松川の橋が見えたら、あっさり帰えってしまった。すでに力も無く、一足目のぞうり(草鞋)も切れ、無言でひたすら歩く、風呂敷に包んだ、小さなおむすび2個がずっしりと肩に食い込む、歩きながら食べる、むなしいけどおいしかった。どんどん抜かれ、後尾車に尻をたたかれ、日が出るころには、寒さと空腹 飲み水さえない、休んだら終わりと足をひきずった、12時間かけ、やっと完歩した。校門を入ると、完歩者があちこちで腰を下ろしたり、寝そべって居る、私も仲間に入った。今のように家の者が車でお迎え、などまったく無いから、電車か歩いたのだろう、覚えていない、家について、爆睡、足の爪が真っ赤く、筋肉がパンパンで2・3日トイレでしゃがむ事が出来なかった事を、未だに、思い出す。これが人生の縮図だったのだ。しかし、今で言うピンバッチ、制帽に付けて歩くのが、1つの勲章でもあり誇りであった。 (高16回 斎藤)