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東野支部総会

4月28日に、東野公民館に於いて東野支部総会が開かれました。復活後2回目の総会です。当然ですが平成最後の総会となりますね^^;まずは副支部長の小島さん(高26回)の開会宣言から始まりました。

続いて高田支部長(高9回)から、開会の挨拶。来賓の紹介と進行。

来賓は宮島同窓会長(高15回)。
「本来はトップ当選でしかるべきと思われていた小島さんですが、思わずもがなの苦戦でしたね。ともあれ当選おめでとうございます^^」等とユーモアを交えての挨拶で始まり、同窓会の現状報告。会費の納入にご協力を・・・と言う事もさり気なく^^

続いて小島副支部長から、事業報告、会計報告が行われました。

これに付いては、大鋸監査役(高11回)からの監査報告で承認されました。

議事の方はスムースに進み、アトラクションのマリンバとオカリナのコラボ演奏へ。予定では林宗吉さん(高20回)のマリンバ演奏でしたが、体調を崩して入院中との事。

林さんが代役を依頼し、オカリナの湯澤俊和さん(高21回)とマリンバの澤柳明子さんのコラボ演奏となりました。お二人は喬木村在住で、度々共演されているとの事でした。

先ずは湯澤さんのオカリナで「小さな旅」、「蘇州夜曲」を♪

続いて澤柳さんのマリンバで「くるみ割り人形」メドレーを。演奏に先立って曲の解説も^^

コラボで、「コンドルは飛んでいく」、「オモチャの兵隊の行進」、「さくら」と続き、

「花」は全員で合唱も♪

最後はオカリナの伴奏で校歌を合唱 ♪^^

最後は支部長の挨拶で懇親会へ。

和やかに歓談し、お開きとなりました。

(高18回 高田)

温故知新 ① ルーツ

この度HP委員会に参加する事になりました高18回 高田です。主にこの「ふるさと情報便」を担当していきます。
では何から?最初ですから、ルーツを訪ねてみたいと思います。過去に先輩方も載せていてダブル事も有ろうかと思いますが、その辺はご了承ください。

本校は、明治15年にここ永昌院で下伊那中学校として開校しました。最初は寺子屋スタイルだったようですね。永昌院は飯田城主が京極氏の時代に現在地に建てられたと言われています。脇坂氏の時他所へ移されましたが、堀氏の時代に現在地に戻されました。


伝馬町からの参道入り口に、下伊那中学校が此処で開校したと書かれた案内板があります。

境内には、独立100周年を記念して建立された記念碑があります。

細かい文字は読めますかね?
【下伊那中学校は明治15年6月27日ここ永昌院に開校 生徒65名であった。
16年 専照寺に移る。】 1年そこそこで移転したわけです。

専照寺は松川町に建てられた後、飯田城主が小笠原氏だった時代に現在地に移されたと言われます。入り口の薬医門は、伊豆木の小笠原屋敷の鼓楼門を移築したもので、その際太鼓を外し鐘と取り換え鐘楼門となっています。本堂前のシダレザクラは、推定樹齢400年。脇坂氏の弥陀四十八願桜の1本と言われています。

【17年8月 長野県中学校飯田支校となり 11月長姫城二の丸跡の新校舎に移転したが・・・】1年そこそこでまた移転です。新校舎に移転、とあるのでお寺は仮住まいだったのかな?

二の丸跡、今は市の美術博物館ですね。この長姫の江戸彼岸桜は、藩主堀家の家老 安富氏の屋敷跡近くにあった事から「安富桜」とも呼ばれています。推定樹齢450年以上と言われ、県の天然記念物に指定されています。市内に数ある桜の中でも人気が高く、多くの観光客が訪れています。

応援歌「長姫城頭」はこう言った歴史背景から来ているのですね。

碑文の続きです【・・・19年4月閉校となった  しかし中学校設置の郡民の要望が強く7年後の26年4月長野県尋常中学校飯田支校として復活し 32年4月長野県松本中学校飯田支校となった さらに郡民の熱望が実り33年(1900)4月15日独立中学校として長野県飯田中学校が誕生した】

この碑は、独立100周年記念事業実行委員会(委員長 長坂好忠  中41)の皆さんが、平成12年(2000)4月に建立しました。2,000年が100周年。覚えやすいですね。

では下伊那中学校 最初の卒業生は、どのような方が居るのでしょうか?入学時は永昌院、卒業時は二の丸跡の新校舎。これだけでも波乱に満ちていますね。名簿を見ると、その中に大江磯吉の名があります。次回はその辺を紹介したいと思います。                                                         (高18回 高田光浩)

 

 

 

 

 

 

東野支部 復活の総会

東野支部は平成13年に結成されましたが、ここ10年あまりは休眠状態でした。
柱となる役員の方が亡くなられた事もあり、結集力も薄れていました。
このままでは消滅してしまうと、昨年7月既存役員と新たなメンバーで暫定役員会を発足。
数回の検討会を経て、この度平成30年度東野支部総会の開催に至りました。

4月29日東野公民館に於いて、同窓会副会長の大田中さんを来賓に迎え支部総会が開かれました。


議案に移り、東野支部規約の改定、会計報告、支部役員が決まりまり、支部長の高田大八氏より、新役員が紹介されました。

役員は次の通り(敬称略)
顧問:鋤柄奏 、副支部長:小島康晴、会計:篠田仁宏、幹事:松澤卓治・中田勝久・三村諭吉、監事:大鋸寿六・平沢忠明

この後 高田大八氏が「周平作品拾い読み」と題した講演。小説家 藤沢周平の作品等が紹介されました。

藤沢周平は、山形県鶴岡市出身で本名は小菅 留治(こすげ とめじ)。山形師範学校卒業後は優秀な教師として将来を嘱望されていたが、肺結核により入院し休職。退院後は『日本食品加工新聞』の記者となる。勤務のかたわらこつこつと小説を書き始めた。ペンネームの「藤沢」は妻の実家の地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は妻の親族の名から採られている。その奥さんは急性の癌により28歳の若さで急死。やり場のない虚無感をなだめるために時代小説を書く様になる。
昭和46年「溟い海」で、第38回「オール讀物」新人賞受賞。昭和48年「暗殺の年輪」で、第69回直木賞受賞。昭和61年「白き瓶」で、第20回吉川英治文学賞受賞しています。
その他「たそがれ清兵衛」「武士の一分」等は映画化もされたので皆さんもご存知でしょう。
若い頃の結核手術の際輸血により肝炎に罹患し、1997年に肝不全のため69歳の若さで亡くなりました。

講演の後は机を並べ替え懇親会。

閉めはやっぱり校歌ですね^^

(18回 高田記)